家康について理解したい
はじめに
家康が天下人になることができた理由が知りたい
家康が取った戦略と行動は?
家康は、結局どんな人物だっただろうか。
ホトトギスが泣くまで待っていたのか
沿革から見ていくことにします
家康天下人への沿革
1543年 家康(竹千代)は、三河(現在の愛知県岡崎市周辺)の松平家に生まれ
1545年 家康(竹千代)は、織田家の人質となる
義母方の父の裏切りにより、織田側に連れ去られる
1547年 家康(竹千代)は、今川の人質になる。
今川と織田に挟まれた弱小勢力の松平氏
常に不安定な立場
家康の父である広忠は、同族の松平信定に岡崎城を奪われた。その際、岡崎城に戻るために今川義元を頼った
今川には逆らうことができませんでした
松平家は織田勢力と戦うため、今川に援軍を求めて、そのときに人質として家康を差し出す
家康は、今川の人質になる。
義母方の父の裏切りにより、織田側に連れ去られて、後年、織田の人質と交換することで今川の元に戻るなど
弱小勢力のもとに生まれた故の、波瀾万丈の幼少期を体験します。
1558年の初陣。15歳の初陣を今川配下で戦う
1560年 家康は、10年半ぶりに岡崎城に入城 (桶狭間で今川義元が織田信長の奇襲により討ち死)
今川義元が死んだことで、岡崎城を支配していた今川勢も城を捨てて、駿河に去ります。
今川の支配勢力が逃げたことで、家康と家臣団は自主独立の大きなきっかけを得た
密かに独立を目指していた松平の家臣団と家康。
今川勢が退去した西三河地方をすばやく攻略し、支配下に収めていく
今川の支配勢力が逃げたことで、空白地域に近いエリアを得る
1562年 今川家と断絶し、家康は織田信長と同盟を結ぶ
東三河を攻略したい家康と、美濃の斉藤氏へ攻勢を強めたい信長の思惑が一致したためと言われています
これにより家康の今川勢力への攻撃はさらに激しさを増し、領土拡大にも拍車がかかる
1573年 静岡県浜松市周辺で行なわれた、武田信玄との三方ヶ原の戦いです。自軍に有利な追い風がないときに戦ったことで大敗
1584年 小牧・長久手の戦い。秀吉と対峙したときも、家康は(最後まで戦おうとせず)不利な状況になったときには停戦、人質を差し出す形で戦いを止めています
1590年 小田原征伐に参戦し勝利。豊臣秀吉より関東への移封を命じられ、江戸城へ正式に入城
1598年 豊臣政権における五大老筆頭に任命され、実権を握るようになる。そのあと、豊臣秀吉が死去
1600年 関ヶ原の戦いで西軍を破る
1603年 江戸幕府 開幕
1605年 家康は将軍職を辞任。息子秀忠に将軍職を譲る
なぜ家康は天下人たりえたのか
https://diamond.jp/articles/-/99015
まとめると
人質から天下人へ。弱者が天下を獲るための攻守戦略
機会に応じて攻守を使い分けたことが、偉業を成し遂げる力となった
家康の戦いを見ると、彼が「ある種の追い風」を元に戦っている
例外は1度だけで、1573年の武田信玄との三方ヶ原の戦い。自軍に追い風が吹いていない時に戦えば、大敗を喫することを家康は学んだ(と推測)
追い風が吹いていないときに無謀な戦いを続ければ、大敗を喫して自軍が滅亡しかねない
逆に、自らに有利な追い風が吹いているとき、千載一遇のチャンスに手を伸ばさなければ、自らが飛躍するときは永遠にやってこない
なぜ徳川幕府は260年も続いたのか?
