ときに消え去りたい

勤めている会社が八周年ということで、ちょっとしたお祝い会があった。まだ緊急事態宣言は明けていないため、数百人の社員が各自ビデオ会議に接続する。社長の web カメラにロウソクの火が灯ったケーキが映された。一人が音頭をとって誕生日の歌をうたい始めたが、通信の時差があるため揃わなかった。そんな様子を笑う声も聞こえてくる。記念写真をとりたいので、皆さん十秒くらい動かないでくださいと指示があった。

私ははじめから終わりまでカメラをオフにしたまま、なぜだか消え去りたいと感じた。自分の居場所ではないという感じがした。このような屈折がいったい何に由来するものなのかわからない。

ふと、学生の時を思い出した。たとえば体育祭のような。行事に打ち込める人がいる。気乗りしない人もいる。しかし、和を乱さないために、足並みをそろえる。珍しくはない。どちらかの立場だけに、大層な負担があるわけでもない。ただつよく人工的であるという気はしている。空気の中に含まれる分子が、それぞれ好き勝手動いているような伸びやかさがない。

たぶん会社のブログに、八周年を祝福する記事が投稿されるだろう。そこには、笑顔の並ぶ写真があり、そこに私はいない。その自由を選択したからそうなったのであって、それ以上の意味はない。ただささやかな慶事に、笑顔を提供することさえしない不寛容を我が身を思うと、社会との関わりを絶って生きていくほうがよいのではとさえ思えた。そういう振る舞いこそ、ソーシャルディスタンスというべきではないか。

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