「確かに、諦めてるとも言える」

「俺の中では、もう本編のストーリーは終わってるのよ。一番楽しい時期も終わって。あとはボーナスステージだと思ってる」

我ながら、よくこんなセリフが出てくるなと思えるセリフなんですが、この前小学校以来の友人と久々に会話した際にこんな話になりました。(どんな話だよ)
まだ26歳で周囲からは当たり前ながら若いと言われるんですが、是が非でもやりたいということはなく。

「色々諦めたのだね」

友達は、けろっとしている私にそういいました。
自分では色々な事を諦めたつもりはなかったんですが、言われてみればそうだなと思って発見だなぁと思いました。ところが、諦めるっていうことは悪い事じゃないと私は思ってるんですね。

例えば、差別の問題なんかは私に密接にかかわるものです。
昔から大なり小なり差別的な感情を向けられることはあったんですが、最近退職して暇になったことでストレスのたまった隣の家の住人がごちゃごちゃと言ってくるようになりました。その中に、自閉症の弟への差別的発言もありました。

うるさいのが止められないなら、施設に入れればいいじゃないか。

と。
母親はこれを聞いて未だに激怒してますし、私も思い出すだけで腹が立ちます。ただ、ただですよ。一回冷静になりましょう。
まずこの人を変えるということはできません。他人だからです。
こういう差別的な発言というのはたいてい感情が強く入ってるので論理が破綻しやすいですが、かといって巷で流行りの「論破」をしても、あまりメリットはありません。その場の論戦に勝てるというだけです。

例えば施設に入れろよ、という発言は

「自分にとって都合が悪いことがある」こういう場合に
「自分ではなく、相手を変えようとする」

という組み立てで成り立っています。
しかし、これは賢くない言葉の使い方です。
なぜなら、相手を変えようとする強引さはこちらも使えてしまうからです。

「そんなに嫌なら引っ越したらいいんじゃないですか?」

という風に・・・。

論破ということを割とやってきた身ですが、このやり方はあまりよくありません。禍根が残ると、毒のように呪いのようにあとから効果が表れます。結果、修復不可能な傷となってしまうこともあります。

昨今、ジェンダー平等という言葉があります。差別というのはあちらこちらにあります。ですが、私は基本的に「相手は変わらない」という一貫した考えを持っています。相手を無理やり変えようとすることを、「パワハラ」と言ったり「洗脳」と言ったりすることもありますね。

聖書の中に、「敵のために祈れ(要約)」という言葉のある個所があります(ローマ12章など)。
世界には色々な宗教があり、色々な教えがありますが、私が知る中でもこの敵のために祈るというのは宗教の教えでも最高レベルの難易度を誇るものだと思っています。
今、自分(たち)を攻撃してきている誰かのために、「幸せであってくれ」なんて、ありえない。九分九厘の人がそう思うと思います。でも個人的には、これは必要かもなあ、と思っていたり。

社会問題は大きすぎてあきらめざるを得ませんが、「相手は変えられないけど自分は変えられる」は、諦めなければできます。自分の事だから。
そして、理由は何であれ「嫌い」と言って遠ざけていくと人は孤独になりますから、そうすると社会に一矢報いて死んでやる、と凶刃を振るう人が現れます。隣の人間だって、もっと言えば私自身だって、この文章を読んでいるあなただって、そうならないという確証はどこにもありません。

だから、多くの事は諦めますが、目の前にいる人を可能な限り大切にするというのは諦めていません。もちろん、私もメカじゃないので怒りますし日々失敗もあります。本当に相手が不安定なら不用意に近づくこともしません。それでもなるべく距離を詰める努力はします。続けていればいつかどこかで誰かにこのメッセージが届くかもしれませんし。

他人の問題を自分の問題として考えすぎな人結構多いんですよ。今。

でも、「敵のために祈る」みたいな事って、嫌でしょ。
やりたくねえって思うのが当然だと思いますもの。みんなそれができりゃ、今頃世界は平和ですわ。でも、そうやって耐えることって、マジで強くないとできませんから。論破する力がいくらあっても、強くないですよ。平等とは何かとか多様性は何かってことよりも、「強いって何」ってこと、一度考えてみてもいいと思うんですよね。

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