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父親と姉を50年ぶりに会わせた話。

「父親に会ってみたい」と姉に言われて、しばらく悩んだ。

そもそも私たち姉妹でさえ、私が10ヶ月、姉が2歳の時に父と母の離婚に伴い別れたっきり、やっと最近再会したのだから。

 私が物心ついてから、50歳になるまで。

 父親が生き別れた娘のことを、それも最初の我が子がどうなっているか心配している気配は無かった。それどころか、継母との間にできた妹に夢中で、自分の連れ子である私が叱られていても、守ってはくれなかった。

 ある時期まで、私は夕食の「鍋」が嫌いだった。

 仕事が忙しく週末しか一緒に食事ができない父親と継母は、夕食が長い。キリンビールの大瓶を並べて、テレビを見ながら延々と食事をする。特に鍋物の時は、長い。

 食べ終わった私が席を立っても、誰も止めない。

 しかし、妹が「ごちそうさま」と席を立つと父親は必ず言う。「もうちょっとおれ。おい、デザートか何かないんか」と継母に何か出させて妹を引き留める。

 私が去った後のリビングからの、笑い声が高くなったように思える。聞こえないように、部屋で本を開く。小学4年生ぐらいから、ずっと。

 「明るい、賢い、周りを幸せにする」と両親そろって妹を褒め続けるのを聞いてきた。私は「鈍い、暗い、周りをイライラさせる」と言われ続け、言われているから暗くなったのか、暗いから嫌われているのか、よくわからないまま活字の世界に沈んでいた。

 継母に嫌われるのは、仕方ない。でも、父親にも愛されなかったことが、さらに私を屈折させた。社会人になってからは、連絡が来るのはお金に困った時だけ。

 生野区長に着任した初日、2017年4月1日のことを忘れもしない。合格は伝えていたのに、何も連絡はなかった。初日だから励ましの言葉かと思ったら「必ず返す、仕事でどうしてもいるから50万貸してくれ」だった。

 断れば、専業主婦の妹に借りる。私よりは愛された分、優しいから彼女は払ってしまう。それでも父親に貸したお金がふくらんで、新居につけるオーブンを諦めたと切なそうにつぶやいていた。姉妹で父親に貸したお金は700万は超えている。2人でかたくなに断ったら、近所で金銭トラブルを起こした。もう私が貸すしかない。

 私の子どもの年齢も忘れているくせに。
 妹の子どもは溺愛しているくせに。

 私が蔑ろにされるのは諦めていたけれど、我が子に差をつけられるのはさらに悲しかった。

 振り込めば、連絡は途絶える。

 返すと約束した日に、向こうから連絡が来たことはない。「返して」と言うと、逆ギレする。「大学まで出してやった。誰のおかげで今の自分があると思ってる。感謝が足りない」

 私が自分のことを文字にしたがるのは、客観視するためでもある。どう考えても、他人の話と思えばクズ親だ。

 そんな男が、2歳で別れた姉を心配しているとは到底思えなかった。養育費を払っている気配もなく、その存在を口にすることもなかった。まっすぐな想いで「会いたい」と願う彼女を傷つけるのではないか。

 姉には言葉を尽くして、伝えた。会ってがっかりさせるかもしれない。こんな仕打ちをする人間で、金銭トラブルも抱えている。それでも会ってみたいと言う姉に、伝えた。

「決して連絡先を父に教えないこと。私抜きで2人で会わないこと」

 それでもいいと言うので、東京出張の際にセッティングした。姉も父も、関東にいる。段取りのために連絡すると、父親からは「長女のことを忘れたことはない」と酔ったような台詞が来た。お金が無くて痩せたようなことも書いていたので「少しはちゃんとして会ってあげて」と2万円を送った。お礼の言葉は、無かった。

