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僕が防災教育に出会った日。

よく「防災教育の人だ。」と言われる。

言われるたびになんだかソワソワする。

確かに僕が防災教育の面白さと奥深さに惚れ込んでいることは間違いない。自分の過去を振り返ると、すべてが必然のように思えてくる。

・神戸出身。
・かの有名な阪神淡路大震災の被災地。
・母校は死体安置所だったらしい。

・小学生のときの東日本大震災。
・テレビの前で棒立ちになった。

・初めて東北を訪ねた高校時代。
・聞こえてくる現地の生々しい声。
・何もない真っ平らな元住宅地。

そして、災害を通じて巡り会う温かい人たち。

「こんな人になりたい」と何度も思った。

僕と災害は切っても切れない関係。

じゃあその原点は何だったんだろう。
ふとそんな疑問がわいた。

あの天才イチローだって生まれた瞬間から野球にのめりこんだわけじゃない。
初めてバットを握った日がある。
初めてボールを投げた日がある。
初めて挫折してやめたくなった日がある。

僕も同じかもしれない。はじめは単なる興味。でも、ずっと続けているとそれがいつしか自分にとって大事なものになった。

「僕が防災教育に出会った日。」

駄文ですがどうぞお付き合いください。

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おじいちゃんの一言

ボランティアという単語の響きは妙に心地いい。そこにお金のやり取りはなく、ただ相手に寄り添ってサポートを届けるという行為。

そんなボランティアから話は始まる。

高校2年生のときの休み時間。
先生からプリントが配られた。
その中身は東北合宿のお誘いだった。

東北合宿とは、生徒有志が運営している被災地訪問プログラムだ。
当時の僕の東北に対するイメージは、おじいちゃんがいつも旅行で行く場所というイメージ。

「寛太もいつか行ってみたらいいよ」

ただその一言が頭によみがえった。
なぜその言葉がよみがえったかはよくわからない。ただそのプリントを手にしたとき、よみがえった。そして、後ろの人に聞いてみた。

「これどういうやつなん?」

「え、興味あるん⁉︎ 明石も一緒に行こうや」

そのあと彼はざっと説明してくれて、僕は単純に興味がわいた。何はともあれ誘われるがままに一歩踏み出してみることにした。

これが一歩目。驚くほど普通だ。

とある商店街での話。

特になんの準備もなく、迎えた当日。
しかしこの経験が災害に対する想いの原点だと思っている。特に現地の人と話したことは今でも覚えている。

僕たちが訪ねた気仙沼には、仮設のプレハブ小屋でできている商店街があった。その商店街でご飯を食べていたときだった。優しそうなお店の主人が話しかけてくれた。

「どこから来たん?」

「神戸からです。震災学習の一環で!」

「神戸かぁ、、、神戸もひどい震災あったもんね。大変だったでしょう。」

さて。この会話を見て、皆さんはどう思ったでしょうか。

確かにこれは一見何気ない会話のやりとりかもしれない。けれど、僕にとっては、この中に一つの忘れられない後悔があった。

忘れられない後悔とは?

それは、「震災学習」という言葉を使ったこと。その言葉を伝えたときのご主人の不思議そうな顔をよく覚えている。

少ししてから僕は気づいた。

僕たち「よそもの」が勝手に来て震災を学ぶ?

震災というセンチメンタルなテーマに土足で踏み込んでいこうとしている?

ちゃんちゃらおかしい話だ。

目の前にいる人たちは何かを教えてくれる教材でもなければ、語り部さんでもないのだ。

ただ地元で美味しい海鮮丼を提供するお店の主人なのだ。

このおかしさに気づかなかった自分が恥ずかしいし、そりゃ「震災学習」などと言われて、ご主人もピンとこないわけだ。

なぜなら皆さんは「明日どう生きていくか」で頭がいっぱいだったはずだから。

多分、そのとき僕は震災学習で来ていると伝えることで、喜ばれると思ったんだと思う。
僕たち若い世代が、わざわざ長期休みに足を運んで、東北を見て、現地の人に話を聞いて、、

僕は「いいことをしている」自分に酔いしれていたのかもしれない。

実際、僕たちなんて何の役にも立たない。
むしろよかれと思ってやっている分、事はより悪質だろう。

震災という悲劇、、?

