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余韻

余韻…

わたしの好きな言葉の1つです。その言葉も好きだけど余韻に浸ること自体が好きです。いや、好きというか何か心を動かされるようなことがあれば、世の中の人がみんな当たり前に余韻とセットで楽しんでいるんだと思っていました。

例えば…幸せだなぁと感じた時、この感覚をずっとずっと忘れたくないからしっかり覚えていようと意識的に記憶に残るよう自分に刻み込む努力をするし、ステキな絵や音楽を楽しんだあとには、しばらくその空気に包まれているような感覚になる。そしてそれが、たまらなく心地よくて…

そもそも、なぜ余韻について考え始めたかと言うと、私普段からすごく忘れっぽくて、いろんなことを自分がビックリするくらいすぐ忘れます。だから余計に「忘れたくない!!」って強く思ういのかもしれませんが、この忘れてしまうことについて友人と話していた時、余韻の話になったんです。

大好きな時間や、そこにある空気感、その時の感触を忘れたくない!!と伝えたら、その友人は「幸せな時っていうのは、それ自体で満たされてるから思い出す必要はないんじゃないか?」と言いました。

ほう!

そして友人は余韻を感じることはない!と言い切りました。

えぇえ!!?

余韻を感じる時間が大好きな私からすると、目の前に宇宙人が出現したような衝撃で、軽くパニックになりました。

先述の友人の発言は、一見思い出について言っているようにも思えますが話していたのは、間違いなく余韻の話でした。その【思い出す】が、わたしの余韻とは少し違っていて、特に思い出そうとしているわけではなく自然に感じているのです。【自分の中に残っている】という表現が近いかもしれません。

わたしは、当たり前のように余韻を感じ過ぎていて、余韻を感じない人がいるなんて想像もしていなかったので、ただただ驚きでしかありませんでした。

そして友人は続けて言いました。「いつも幸せだったら、幸せだった時を思い出さなくていいもんね。」と。

確かに、そうだな。幸せな時は、またそれを忘れたくない作業に無意識のうちに入っていると思います!

とどのつまり、わたしたち余韻を感じる者たちは、人生の中で出来るだけ幸せな時間を多くするために余韻を感じ、それを反芻することを繰り返しているのかもしれません。

幸せじゃない時を、幸せな記憶でカバーするような感覚でしょうか?でも、ここでいう幸せじゃない時というのは、決して不幸という意味ではないんですけどね。

そう考えると、何とも欲張りだな自分(笑)

そんなことを考えていたら、余韻と思い出って何が違うんだろう?という疑問が湧いてきました。

子どものイベントをビデオカメラで撮影するよりも、この目でしっかり見たいと思うことがあります。

この時、もしかしたら余韻のために動いているんじゃないかな?と思うんです。もちろんその一瞬を、今を、見て感じることが1番楽しくて大切なのは大前提ですが…

ということで、わたしなり現在の見解は

余韻は、自分の感情そのもので意識的に思い出さなくても自分の中に残っているもの。思い出は、意識的に呼び起こす余韻を含めた事実での記憶。

となると、1番初めに書いた幸せな時を意識的に刻み込む努力をするというのは、やってもやらなくても残るものは残る!残らないものは残らない!ということで、不要な作業なのかもしれません。

忘れっぽい私が感じるものや、その後覚えていられるものこそが、本当に覚えていたいことであるとも言えます。(仕事に支障が出たり周りに迷惑をかけるほど忘れないようにしないと!!)

余韻を感じる、感じないに、もちろん優劣があるわけではないですが、なぜ自分が余韻を感じることを自然としているのか、もっともっと知りたいなぁと思っています☻また、それも書ける日が来たら是非読んでいただけると嬉しいです。






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