 上野駅の自由の翼像で、待ち合わせる。先に会った姉と「どこから来るんだろうね」と言いあっていたら、姉が先に父を見つけた。写真を見ていたので、わかったらしい。

「Mです」「おお、よく来てくれた」

 ここで、本当なら涙の再会となるところかもしれないが、とりあえず喫茶店に移動して話すことにした。

 「上野ならあっちの方の店がいい。朝でもビールがあるから」

 父親がずんずん歩き始め、あの店、この店が閉まっているのに舌打ちをした。まだ開いてない店が多い。

 私はスーツケースを引きずり、ヒールで必死でついて行く。相変わらずの配慮の無さ。私に奢ってもらえると思って酒を飲みたがる浅ましさ。

 ……私は、姉に会わせたことをすでに後悔していた。


 いくつも店をのぞき込み、結果的に「ルノワール」で800円もするビールの小瓶を前にした父親と、私たち姉妹は向き合った。

 捨てた娘を前に、50年ぶりに会って何を話すのか。

 父親は、2歳の姉の思い出を語った。

「早く帰った時は、団地の前の砂場で遊んでいたMさんが、ニコニコして走って抱きついてきたのをよう覚えてる」

 姉は「覚えていてくれて嬉しい」と、素直に笑顔になった。でも、私は知っている。父親は、相手を惹きつける話をするのはうまい。父親がトイレに行った隙に、伝えた。

「ほだされたらダメです、話がうまいから気をつけて」
「おしゃべり好きなんですね。私もそうだから、似てるのかも」

 ふふっと笑う姉も、自分の今までを臆さず語った。離婚後、すぐに再婚した継父にも可愛がられていたこと、でも10歳でまた別れてしまい、その後もう一人父親はできたけれどうまくいかなかったこと、母親はスナックを今も経営していること、がんばって大学まで出してくれたこと。

 父親は、「苦労を掛けてごめん」とは決して言わなかった。

 言わなかったどころか「なぜ離婚したか」という理由を「言わないつもりだったけれど」と滔々と語りだした。出た、自己愛の塊。俺は悪くない、というために他人を傷つけることに躊躇は無い。

 ある夜、目が覚めたら隣に寝ているはずの母親がいなかった。男のところに行っていた。次の日、10ヶ月の私を抱いて父親は泉北ニュータウンの家を出た。私は大正区に住む叔母の家に預けられた。後日、母が私を連れもどしに来たが、渡さなかった。

 母親と私を引き離した理由を、父親はこう言い放った。

「正直に言うと、意地とプライドだけ」

 浮気された腹いせに、母親を辛い目に遭わせたかっただけ。

 いや、アンタの方が妊娠中に浮気してたやん、浮気で返されても文句は言えんやろ?モルツの小瓶で頭かち割ったろか?……と腹が立ってきたのは、帰りの新幹線に乗ってからで、聞いた時は頭がガンガンして何も考えられなくなった。

 「我が子を手放したくなかったから」「かわいかったから」ではなく、育てる気も能力もないのに「男のプライド」のためだけに連れ去った。

 母親も10ヶ月の子を置いてよく夜中に家を抜け出せるな、とは思うものの、産みたくもない子を産まされて愛情が湧かないのは当然かもしれない。

 ああ、本当に私って誰にも必要とされていなかったんだな。放り投げられた紙風船が、ぽとりと地面に落ちるように。拾ってくれた人はいたけれど、凹んだまま。愛されていないのは知っていたが、わざわざ当人の口から知りたくもなかった。

 しかし、姉は強かった。私とは違う形の苦労をしてきた人なのがわかる。父親の一方的な話を受け止めつつ、母親を決して悪く言わずに苦労したエピソードを重ね、最後にふふっと微笑みながらこう言った。

 「私は、私のことがちゃんと好きだから大丈夫。そりゃ、もうちょっと痩せたいなとかそんな悩みはあるけれど、ちゃんと好きだと思えるように育ったから、安心してください」

 食らった。ただでさえ、頭にいろんな不協和音が鳴り響いているところに。その衝撃で、ずっと考えていたことを父親にちぎって投げつけた。

「私は、未だにこんな風に思えない。『私が好き』なんて言えない。子どもが自立したら、なるべく早く死にたいと思ってる」

 幼少期に私の器に、一番身近な保護者から愛を注いでもらえなかった。妹と一緒に注がれなかったのなら「足りない」と気づかなかっただろう。でも、毎日まいにち隣の花は豊富な水が与えられ、のびのびと美しい花を咲かせていた。

 私の発言は、やさしい姉をおろおろさせた。

 「どうしたら照美ちゃんが楽になるのか、何とかしてあげたい。私も下の子の面倒を見たり苦労はしたけれど、大事にされてなかったと聞いて辛い」

 父親は、何も言わなかった。事実で答えようがないからだ。

 投げつけたところで、何も変わらない。今すぐ死ぬわけでもない。父親からは後日、芝居がかった感謝の言葉が送られてきて、しばらく連絡が途絶えて、金に困ったら連絡が来る。それだけ。

 私は、姉をこれ以上困らせないように話を切り替えた。父親がずっと貧乏ゆすりをしていたのも気になっていた。そろそろ限界なんだろう。

 店を出る前に3人で、そして、父親が姉妹の写真を撮った。

 姉は並んで写真を撮る時に「触っとこう」と、笑顔で父の右腕にそっと触れ、血のつながる人の存在を確かめていた。私にとってはクズでも。焦がれていた存在なんだろう。会わせることができたのは、よかった。私がこだわって再会が葬式の場になってしまっては、申し訳なかったから。

