教父の詩篇釈義についての本からの書き抜き (和訳)

 Christiana Reemts著,Schriftauslegung. Die Psalmen bei den Kirchenvätern (聖書釈義:教父における詩篇) (2000年) より。著者はベネディクト会の修道女。2部から成る小冊で,第1部は導入的説明,第2部は教父たちの実際の詩篇釈義の紹介・解説にそれぞれ充てられている。ここに少々訳出するのは,すべて第1部からのものである。概要をお伝えするための書き抜きではなく,単に私にとって印象的だった箇所の書き抜きである。
 聖アタナシオスの手紙からの引用が多く出てくるが,原文 (ギリシャ語) は参照していない (つまり当該部分は重訳である)。

[教父たちにとっての,聖書釈義における] 関心事は,現実に生きる一人の人間として,生けるキリストから語りかけられることである。教父たちは,聖書において今この時キリストに出会うためにこそこの書物を読むのである。教父たちは,キリストがそこに現存し自分に直接語りかけているという意識のもとに聖書のメッセージを受け入れる。このようなことが可能なのは,ひとえに,キリストが死者でなく,高められて御父のもとに在る者として生きており,聖書を通して [今も] 語っているということによるのである。(p. 17)

聖書に記されている主要なできごとのすべてが,詩篇の中で言及されている。詩篇を知る者は,聖書が告げていることの要点を把握した者である。[……] 《[木々が] 庭 [で実を結ぶ] ように,聖書中の詩篇以外のすべての文書は,詩篇の書において実を結び,歌われています》(アタナシオス『マルケリノスへの手紙』より)。(p. 17)

(詩篇がキリストの声あるいはキリストについての話を伝えるというなら,罪を悔いている箇所はどうなるのかという問題について)
御父の栄光へと昇ったこのキリストは,引き続き彼の肢体と,すなわち教会と,結ばれている。それゆえ,詩篇の釈義においては毎回,キリストすなわち教会の頭の部分 [だけ] が話題になっているのか,それとも頭と体とから成る「キリスト全体」が話題になっているのかを問わなければならない。この区別は,とりわけ失敗や罪を神の前に告白している箇所において重要な意味を持つ。キリスト自身は罪を知らないが,彼の肢体はまだ完成されていないのであり,それゆえキリストは肢体の立場に立って,また肢体のために (※),罪を告白し赦しを願う言葉をも発するのである。(p. 19)

※ あるいは「肢体の一員となって,また肢体の声を代弁して」。原文 "in ihnen und für sie"。

神であり人でもあるというイエス・キリストの位格 (人格) [の性質] に対応するものが,聖書 [の性質] にはある。聖書もまた,完全に神の言葉であると同時に完全に人間の言葉でもあるからである。神の言葉としては,聖書は限りなく多くの側面を持ち (unendlich vielfältig),その豊かさは決して汲みつくせるものではない。[それに対し] 人間の言葉としての聖書は有限なものであり,空間的・時間的制約を受けているので,どの詩篇についても,誰によってどのような歴史的状況のもとに書かれたのかということを問うことができるし,問わなければならない。(p. 21)

《いずれにせよ,私は確信しています。この書物 [=詩篇] の言葉には人間の生のすべてが,さまざまな霊的基本姿勢 (die geistlichen Grundhaltungen) もあらゆる心の動きや考えも,網羅的に含まれていると。ここに書かれていること以外のものを人間のうちに見つけるのは不可能です》(アタナシオス『マルケリノスへの手紙』より) (pp. 29–30)


《世俗の言い回しによるより適切に思われる表現を用いて詩篇を飾ろうとか翻案しようとか,まして改変してしまおうなどと,誰も試みてはなりません。そうではなく,ただただ書いてある通りに読みかつ歌うことです。というのも,そうすれば,詩篇の書をわれわれに贈ってくれた人々 [=詩篇の著者たち] は [私たちの祈りの中に] 彼らの言葉を認識することができ,われわれと一緒に祈ることができるではありませんか (※)。まだあります。聖霊が,彼らを通してお語りになった御言葉を [私たちの祈りの中に] 認識なさり,私たち [の祈り] を「助けてくださる」(ローマ書8:26参照),そうこなくてはいけません (※)。[……]》(アタナシオス『マルケリノスへの手紙』より) (p. 31)

※「そうすれば~できるではありませんか」「そうこなくてはいけません」は気持を強めに出した自由な訳。それぞれ原文を掲げておく。
● Die Männer nämlich, die ihn [= den Psalter] uns geschenkt haben, sollen ihre eigenen Worte wiedererkennen und so mit uns zusammen beten können.
● Mehr noch, der Heilige Geist soll die Worte, die er durch jene gesprochen hat, wahrnehmen und so auch uns 'beistehen' (vgl. Röm 8,26).



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?