元カレよりウルトラマンの方が好きだった説

初代ウルトラマン最終回を鑑賞してからかれこれ一ヶ月。

最終回で心に負った深い傷が、まだぐずぐずと痛む。
「毎日ウルトラマンの感想を書くぞ!」と夢と希望に満ち溢れていた自分が、今では懐かしい。
あんまりにも面白くて、つい勢い余って最終回まで観てしまったら、もう再起不能になってしまった。ちょっとした鬱状態にあると思う。
最終回を観るまであんなたに楽しかったウルトラマンなのに、何話か残した未視聴の話数を観ようとすると、それだけで気持ちが塞でしまう。

「撃つな!アラシ!」回は第二のウルトラマン、地球最後の希望のアラシ隊員メイン回なので、アラシ隊員が大活躍するだけでなく、ハヤタ隊員との何気ない掛け合いがグッとくる回だった。
つまり本来なら延々実況ツイートをして、観終えたあとも延々と語り続けたくなるような構成なのである。

だというのにまったくその気にならなかった。
何を呟こうにもウルトラマンの最終回が脳裏を過ぎり、筆舌し難い塞いだ気分になってツイッターさえ見る気にもならなくなるのだ。

ウルトラマン放送終了から約55年。
この令和にウルトラマンの最終回がトラウマになっている人間がどれぐらいいるだろうか。
先の5月にシン・ウルトラマンが公開したあと、皆こぞってツブラヤイマジネーションに登録して初代ウルトラマンを履修したに違いないから、きっとまあまあの数の人間が最終回に55年越しのショックを受けているに違いない。きっとそう。そうじゃないと困る、私ばかりが苦しんでいるみたいで(本心)

最終回の何がそんなにつらかったのか。
ウルトラマンの敗北、
そして我が身よりハヤタ隊員を優先して死を選ぶこともつらかったのだが、シン・ウルトラマンでもオマージュされたシーンがあったのである意味予習ができていた。
つらく苦しいながら案外耐えられたのだが、不意を突いたのが最後のハヤタ隊員のシーンだった。空を見上げ、どこか呆然としたハヤタ隊員は、どうもウルトラマンであった期間を忘れているらしい。
それまでハヤタ隊員の陽気で爽やかな笑顔に圧倒されるばかりだったが、あの圧を感じるぐらいの眩い笑顔で堂々と誤魔化す姿に随分と救われていたのに気づいた。

本編でウルトラマンとハヤタ隊員が言葉を交わしたのは最初の1話だけで、以降はハヤタ隊員がウルトラマンに変身する他に接点はない。またハヤタ隊員もウルトラマンに変身する手段を切り札として大切にするのではなく、地球を守るための手段としか扱わなかった。だから扱いがちょいちょい雑で、そのおかげでザラブを出し抜く快挙も見せている。
ハヤタ隊員とウルトラマンは、事実だけを並べると必要最低限の言葉しか交わさないようなドライな間柄だった。
にも関わらず私は初代ウルトラマンをどこか漠然とバディムービーのように感じていた。理由はおそらく、ウルトラマンが怪獣と戦う際に時折見せるプロレス技や一本背負いによるものだと思う。
ウルトラマンの姿形は、宇宙的な高次元のイメージの他に未来的でもある。
そうした容姿とスペシウム光線を放つ姿はとてもよく似合うのだが、逆に力技は浮いて見える。そうしたちぐはぐな部分が、ウルトラマンがハヤタ隊員から得た技術なのではないか、とそんな気にさせられる。
とくに細かいことを調べずに観ていただけなので(何しろナレーションに石坂浩二がいたのも途中まで気づかなかった)、製作側にそんな意図があったかはわからないが。

そんな風に、無意識のうちにウルトラマンを言葉を交わす必要もないバディーたちの奮闘のようにも見えたから、最後のハヤタ隊員の全てを忘れた様子に突き離されたような心地になった。
 そしてそのとき抱いた寂寥感は、今も和らぐ気配がない。

今更だが、私という人間は悩み続けることができない。

いつぞや書いたお気持ち表明文があまりに重い内容のせいで、今ひとつ信用に欠けるかもしれないが、三十を過ぎたあたりで本当に悩むということができなくなってしまった。
大抵のことは引き摺らない。仕事でミスをしても退勤と同時に忘れて、次出勤する時にはもう他人事である。その辺はツイッターでの日頃の呟きによく出ていると思う。

そんな次第だから、今まで付き合った相手に対しても別れた瞬間に未練が消えるタイプだった。別れる瞬間まで泥沼のごとくぐずぐずしたくせに、いざ別れたらもう何が好きでわざわざ付き合ったのか、何をそんなに悩んだのかもうわからなくなっている。
あまりにもすっぱり感情を切り替えるので、元カレから真顔で「サイコパスなの?」と尋ねられる有様だった。でも込み上げてきたのは「思い出したぜぇ!お前をぶちのめしたいって衝動がなァ!」ぐらいの怒りだけで、すぐに笑い話にできた。

苦しいのは初めの3日間だけで、1週間も過ぎると思い出すこともない。歳を重ねるごとにそうした気質が増していくのに、どういうわけだかウルトラマンだけは論外だ。1ヶ月経った今でもまだ最終回を思い返して苦しんでいる。恥ずかしながら、布団に入って目を瞑るとき、ふと過ぎる不安は世相のことでもなんでもなく、ウルトラマンの最終回が過ぎる。最終回を思い出して「どうして…」と言いようのない苦しみを抱えながら寝ている。さすがに毎夜のことではないが。

そんなわけで、今自分の中で「今まで付き合ってきた男より、ウルトラマンの方が好きなのでは?」という説が浮上している

仕事が暇過ぎてぼーっと考えるうちに、そんな説が頭を過った次第である。
あながち間違いでもなさそうなところがなんとも言えない。

元カレに「私どうもアンタよりウルトラマンのが好きだったみたいだわ」と当てつけで言ってみたい気もするが、そうしたい動機の一旦が明らかに当時の元カレの曖昧な返事に苦しめられたことによる復讐なので、不毛だからやめておくことにする。あと、言ったら言ったで腹を抱えて笑われる気もするので、一生言わんとこ、とも思う。

30年以上、なんだかんだウルトラマン一筋だったのだと思うと感慨深い。
奥華子の「ガーネット」の歌詞にある一節を思い出す。

いつか他の誰かを
好きになったとしても
あなたはずっと特別で
奥華子 ガーネット

これをリアルタイムで聴いた当時は「素敵な恋の歌〜」と無邪気にキャッキャしていたが、今になって「ほんまそれ」と思う。三つ子の魂百までというか、恋という概念も知らない幼児が抱いた感情は一生別格なのだろう。

一方、ラドンも本家空の大怪獣では悲しい結末を迎えたのに、ショックを受けるどころか特にトラウマにもならず「なんなら好きなシーンです」と言えてしまう。
この差は一体。
ラドンへの気持ちは遊びだった…?という気持ちが鎌首をもたげなくもないが、そうした適切な距離感で「好き」とはっきり思えるラドンが、ぼくはだいすきです。

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