ナイーブを生ききる

「はじめまして」でも、書いたのですが、
今自分の中で、「表面的な自分」と「本当の自分」がブームです。
どんな人でも大人である以上、仮面、すなわちペルソナをつけているものだと思うのですが、私の場合自分自身とペルソナがあまりにも乖離していたなと分析しています。

だいたい自分の憧れるものが、あまりにも本来の自分の志向と違っていたのです。
憧れていたのは、明るくて、さっぱりしていて、裏も表もない楽天的な人。
社交的で、友人がたくさんいて、何かというと仲間と会って楽しむ…みたいな人。
私は暗くて、ねっとりしていて、裏と表しかないし、
友達はありがたいことに少なくはないのですが、ずっと人といると疲れてしまうので、一人時間が絶対的に必要な人間です。

今思うと一番ウケるのが、男女混ざった仲の良いグループにすごく憧れていたこと。
若い頃、空港で白人の女の子1人と白人の男の子2人という組み合わせの、
​旅行グループを見かけたのですが、これがえらく羨ましかった。
いかにも気の置けない友人グループといった感じで、それが輝いて見えたのです。
そして、自分が入れない世界だなーと漠然と思いました。
男女がフラットをシェアするなんていうことにも、すごく憧れていましたね。

でも、よーく考えたら、そもそも私は人といるとリラックスできないわけで。
彼氏でもない友人と四六時中一緒にいるなんて、考えただけで疲れるし、
ルームメイトが女子であったら、なおのこと気を使ってしまうでしょう。

このこと一つとっても、理想と自分が乖離しているんですよね。
一事が万事こんな調子だったわけです。
ただ、すべてが無意識だったわけではありません。
私は元々小さい頃は人見知りでぶっきらぼうで、周囲から愛されるような子供ではありませんでした。
小学校高学年あたりで、ありのままの自分でいると、この社会ではあまり評価されないなと気づき、中学校ぐらいで、「元気で明るい自分」でいたほうが得だな、とはっきり意識したことは覚えています。

結果、自分の無意識の理想像と意識的な計算とが合わさって、
私のペルソナは強固なものとなり、
明るい楽天的な面白い女子と見られるようになりました。
自分でも自分のことをそのように見ていたかもしれません。

気づいたら本当に好きな事や、したいこと、本来のあり方を見失っていたかもしれませんね。

私は又吉さんが芥川賞を取った小説、「火花」のドラマが大好きなのですが、主演の林遣都さんがインタビューの中でこう語っていました。

以下抜粋

「…僕も本を読んだときに、この役はやりたいって強く思いました。ナイーブな青年の役っていっぱいあるんですけど、『これ本物のナイーブだな』と思ったんです。僕も自分のことを本物のナイーブだと思ってるんで、『本物見せてやりたいな』って。」

​しびれましたね。
ナイーブは決して悪いことではない。いや、ナイーブは素敵なのだ、と価値観が反転しました。

青空のようにオープンでぱっかーんとした人も、
ナイーブで溢れるような情緒をたたえている人も、
その人自身を生き切るということが、かっこいいことなのだと気づかされました。

人から見て気持ちのいい生き方ではなく、
自分が気持ちのいい生き方をしていこう、と思い始めた49才です。←遅い!

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