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/594
分断支配
幕府創設とその運営方針は「分断支配」だった
組織を細分化し、それぞれに責任者を置き、責任者同士の競争によって組織全体を活性化し、これを保とうという考え方
いわゆる「御三家」をつくった
三人の息子をそれぞれ、尾張、紀州、水戸へ配し、徳川家を名乗らせた。
九男・義直 -> 尾張
十男・頼宣 -> 紀州
十一男・頼房 -> 水戸
大名を譜代大名と外様大名に分けた
260年間、明治維新まで、徳川政権の政策担当者はすべて譜代大名
譜代大名は万年与党であり、外様大名は万年野党
譜代大名の給与は低く抑え
譜代大名は三河国以来、徳川家がまだ松平家といっていた当時から忠節を尽くしてきた武士が大名になったグループ
外様大名の給与を莫大なものにした
外様大名というのは、かつては織田信長や豊臣秀吉の部下だった者が、関ヶ原の合戦や大坂の陣以降徳川家に忠節を尽くすようになった連中
加賀前田100万石、薩摩島津77万石、仙台伊達62万石、肥後細川55万石、筑前黒田52万石などがその例参勤交代やお手伝いなどによって、これらの大名の財政がつねに逼迫するように仕向けた
参勤交代は、将軍への軍役奉仕と言う名目があったので、大名行列も軍事形式を採っており、その人数は石高によって定められていました
100,000石の大名であれば騎馬武者10騎、足軽80名、中間(従者)140~150名ほど
10,000石の大名であれば、騎馬武者3~4騎、足軽20名、中間30名程度
参勤交代をする藩のほとんどが、家格や権威を誇示するために、大人数の供を引き連れて行軍した
加賀藩の前田家では、4,000名による大名行列を行なったと言う記録
家康はわずか二年で将軍職を引退
家康は1605年1月9日将軍職を引退し、息子秀忠に将軍職を譲る決断をした
徳川政権を世襲制にすることを天下に明らかにし、早く徳川家の道筋をはっきりとつけて置きたかった
当時「天下は回りもの」と大名たちは考えていた。家康が征夷大将軍となったのは成り行きであり、いずれは自分の番が回ってくると考えていた
家康は、わずか2年で引退し息子秀忠に将軍職を譲ることで、大名たちに先制攻撃を与えた
大名たちにしてみれば、「寝耳に水」として予期しなかった出来事(に映ったことだろう)
朝廷より宣旨が下ったのは4月16日。家康と秀忠の将軍職交代の儀式は滞りなく終了
家康は、大御所という名目でしなければならないことがたくさんあった
家康もすでに63歳の高齢、時間的余裕があるわけでもない
家康の目の黒い内に徳川の体制をより強固にする
秀忠を早く一人前の将軍にさせることが急務
秀忠を政務に慣れさせる
秀忠に権威を身に付けさせる
大名たちを束縛する(被官化)
「参勤交代」が確立したのは江戸時代。原型は鎌倉時代の「大番役」(おおばんやく)と呼ばれる制度
⼤名⾏列=江戸時代,参勤交代のために,大名が 江戸 えど と国もとを 往来 おうらい するさいにととのえた行列
軍事政権への参加要請
当時を⽣きた⼈々はいつこの平和が乱れるかしばしば不安に陥っていた + 江⼾から遠く離れた地での戦乱を抑⽌するには、地⽅⼤名の軍事⼒が必要
朝廷の権威を空洞化させる(=政治から無縁にする)
権威とは?社会的影響力や制度・人格というイメージ http://www.ppsa.jp/pdf/53.pdf
つまり朝廷の権威を空洞化させるというのは、朝廷が、社会的影響力をもたないようにしていくことと理解。幕府が進んで政治や行政を推進するなど、朝廷の存在や官位が形骸化するように仕向けたのでは
寺社の勢力を押さえ込む
秀忠は、江戸で将軍見習い
帝王学を身に付けていく
政務に慣れる
権威を身に付ける
江戸時代以降の経済成長と家康のインフラ整備
https://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h27/hakusho/h28/html/n1121000.html
江戸時代には、参勤交代により、全国各地の宿場町や江戸にて大規模な消費活動が行われた。
その背景としての家康のインフラ整備
家康がはじめて江戸城に入城したのは1590年。直後にインフラ整備に着手
築後130年以上が経過。江戸城は荒廃し、周辺は寂れた城下町だった。
江戸幕府は、1603年に征夷大将軍となった徳川家康(家康)が開いたとされているが、その前から家康は、様々なインフラ整備を実施
1590年 入城後「江戸湊(みなと)」の整備を推進
江戸への大量輸送が可能な「舟運」での物資輸送を行うため
江戸城を中心とした水上交通路網の整備に着目
1592年には、現在の呉服橋から大手門の間に「道三堀(どうさんぼり)」を整備
1594年に「利根川東遷」が開始。洪水防御、新田開発及び水運に寄与し江戸の発展を支えた。60年もの長い歳月をかけ1654年に完成。
水害の回避、新たな農地開拓、舟運による物流活性化等が目的
洪水等による水害が度々発生していたため
河川の流れを変えるだけでなく、堤防整備、農業用水路整備も併せて行なわれた
60年もの長い歳月をかけ1654年に完成した。
一方、越谷付近で利根川に合流していた荒川は、1629年に利根川から分離する工事が進行。現在の隅田川を経て東京湾にそそぐ流路に変更されている。
