人に会うとにおいを感じる人、あるいは、情報と自由(その1)

人に会うと、においを感じるという人がいる。
相手の身体や服、持ち物のにおいとは違う、その人の香りを受け取ると。

別の人は、色を感じるという。

また別の人は、音を感じるという。
ドとかミとかいう音階が聞こえる人もいれば、
川の音や音楽のような、まとまった形が鳴ってくるという人もいる。

さらに別の人は、温度や湿度を感じるという。

言葉が現れるという人もいる。
ここでいう「言葉」とは、自分の思考を介さない言葉のことを指す。
考えたら言葉がどんどん出てくるのは、「印象を言葉につなげる力」という、また別の能力だ。

そして、数字が出てくる人もいる。
図形が出てくる人もいる。
色や音楽と一緒に出てくる時などは、頭の中が映画館状態である。

また、対象の相手やモノに物理的に触れることを通じて、なにか特定のことを感じる人もいる。例えば古本を手に取ると、前の持ち主や本のあった場所を感じる、みたいな。


五感、第六感、インスピレーション、クレア、サイキック、はたまた、発達障害。なんと呼ぶにせよ、そういった人に起きているのは、情報量が多いという現象だ。

まだ匂いでしか醸し出していない成分。
一瞬、急激に変化した色。図形の歪み。
たった今の相手と自分に一見関係のない、特定のイメージ。

それらは一次情報である。
時にその人の語る言葉や、身体が発する感情より、その人を伝えている。
いわば、呼吸の状態のようなものだ。


感受する一次情報のソースが多い。
それはなんと、豊かなことであろうか!
決してお金では買えない豊かさである。


たとえて言うなら、ひとつのニュースについて、別の視点ではなんといっているか?と、違う言語で報道を見比べ、本当に何が起きているのかを理解する助けにするのと似ている。
今は翻訳も発達しているが、言語が醸し出す微妙なニュアンス込みでことばを受け取るには、原文に触れることが最も優れているのは疑う余地もない。

情報は、選別と思考という能動的な行動によって、
わたしたちに自由をくれる。
(つづく)

あなたに、かならず、いいことがあるよ