見出し画像

織田信長もデパス飲んだ事ないし

俺、もう特にやり残したことないからさ。

と言った相手は、知り合いの中学生の子だった。反射的に、その子に心配された。多分、自殺すると思われたんだと思う。大丈夫だ、死にはしない。

ただ、やり残したことがないというのは本当なのだ。25歳、人生これからという年齢なのだろうが、何をするにもやる気が出ない。それでも、「何かしないといけないんじゃないか」と思って海外で生活することを考えてみたり、何か資格を得てみたりしたほうがいいのでは、と思って色々やろうとするが、スマブラをする方に手が伸びる。まあ、怠惰だと言われたらその通りなのだが。

資産もないし、自活能力があるのかどうかさえ不明。

しかし、やりたいことは大方やってきた。
だから焦りみたいなものが全くといっていいほどない。さっき述べたように、時々「何かやらなければならないのでは」という思いに苛まれることはあるにせよ、基本的にはパワプロやらプロスピやらスマブラやら、「いつもの場所」に自分は帰っていく。これが最高に楽しいのだ。今季冬にはパワポケの新作まで発売される。フィーバーだ。

現実にもヒーローが出たり、サイボーグの女の子がいたりしないものかな

そう考えれば私の学生時代ってのは、最高に充実していたと今から考えても思えるものだ。
中学時代は1年目こそ悩んだものの、2年の頃行った修学旅行ではカラオケでみんなに大ウケして時の人になり、3年の時は生徒会で権力闘争をしまくった。高校の合唱祭では3年連続入賞、そのうち1,2年目を委員としてやった。1年目は3位、2年目は優勝した。ソフトボール大会では2年連続で優勝投手になった唯一の生徒だ。サッカー大会でもディフェンスとして1度優勝、テストで学年トップをとった事もある。気になるあの人と一緒に遊んだことだってまだ記憶に新しい。専門学校時代は精神的に絶望を感じる日々だったが、おかげで自分の内面の「どん底」を経験できた(どん底の下は病気だから貴重な経験だ)。

学生時代を終えてから、海外に一か月くらいだがいたことがある。その時、言語が通じない世界で暮らす面白さと難しさも経験できた。帰国前に泊まった上海郊外のホテル、最高だった。こう見返してみると、色々と恵まれていたと断言していい。友達にも恵まれていた。
マネジメントについて独学で色々本を読んでいたから、せっかくなのでリーダーとして人を統率することをしてみたかった、という未練も、リーダー不在の今の職場で解消された。

この25年間で、私はいわば「人生・くろうさぎ」というゲームを「全クリ」してしまったのである。

自分は理解されない人間として何度も苦しんできたが、こうして文章で自分を表現することを見つけ、居場所を見つけた。理解してくれる人との邂逅も果たした。もし明日死ぬとしても、すべてに感謝をして死ぬ以外にない。

こうなると、あとは「やりこみ要素」を見つけてプレイするだけということになっていく。素通りしていた公園の脇道をじっと見て、「そういえば昔この中に入っていったな」と思いだしてみる。今は入らないが、「実は子供にしか見えない国がこの向こうにあったりして」と考える。
いつもと違う道を通って「この階段、異世界に繋がってそうだな」と思ってみたりする。そうすると、見事にその先に待ってましたというように猫が座っていたりするから面白い。ただ、意識をそこに向けていなければただの階段だし、ただの猫だ。そこに「ストーリー」をつけることで、ただの散歩、運動が「冒険」になる。

スマブラひとつをとっても、ちょっとひとひねり。実況を自分でやってみる。アイスクライマーを使って戦う事が最近は多いのだが、

この笑顔。人を木槌で殴る子供のする表情とは思えません。ダメージを受けた際に痛いということから痛覚はあるのでしょうが、良心の呵責といったものとは無縁の存在。意外と知られていませんが、この服は返り血で真っ赤に染まってしまうため何度もスペアがあるそう。以前インタビューした際には、この服は人件費の安い国の工場で作られているのだが、日に日に労働者の技術は上がっていると言ってくれました。彼らの雄姿の背景にはたくさんの労働者の汗と涙があるわけであります。

こんな風に、自分の文才のような何かを使って表現してみる。これに関しては、「六丸さん」という大好きなYoutuberの影響が大きい。実況ひとつでただの映像がこんなに面白くなるのかと感動したからだ。その受け売りで色々自分も日常のあらゆる状況を実況してみている。

現代人は常に何かに追われている。かくいう私も、起きてるときは割と無双状態なのだが寝る前が試練だ。寝れないということが気になって眠れない。一種の強迫観念みたいなもので、どうしてこうなったかわからない。多分学生だった時に「遅刻しちゃいけない」という強い思いがあったから、それの名残なんじゃないかと思っているが、いずれにせよこの強迫的な感情と戦っていくことはこれから生きる上での課題になってくる。薬を飲んで寝ていたが今は断薬のために奮闘している。ただこれはやり残したこととはいえない。今やっていること、くらいなものだ。なんなら別にやらなくても生きてはいける。ただ・・・

どうせやりこみ要素をやるんだ。生かされるんじゃなくて、生きるのがいいんじゃないのか?

