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喫茶店MEMORYのこと

文光堂2階の喫茶店MEMORYについて書きたいと思います。
ほんと名前の通りの思い出話になりそうです。
人の思い出話なんて面白くもないだろうと思いつつ、建物も壊されつつある今、書きとめておきたい気がするので。

私は東京の外れ田無市から中学入学と同時に佐倉に引っ越してきました。
両親は田無の貸店舗で文具店を営んでいましたが、自宅と店が別だったこと、いつまで借りれるか保証もないことなど諸々で、父親がゴルフで千葉に訪れていた縁で京成臼井駅近くに土地を購入し、1階が文具とレコードの店 文光堂・2階が喫茶店MEMORY・3階が住居というビルを建てました。
小学校は友達にも恵まれてとても楽しかったので引っ越すのが嫌で、当時は千葉の何もかもが嫌いでした。
私立の中学に通った為、地元に友達もいなかった私は、駅から家までの2分は、ただただ誰とも目を合わさずどこか居心地悪い気持ちで歩いていました。
休日は文光堂を手伝って、アルバイトのお兄さんお姉さんと話すこともありましたが、高校生やそれ以上のハイティーンから見れば所詮中学生は子ども扱いで、楽しくはあっても子どもとしてそこに居て、おまけの存在でした。
そんな私も高校生になりMEMORYでアルバイトするようになって、お客さんやアルバイトに来ていた同世代の人達と出会い、毎日が楽しくてようやく地元への印象が良いものへと変わりました。
当時の店としては特別ではなかったのかもしれませんが、清濁併せ呑む雰囲気があり、ヤンキーさん達の溜まり場でもありながら、ジャスコ(今のイオン)の人たちや近くの塾や音楽教室の先生、親子連れや不倫カップル、ひとりで読書されたり物を書いたりされている方など、思い返すとたくさんの顔が浮かび、様々なお客さまがいらっしゃいました。
なんというか、私にとっては「大切なことはみんなMEMORYで教わった」というと大袈裟かもしれませんが、世の中の縮図のようなものを見せてくれた場所でした。
ドラマや映画を観ているような出来事がMEMORYの日常には散りばめられていました。
若くして命を散らした友の死を悼む仲間達の葬儀帰りの集まりや、三角関係で一発触発的な場面、別れ話の修羅場で涙を流す姿、今の時代ではあまり言えないような場面も店の中の風景としてありました。
当事者ではないのですが、多感な年頃でもあったので、店の者としての距離はありながらも喜怒哀楽を間近に感じ、自分の気持ちを寄せることも多かったです。

大学に入り、他の場所でアルバイトもしたけれど、MEMORYはいつ顔を出してもいい安心できる場所で、就職してからも自宅である3階よりもここに帰ってくると落ち着くと感じる場所となりました。
喫茶店の仕事はとても楽しかったし、パートのおばさま達にスナックに飲みに連れて行ってもらったり、常連のお客さんの娘さん(幼稚園に入るまで連れてきてくれていました)がとても懐いてくれて、可愛くて可愛くてその子と過ごすのが楽しかったり、もうどうしているかわからないけれど大好きな人と出会えたのもMEMORYでした。

そんなわけで、結婚して仕事を辞めて私がMEMORYをやるというのはとても自然な流れだったように思います。
そこからMEMORYを無期限休業とするまでは、期間は短いけれど私にとってはとても濃い時間でした。
一度に書くには長くなり過ぎるので、今回はここまでにします。
(今日通りかかったら、建物は全てなくなっていました。何が建つんだろう。)


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