「社会で役に立たないから学んでも意味がない」と言われるときの「社会で」という部分への疑問

原題:人文系学問の役割(文部科学省の大学改革案「教員養成系,人文社会科学系の廃止や転換」が各大学に通達されたとのニュースに接して)
初出:Facebook,2014年9月3日(若干修正済,内容は同じ)

  「そんなことを勉強しても社会で役に立たないから意味がない」という言い方を,私はこれまでの人生で何回も見たり聞いたりしてきた。ここで暗黙のうちに前提とされているのは,「社会で役に立たないならば意味がない」ということである。私はこの前提に対し,「役に立つ立たないがすべてではない」という言い方で反論するつもりはない。むしろ私自身も,学問や芸術においては,役に立つか立たないかを問うことをかなり重視する人間であり,トルストイの激烈な学問・芸術批判に一度激しく共鳴してしまった人間であり,このようなことを一度も考えたことがない学者や芸術家には自主的な反省を求めたいと思うほどである。しかし,次のように反論せずにいられない。「なぜ『社会で』役に立たなければ意味がないのか。『社会』がすべてだという前提はいったいどこから来るのか。そうではなく,『人生で』役に立つか立たないかをこそ問うべきではないか。『社会で』役に立つかどうかは,その一部にすぎないではないか」と。

 このたび文部科学省が諸大学に対して「教員養成系,人文社会科学系の廃止や転換」を提案する通達を出し,私は初めほとんど信じられない思いだったが,このような動きの根柢にあるのも,この点がよく理解されていないことであると考える。法学,医学,工学,農学などは,いわゆる「社会で役に立つ」とされることが基本的にそうであるのと同様,分かりやすい形で役に立つ学問である。分かりやすいので,役に立つのはそれだけだとつい思いがちになる。しかし,人生に役に立つのは本当にそれだけか。

 問いを次のように変えてもよい。なるほど,法学は法治国家の運営に役立ち,医学は健康のために役立ち,工学は我々の生活と密接に結びついている科学技術のために役立ち,農学は食のために役立つ。しかし,そういったものに支えられつつ生きてゆくこと,このこと自体はそもそも何のためか。「人生の目的・意味」という大げさな(本来大げさでも何でもなく,真面目に考えるべき問題だが)話にするのが嫌なら,もう少し平たく,こう言ってもよい。何を楽しみとして生きるのか。人生にはどのような味わい方があるのか。いま私が抱えている問題にどのように向き合えばよいのか。何が人生をより幸福にするか。そして,こういった問いに対し,現代日本人は議論の余地のないほど見事な答えを持ち,事実完全に満足して完全に幸福に生きているというのか。それならばたしかにこのような問いを問う必要はなく,ただ現在のままの人生を支える学問だけが研究されればよい。しかし実際にはおそらくそうでない以上,相変わらずこの問いは問われ続けねばならず,そしてそのために,人類は過去の人々が遺したものに学び,またそれと対話する,ということをしてきたし,今もそうしている。それこそが人文系学問,つまり文学部の哲学科や史学科や各国文学科で行われていることにほかならない(たいへん雑なまとめかもしれないが)。

 いま私はすることが非常にたくさんあって,こんなものを書いている場合ではないのだが(そういうわけなので,まったく雑な文章になっているが),それでも書いてしまった。憲法9条をどうするという話などより(!),これははるかに重大な話である。

 日本における人生を無意味化し,日本を生ける屍の国にしたいなら,どうぞ文学部全廃でもなんでもやってくれればよい。ついでに芸術系学部も全部つぶせばよいのではないか。憲法9条がどうこうされても私はまだ絶望しないだろうと思うが,もし人文系学問がつぶされるということが本当に起こるようなら,いくらなんでも日本という国に本当に絶望するかもしれない。

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