自分で働いて稼げるようになってから、2年が経った。


 初めて自分の稼いだお金で買ったのは、Francfrancのタンブラーだった。必要なものだから、と自分に言い聞かせて、買った。タンブラーなんて、今どき百均にでも売っているだろうという脳内の声は、店員の「ありがとうございました」の声では掻き消せなかった。
 貧乏人の性か、手元にお金があっても、いくらまで使っていいのか分からなかった。いや、正確に言えば、自分の思うままにお金を使うことへの喜びと、少しの罪悪感が常に付き纏ってくるのであった。"これ"から逃げることの出来なかった私は、毎月給料が入る度に少しずつ、身の回りを自分の好きなもので埋めていく作業を始めた。これでしか、この呪いを解くことはできないような気がしていた。
 とはいえ、この感覚は今に始まったことでは
ない。中学生の頃、月に1000円お小遣いを貰えるようになった時からずっと、である。当時から欲しいものはいくつも思い浮かんだが、いざ使おうと思うと、大きな罪悪感が私を襲った。「自分には呪いがかかっている」と初めて気づいたのは、この時であった。



 ─────────

 思い返せば、私の家は小さい頃から裕福な家庭ではなかった。かといって、日々の食事に困るほど貧相な暮らしではなかったが。
 あれをやりたい、これが欲しい、と口にする度に、親が子供の夢を壊すまいと何とか金を工面する姿を見てきた。その度に、私の良心は痛んだ。父も母も親戚とは疎遠であったため、クリスマスも誕生日のプレゼントも、お正月のお年玉でさえも、私にとっては、親がくれるものでしかなかった。
 欲しいものが手に入る喜びと、無視できないほど大きくなった胸の痛みを天秤にかけて、いつしか私は、願いを口に出すことをやめた。
 だからだろうか。友達の間でディズニーランドの話題についていけないのは私だけであったし、放課後に友達とプレイするマリオカートでは、ヘイホー以外のキャラクターで遊んだことがなかった。 私が許されなかったそれをみんなが持っているという事実よりも、それが欲しいと当たり前におねだりできる、その環境が羨ましかった。マッキーで私の名前が殴り書きされたカセットケースの中には、クリスマスに貰った流行りのゲームソフトが2本と、中古屋で安く売り捌かれている、誰とも通信できなかったゲームソフトがその周りを埋めていた。



─────────

 容姿も才能も、特筆するほど何かに長けていたわけではなかったが、地頭と要領の良さのおかげで、運良く家から少し離れた進学校に通うことになった。中学生までは徒歩10分で行けるところが世界の全てのように見えていたが、その範囲が電車移動で1時間半の距離まで広がった。
 友達はみんな、休みの日が嬉しいと言うけれど、帰宅部だった私は何も無い放課後が一番好きだった。人も疎らな駅で、30分に1本しか来ない電車を待つ、その時間は何もしなくても許される気がした。帰ってすぐにお風呂に入ってゲームしよう。そう考えながら、普段であれば足早に通り過ぎる、乗り換え駅の構内にあるドラッグストアが、その日は妙に目をひいた。黄色い背景に赤い文字で「新作です!」と大きく描かれた、目にあまり優しくないPOPの横には、リップが数本並べられていた。蓋は角が面のように削られていて、恐らく宝石を象っているのだろうが、安っぽいプラスチック製のケースのせいで全く宝石には見えなかった。
 パーソナルカラーだとか、骨格診断だとか、それらがメジャーになったのはすっかり最近になってからのことで、高校生の私にとって、まして、今までメイクに興味のなかった私にとっては、そんなものは全く馴染みのないものであった。それであっても、この赤は自分に不似合いであろうと、容易に想像できた。それなのに、私の目には、その真っ赤なパッケージがルビーのように映った。その瞬間だけは、私は呪いから解放されていた。というよりも、呪いがかかっていたこと自体、忘れてしまったようであった。



─────────

 クレ・ド・ポーボーテの下地の上に、NARSのファンデーションを重ねる。目元にはイヴサンローランのアイシャドウ、Diorのマキシマイザーで潤した唇の上にCHANELのリップを塗ると、見慣れた顔が鏡の中にあった。
 そういえば、あのワンピースはどこに仕舞っただろうか、とドレッサーの前から立ち上がると、コスメブランドのロゴが刻まれた紙袋の山が崩れた。呪いが解けた反動か、はたまた新たな呪いにかかってしまったのか。まぁ、前の呪いよりはマシであろうと言い聞かせながら、クローゼットの中を漁る。
 そういえば、今日会う友人にはプレゼントを持っていくのだった。崩れた山の頂点から袋をひとつ取り、綺麗にラッピングしたチョコレートを入れる。


 出かける前にもう一度鏡を見ると、白い肌に赤いリップが、一際輝いて見えた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?