1601年に東海道を江戸-京都間に整備
日本橋を起点とした放射状の都市構造を基本とする「五街道」(東海道、中山道、日光街道、甲州街道及び奥州街道)の整備を計画
東海道をはじめとした五街道は、道幅が広く整備されており参勤交代等で使用
「脇街道」と呼ばれる道では、五街道での輸送を補う役割や五街道から各地へ分岐される主要道の役割を持っており、庶民の道として多く整備された
戦国時代のインフラ整備
http://www.sengokunet.com/category2/entry36.html
戦国時代(当時)の街道は、各地の統治者(戦国大名など)たち、敵勢力に侵攻の一助を与えないため(領国防衛)を目的とし、インフラ整備を行わかったので、道上は舗装されず凹凸が激しい上に、「細く曲がりくねった悪路」状態であった(と言われています)
信長が主に行ったインフラ整備
信長のインフラ整備は大々的かつ徹底的なもの
武田知弘先生は、この信長の道幅拡張計画を、『日本の本格的な道路は、信長から始まったといってもいいだろう。』と断言
『「桶狭間」は経済戦争であった』(青春出版社)の著者
司馬遼太郎先生は信長率いる織田軍の最大の強みは『抜群の機動力にあった』と評しておられました
その強みが発揮できた理由の1つに信長の徹底的なインフラ整備
信長以外の当時の強者の双璧である武田信玄や上杉謙信などもインフラ整備を行っている
ただし、あくまでも自軍を他国に速やかに行軍させるためを主目的とした「軍事ファースト(軍用道路)」
街道整備は、無計画に拡げていったのではなく、3つのランクに分けて道幅を以下の通り拡張してゆきました。
①幹線道路となる『本街道は約3間2尺幅(約6.5m)』
②その1ランク下に当たる『脇街道2間2尺幅(約4.5m)』
③その他の街道にあたる所謂田舎道に当たるであろう『在街道1間(約2m)』
1550年代後半~1560年中盤 尾張国のみを支配していた時期から、街道整備に着手
尾張国内の要衝であった岩倉や犬山などを結ぶ30kmの街道を新たに敷設
道幅も4mへと拡張した
当時の主要街道である東海道などの平均道幅が僅か2mであった
2mの道幅であったら、騎馬武者が2列で並んで進軍できる程度の広さ
商人や輸送業者などが沢山の物資を荷車に積んで移動する場合は、互いにすれ違うのも困難
信長は平均の2倍である約4mまで拡げる事業を実行
信長は街道脇に「柳の木」を植える
現在でいう所の街路樹(並木道)。この街道は「柳街道」とも呼ばれる
街路樹を植え付けることによって、『夏の暑い盛りの折でも、何人(特に商人たち)も木陰の下を歩いて移動できるよう』に配慮
なお、主要街道などに街路樹を植栽することは、既に8世紀初頭に朝廷の政策によって実施されていました
信長はそれを踏襲した形で尾張で行った
1601年に徳川家康が行ったインフラ整備「東海道の松並木(浜松市や大磯町など)」も有名
諸事学び(真似)上手であったとされる家康は、信長や豊臣秀吉が立案実行した政策および都市計画の長所を上手く取り入れ、徳川政権の糧にしてゆきました
補足情報として、戦後1956年の道路事情の評価からして、約450年以上前の信長たちが活動していた戦国期日本の道路(街道)事情は更に酷道であったと推測
1950年代という今から僅か68年前であった現代日本であっても、ワトキンス氏が酷評したように国内の道路事情が悪かった
ワトキンス氏は、戦後1956(昭和31)年8月8日に日本の道路事情調査のため、、世界銀行から派遣された調査団の団長
1953(昭和28)年、「道路特定財源制度(のちの道路整備緊急措置法)」が政府で施行。政治家・田中角栄氏が中心となって発議した全国の道路を改良および舗装するための財源を確保する制度が作られたことからも当時の国内事情が伺える
まとめると
家康すごい!
家康が天下人になれた理由として、機会に応じて攻守を使い分けたこと(天下を獲るための攻守戦略)が、偉業を成し遂げる力となったと思われる。
家康が徳川政権の繁栄を狙い、わずか2年で将軍を辞任したことや、分断支配の政策から、当時の社会情勢を見極める目と冷静な判断力を備えていたことが伺える。
当時の「天下は回りもの」という大名たちの考えをしっかりと理解していたと思われる
徳川政権の繁栄と戦乱を抑⽌の両方を見据えた分断支配と参勤交代(⼤名⾏列)
家康が行った1601年に行ったインフラ整備「東海道の松並木(浜松市や大磯町など)」は、信長や豊臣秀吉が立案実行した政策および都市計画の長所を上手く取り入れたものとの見方がある。
当時の先輩にあたる信長や豊臣秀吉の政策と成果を見ながら、後に徳川政権の糧にできる素養
家康と家臣団(譜代の家臣)の結束もうかがえる
ほかにも天下人に至るまでの様々な場面で攻守のバランスの取れた戦略や考えが垣間見える。
1590年の、小田原征伐後の江戸移転(左遷と見られてもおかしくない)でも、老朽化した江戸城や周辺のインフラの整備に着実に実行している(すごい)
おそらくは、今川と織田に挟まれた常に不安定な立場、波瀾万丈の幼少期の体験があってこそだろう
以上!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?