夢を語る力は持ち合わせていない

自分らしく行きましょう。自己実現しましょう。不意に、そんなことばを目にして、思わず顔をしかめた。胸から湧いてくる苦々しさはなんだろう。

僕は、いつからかわからないけれど、ゲームを作る人になりたいと思って、なんとなくコンピューター関係の大学に進んだ。そして、ゲームというものがどのように作られているか、おおよそ想像できるだけの知識を得た。知り得た技術を使って、自分なりのゲームを創作した。何かができたが、おもしろくはなかった。そして、破綻していた。手を加えることがほとんど不可能なほど複雑なプログラムになった。

大学で専門的なことを学ぶたびに、新しい武器を得た気持ちになって、幾度も挑戦した。それはオブジェクト指向であったり、コンピューターグラフィックスであったり、デザインパターンであったりした。けれど、成果はかんばしくなかった。本質はそれではなかった。

技術的な困難さにぶつかると同時に、誰かに協力を求めるということも考えたし、何度かそれを試した。けれど、あまりうまく行かなかった。単に人と接することが上手でなかったからだろう、当時はそう思っていた。けれど、もっとも重要な問題は、夢を語る力がなかったことだろう。

それは、自分の妄想をつまびらかに語り、心のすべてをぶちまけるということだ。それだけのことだが、自分にはできなかった。自分の作ろうとしているものが、恥ずかしいとか、面白くないとか、幼稚であるとか、気持ち悪いとか、現実逃避であるとか、都合が良すぎるとか、そんなふうに思った。

いくらかの人とそれについて話すこともあった。けれど、すこしでも自分をよく見せようとして、情報が疎らになり、要領を得ないものになる。結果、多くの人は遠巻きに無難な感想を述べるだけで、ほとんど関心を持たなかった。ようするに、自分がやっていることに共感し価値を感じてくれる人はいなかった。誰かのためにやっているわけではないけれど、見向きもされないものを作り続けるというのは痛々しく恥ずかしい。

空想の世界ならば、現実よりもはるかに伸びやかに作ることができるはずなのに、それができない。なにかから批判を受けることを恐れている。親か、学校か、知人か、社会なのか。あるいは自分の中の常識か。そのいずれかが空想を否定する。自分の中の価値を信じることができなかった。ただただ顧みないことができなかった。

こういう議論をしなければならない事自体、圧倒的にむいていないなと感じる。蒸気機関車のように、熱を吐いて進めばよいだけなのに、小賢しく立ち回ろうとして、ブレーキを掛ける。そういう葛藤に飽き疲れて、何かを積極的に創作するということは止めてしまった。無理やりそのような道に進んで、自分自身を矯正するという選択肢もあっただろうが、成功する未来が想像できなかった。

それでプログラマになった。仕事をしている間にも、学ぶことはあるし、ゲームを作る技術と関わりのある知識もいくらかあった。それに触れると、てなぐさみに何かを作ったりした。ただ、それが道をひらくことはなかった。育たぬ種に水を与えているような気持ちだ。別段不幸だとは思わないけれど、持病のような生きにくさはある。

誰もが爽やかに生きてゆけるとは思わぬが良い。人に望みを叶えよ、ただそれを為せ、と言うのは酷であろう。

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