 父と別れ、姉とまた会おうねと握手して別れ、東京の雑踏でひとり。人前に出る仕事があったので、一旦忘れることにして、歩き出す。

 迷いながら目的地に着き、プレゼンをいくつも聴き、コメントし、スーツケースを引きずってやっと新幹線の座席に落ち着いた。

 気を抜くと、父親の言葉が耳にしのびよってくる。

「大正の姉さんのところに預けたけれど、姪っ子がやきもちを焼いたから結局、引き取るしかなかった」

 ぷしゅ、と空気が抜ける。
 聴かなきゃよかった。

 イヤホンを突っ込んで音楽に救いを求める。この春からずっと聴いているMrs.GREEN APPLEの「ケセラセラ」。明るく見せかけて、凛とした寂しさを持つヴォーカルが流れ込む。

ケセラセラ 今日も唱える 限界?上等。やってやろうか
愛を捨てるほど 暇じゃない all right, all right
ここを乗りこえたら 楽になるしかない

Mrs.GREEN APPLE「ケセラセラ」より

 「ここを乗りこえたら」と、仕事をし始めてからずっと降りられない山を登っている。稼ぐことでしか、仕事ができることでしか、私の存在意義はない。だらしなく怠け者の私をありのまま愛してくれる人なんて、誰もいない。

 必死で受験勉強をして大学に受かった、初めて親戚に父親が電話で私を自慢するのを聞いた。勉強ができなければ、仕事ができなければ。私は「無」だ。周りをイラつかせるだけの存在なんだ。

だから今日だけはちょっとだけご褒美を
わかっているけれど
私を愛せるのは私だけ
生まれ変わるなら?「また私だね」

Mrs.GREEN APPLE「ケセラセラ」より

 この歌詞を初めて聞いた時、「私を愛せるのは私だけ」に深く共感しつつも、「生まれ変わるなら私」はまったくそう思えなかった。もう、私は「山口照美」でいるのがしんどい。二度目はいらない。

 自分の根っこをグラグラ揺さぶられながら、今度は姉の心境に想いを馳せる。私の帰り道を案じるメッセージには、「元気なうちに会えてよかったです」という言葉があった。

お姉ちゃん、だなぁ。

 私は3回しか会ってないのに、どこかで味方だと信じられる姉に甘えて、言えなかったセリフがやっと言えたのかもしれない。ただ、この投げかけには、答えが出せないまま。

「3月に宮崎の母のところに行くけれど、照美ちゃんも行く?」

 会ったところで、紙風船がぱんぱんにふくらむことはない。今回、父親の言葉でさらに凹んでしまった。これ以上、しぼんだら浮上できなくなる。

バイバイ 空っぽ器にヒビ
ファンファーレ 明日も「続きから」
ベイベー 大人になんかなるもんじゃないけど
ケセラセラ
なるようになるのさ
ケセラセラ

Mrs.GREEN APPLE「ケセラセラ」より


 「空っぽ器にヒビ」って、もう注いでも注いでも無理ってことなのか。それとも、空の器にしがみつく日々と決別しろってことなのか。それでも人生は続く。なるようになる。私の紙風船も、しぶとく潰れずにいる。

 ビールで少し顔を赤くしながら、父親が母親との出会いを語った。

 両親を早く亡くし、養女となっていた熊本の親戚の家から逃げ出して、母親は神戸港にいた。18歳の彼女を放っておけず、父親は一緒に船に乗った。着いたのは、四国のとある町。そこで親切な人に仕事と家をあてがってもらい、2人で暮らし始めた。ある日、故郷の神戸の風景がテレビで流れ、それを見て泣く父を見て、母は神戸の父の両親(私にとって祖父母)を呼んだ。迎えに来た両親と船に乗った後、見送りに来ていた母に顔も見せない父親を、祖父は叱ったという。

 母も空っぽの器を抱える人だった。そして、父親は今も昔も、自分以外の誰かに注ぐ情は持ち合わせていない。その後、父の両親が不憫に思って母を神戸に呼び寄せ結婚させたが、うまく行くはずはなかった。

 50年。
 母も、姉も、私も何とか生き抜いた。

 不本意な運命を乗り越え、やさしい姉を育てたこの人なら。会ってもいいかもしれない。少しだけ、そう思えた。

 曲と窓の外の夜は次々と流れ、新大阪駅が近づいてきた。根っこはぐらぐらしても、明日からの仕事に向けて切り替えるしかない。終わりなき責任はプレッシャーでもあるが、そのお陰で死なずに来れた。

 そうだ、帰ったら、鍋をしよう。

 食べ終わってもコタツから出ず、テレビを見てげらげら笑う子どもたちを眺めていよう。その様子を想像したら、ぷっ、と空気が入った。

 いつか、紙風船が丸くなったら。
 博多方面の新幹線に乗ろうと思う。