最近どうもこういう考え方に自分が寄っているのを感じている。私は二度「肺気胸」という病気の手術をやっており、肺が弱いことを知っている。そのとき、考えたものだ。もういっそ肺を機械にしてしまえばいい。なんなら貧弱な腕も足も、ロボットにすればいいのに、と。

そういう感じで、ある種の「合理主義?」的な考え方は私の中に根強く存在していた。生徒会をやっていたころも、「生徒のレクなんて、こんなもの誰も楽しみにしてないんだからやめちまえ」ととにかく無駄を省いて省いて・・・という思考の人間だった。

ところが、ある時障害を持った弟の学校にやってきた人がいて、その人と色々あって話をする機会があった。その人はアスリートのトレーナーをやっている人で、出会ったことがないレベルで色々なことを知っていたし、テレビで見たことのあるあんな人こんな人に直接会ったことがあるという人だった。アスリートのトレーニングに関わるわけなので、身体というものについての理解と知識がそれはもうすごい。その人はアスリートだけでなく病気の人の身体能力の底上げもできるので、自分も見てもらうことにした(現在進行形だが)。

すると、自分が今まで全く考えたことがなく、それでいて考えなかったことがとてももったいないことに気づいた。

身体は強いということだ。

確かに、私の肺は何度も破れたし腕も足も弱いし貧弱だ。だがそれは部分的な要素に過ぎなかった。トレーナーに言わせれば、身体のバランスはまず「呼吸がちゃんとできているか」とか、「ちゃんと立てているか」とか、基本中の基本のようなことから始まるらしい。栄養が吸収されるかどうかというのも、「腸」単体の問題ではないと。身体と精神は切っても切れない関係にあるから、身体のバランスが整う事で精神も整うと。
知っている人からすれば当たり前のことなのかもしれないが、私にとってはそうなの?という話だった。病気になったら薬を飲めばいい、昔からそうやってきた自分にとっては驚きの連続だった。

ただ、都市開発が進んである面で便利になっていく世の中では、そういう本来の強さみたいなものってのは忘れられていくものなのかもしれない、とも思った。上で書いたが「生かされるんじゃなくて生きるほうがいい」ってのはなかなか自分でも言いえて妙かなと思っている。織田信長はデパスなんて飲んだことないし、アレクサンドロスはレッドブルを飲んで戦場を駆け回ったわけではない。みんな寝れないときはきっと寝れなかったし、馬鹿みたいに寝る時は寝てただろう。みんな持ち合わせた身体を頑張って使って生きていたのだ。

それに比べたら、軽い気持ちで薬を飲んでしまう私はどうだ。これではもう何かを治療しているとかいう次元でなく、ただの薬物に対する依存だ。本来そんなものはなくても自分次第で安心はできるし、頭痛も放っておけば軽くはなるだろうし、眠ることもできるはずなのにそれを放棄して薬に頼る。これは私が私自身に言う言い方だがあまり生きているとはいわない。どちらかといえば生かされているのだ。

今の自分のそういう状態をまずは受け入れて、前に進む。「やりたいことはとりあえず全部やった」ということで見えてきた次のステージは、自分にとっては「ちゃんと生きる」ことだった。ちゃんと突っ込んでいけば、学生生活とかでやりたいことを大方やってしまったと主張するというのはかなりやり手と捉えることもできるが、同時に「場が与えられていたからできたこと」であるにすぎず、自分で何かを成し遂げたわけではないととらえることもできる。合唱祭の場を借りる手続きも、ソフトボールのベースも、私や仲間たちが手配したのではない。大人たちが裏で手を回してくれていたことなのだ。

だが、実際問題私は理解されがたいタイプの人間だし、なんでもかんでも正直に言ってしまうから就職も難しい。バイトの面接中に出されたお茶を一口飲んで、「伊藤園のお~いお茶ですね」とかいらんことを言ってしまう程度に社会性もない。となるとどうすればいいんだとなる。私にはこうやって文章を書いたり、或いは(インターネットに上げられるものは限られるが)実況をとったり、そういうことで自分を表現するしかないのだ。だから、それを頑張ってやろうということで、文章を今こうやって書いている。

もちろんこれが違う時代だったらそうはいかなかっただろう。理解されない人間だろうがなんだろうが、何かをしないと死ぬ。だが今は幸か不幸か、何も生産的な事をしなくてもどこかの誰かが頑張るおかげで生きていける。

東京五輪の真っ最中だが、選手への誹謗中傷が飛び交い、外国からやってきた選手は出会い系アプリを積極的に使っているという報道も耳に入ってきている。開会式を開くにあたってかなりごたついたという話や、「幻の計画」があったこともニュースになっている。スポーツ大好きな私としては、そういうくだらない大人の話が雑音で仕方ない。そして、洒落にならないレベルで感染症の状況が悪化している。

・・・・・スマブラするか。

社会をどうこうなんて、簡単じゃない。私はつねづね「目の前の人を大切にすること」が社会の底上げにつながると書いている。それができない人が多すぎる。家族はもちろん地域の人や友達を大事にできないで、どうやって社会を変えるんだろうと思う。人と人が隔絶されているのだろう。こうやって文章を書くことが誰かの考えに影響があるものだとは思わないが、焼け石に水でも書いておく。それが、自分の表現だから。

この記事は何日かかけて書いたものなのだが、冒頭の男の子に後日、「くろうさぎさんってそういえばひろゆきに似てるかも」って言われた。

褒められてるのか・・・?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?