海と女の子3荒波_noteMGC2018

マニファクチャード・ガールズ・クロニクル

スマイルガーデン2017


マニファクチャード・ガールズ・クロニクル はじまりに
(Ameba blogより)

「manufactured girls(マニファクチャード・ガールズ)」は〈工場で製造された女の子たち〉というようなニュアンスだろうか。

 この言葉は2012年に、イギリスのロックバンド「OASIS」のノエル・ギャラガーが、テレビ朝日の『ミュージックステーション』に出演したとき、共演したAKB48を見てブログに書きこまれた発言だ。前後の文脈もあわせて、当時はAKB48が、さらには日本のアイドルが、「馬鹿にされた!」と一騒動あったようだ。(※1)

 じっさいには「manufactured girl group」は〈他者の意図で結成された女性グループ〉という意味でも使われるらしい。だとすれば、AKB48をはじめ、世界中のアイドルグループによくあてはまる。

 それでも「manufactured girl」には、大量生産された工業製品のような響きがあるし、同じ容姿、同じスペック、同じリアクションの、クローン人間のような冷えびえとした風景を思わせる。

 同じ衣装、同じ振りつけ、同じフレーズを、大人数で歌う「AKB48」のファンが、ノエルの言葉に過剰に反応した気持ちもわかる。

 似たもやもや感を感じたことがある。

 ハリウッドのアニメ映画『SING/シング』(2017年)に登場した日本語を話すレッサーパンダの5人組「キューティーズ」を見て、ぜんぜん笑えない感じ、あれだ。

「キューティーズ」を作り上げた人たちは、「キャンディーズ」について知っていただろうか。なぜ、彼女たちが解散し、泣いていたのか、考えただろうか。

 僕自身のアイドルについての原風景のひとつに、キャンディーズの解散コンサートがある。小学生だった僕は、テレビで見ていた。なぜかテレビの前にラジカセを置いて、放送を録音した記憶がある。(あのカセットテープはどこにいったんだろう…)

 そこで歌われていた「つばさ」という曲がとても印象に残っている。小学生ながらに、悲しさだけではない、胸に迫る熱さのようなものを感じた。

(いま調べてみると、この曲が解散コンサートの最後の曲だった。しかも作詞はメンバーの伊藤蘭! 解散発表後にファンに向けてつくられた曲だった)

「ほんとうに、わたしたちは、幸せでした!」

 と叫んだのは、この曲の中間の語りの部分だった。そして、曲の最後は、

「真実の真実のふれあいを忘れない」

 と結ばれている。40年の時を越えて、現在のアイドルファンにまで響くフレーズだ。

 キャンディーズのファンだったのかと聞かれると、よくわからない。ただ、彼女たちの出る番組は見ていたし、なにより歌が好きだった。明るくて爽やかな歌声だった。でも、「つばさ」はそれまでの明るい曲とはまったくちがう。とても切実で、いまから見ると、曲調も大げさなくらいシリアスだ。だから強く印象に残ったのだろう。

 僕はとくに熱心なアイドルヲタというわけではない。だけど、映画が好きで、音楽が好きで、物語が好きだ。そして自分が感動したものを信じるしかないと思っている。

 だから、この文章を書いてみようと思った。

 仕事がら、何年かごとに、アイドルまわりのことをちょっと調べてみたり、歌手やミュージシャンにたいして「アーティスト」という言葉が使われはじめたころの記憶もある。

 その「アイドル」と「アーティスト」という言葉のはざまで、もっとも苦しんだのが東京女子流だろう。

 そして「アイドル」という言葉の印象を(あるいは機能を)変えてしまったのがAKB48だといわれる。

 でも、ほんとうにそうだろうか?

 もしかしたら、彼女たちが変えたのではなく、むしろ変わっていく世界に、変化する音楽業界、進化するエンタテインメントの世界に、適応したのが、AKB48だったのかもしれない。

 たぶん、そこに正しい答えはない。でも、AKB48の起ち上げ期のようすは、いまから見てもとても面白い。そこにつながる、脈々としたアイドルの歴史もある。あらゆるものが、先行するものの影響を受けている。

 ブログはまず、2017年のTIF(東京アイドルフェスティバル)での「東京女子流」のステージからはじまる。そして、1970年代の山口百恵やキャンディーズ、80年代の松田聖子の記憶にさかのぼり、90年代のアイドル冬の時代といわれる、女性歌手を「アーティスト」として売り出した時期、その90年代の末に登場したモーニング娘。と宇多田ヒカル。2005年に誕生したAKB48。「アイドル戦国時代」といわれるようになった2010年に結成された東京女子流。やがて訪れる2018年の乱気流という流れでつづっていく。

 なんでまた2019年のいま、2017年のTIFなんて中途半端なころからはじまるかといえば、先ほども書いたように、そのパフォーマンスに感動して、僕自身が「アイドル」とか「アーティスト」って、そもそも何だっけ? と考えはじめ、夏休みでもあったので、ちょっと書いてみようか、と書きはじめたら、2年もすぎようかという時間がかかってしまった、ということで……

(ほんと何やってんだ、おれ)

 それでも、なんとか、2018年までたどり着いてはいるので、大したことは書いていないけれど、すこしずつアップしていきたい。

 彼女たちはなぜ、それでもステージに上り、歌うのか。そんな事を考えながら、この章の終わりに、このブログのはじまりに、宇多田ヒカルの文章から引用する──

歌を歌うことは、人であるために必要なことのように思える。
メロディーは、誰かの心の原風景。懐かしい場所からのメッセージ。
リズムは、死へ向かう生命の行進の音。
歌は祈り、願い、誓い。
音楽は、慈悲。
それ以上、音楽の難しいことは知らなくてもいいと思う。               
                   宇多田ヒカル『点』より

(※1)【実際に和訳して検証】元OASISのノエル・ギャラガーがタモさんやMステをディスった!? 大ウソ! 勘違いであることが判明したよ | Pouch[ポーチ]

女の子と波トリミング

◆ Ameba blog「マニファクチャード・ガールズ・クロニクル」目次へのリンク
アイドル年代記(キャンディーズからAKB48まで)
東京女子流
2018年のアイドル「卒業と解散」
SUPER☆GiRLSの10年

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