そんな自分の目を覚ましてくれた言葉。

「神戸かぁ、、、神戸もひどい震災あったもんね。大変だったでしょう。」

正直な話、
「わざわざありがとうね。私たちも頑張るから。」みたいな返答を予想していた気がする。

なぜなら、僕が"東北の人のために"ボランティアで訪問しているつもりだったから。

でも実際は同情の言葉が向けられた。

僕は混乱した。

阪神淡路大震災のことを僕は直接知らない。だから綺麗な神戸しか知らないし、大変だったことはない。ポスト震災時代を生きる僕たちは同情されることに違和感しかない。

ここまで考えてやっと気づいた。

相手のリアリティを掴めないままに、言葉を投げかけられるということはこんなにも違和感があるのか。ただそう思った。

そしてその言葉が何よりも苦しかったのは、紛れもなく僕がご主人に向けた言葉と同質のものだったからだ。

僕が「震災学習」という言葉を向けることもまた、相手を震災という悲劇のストーリーの登場人物に仕立て上げてしまうのだ。

それがどれほど罪なことか。

それでも。

それでもご主人たちはたくさん僕たちと話してくれた。
震災当時のこと。
店中に書かれてあるメッセージのこと。
補助金の行く末がわからないこと。

そして、Facebookの連絡先を交換した。
今でもつながりがある。

多分、僕が災害や震災と切っても切れない関係になったのはこの瞬間だと思う。いや、何かの責任を背負ってしまったとでもいうだろうか。

何はともあれ「つながった感」を感じた。

人の繋がりとは恐ろしいものです。

僕の責任

「被災地に想いを馳せる」ということは、決して難しい話じゃなくて、

「あぁ東北で会ったあの人たちは元気かなぁ」

と、時折思い返すことだと思っている。

そして、あの日、僕がご主人を「震災の人」として扱ってしまったこと。

そしてそれに応えるように「被災者の仮面」をかぶって話してくれた話。

僕はせめてもの責任として、誰かの命が救われるために震災を伝えたいと思う。それが僕にとっての防災教育であり、被災地に行くということかもしれない。

やりたい事はいつも偶然に

ここまで書いてきた通り、僕自身が防災教育を頑張ろうと思ったのは単なる偶然だ。

たまたま入った店でそう思ってしまったのだ。

だからやってみたいならすればいいと思うし、誰かに強要したいとも思わない。

ただ確実なことは、多分それぞれの人にとって、大事な誰かがいると思ってて、

そしてその人にお世話になったことに対する恩や義理みたいなものは大事にしてほしいと思う。

震災のように、それが引き裂かれる瞬間はいつ来るか分からないから。

大事な人に、いつもは言わない何か一言を。

何か伝えたいことがあるならそれぐらいです。

10年という歳月。

熱く語ったが、別に一年中意識が高いわけでもない。ただふとした瞬間に他の人よりもちょびっとだけ責任を感じる。

それは「東北」という言葉を聞いたとき。

地震速報が流れる瞬間。

3月11日14時46分。

僕のLINEのトプ画はずっとあのときの海鮮丼の写真だ。

少しでも思い出せるように。

忘れないようにと想いを込めて。



震災から10年。

難しいことはわからないけれど、
また東北に行きたいと思うし、
災害についてもっと知りたいと思う。

そして最後の最後に一言だけ。

できることならば、それぞれの言葉で災害を語ってほしいと思う。

小学生の頃、ただテレビの前で棒立ちになっていた僕ですらこうして偉そうに文章を綴っている。

語るのに誰の許可もいらない。

これを読んだ皆さんの目から見た「震災」をありのままに教えてほしいなぁと思います。

恥ずかしかったら共感したものをRTでも。

それが僕の作りたい防災教育であり、
あの人たちへの恩返しです。今のところはね。

長文読んでくださりありがとうございました。

2021年3月13日


☆☆☆

編集後記
ここは少しぐだぐだと書きます。
4回生を迎えるこの時期、やっぱり自分の「やりたいこと」を問われてしまいます。それすなわち人生の価値の基準づくりというか。
そしてそれはとても苦しいものです。やってみて分かりました。なんで明日の自分さえ分からないのに、初めて会った他人に価値があるかを判定されていくのだろう。それが社会の厳しさというなら、もっと厳しくすべきところはあるだろうにと思ったり思わなかったり。
...めっちゃ病んでる感じになりそうなのでストップします。文字にすると意外と思ってもないことを書いちゃうのでよくない笑

今回は、震災についてということで、高校2年生の頃の話を思い出してみました。懐かしい。
今回書いたことを考えてる当時の僕の背景には、勉強への行き詰まりがありました。とても楽しかった授業が、問題が解けなくなっただけでつまらなくなってしまい、何をやってきたんだろうという不安に襲われていました。いわゆる5教科の学びに対する不信感です。もっとわかりやすく言うと、こんなの勉強して何になるねん、と。
でもそんな時期に連れていってもらった東北の人たちの話は必要以上に衝撃的でした。自分の生活を捨ててまで、東北に乗り込んで、なんとか役に立とうとしている少し歳が上のお兄さんたちは、シンプルにかっこいいな、すごいなと。
それと同時に僕には程遠い世界に生きている人でした。のほほんと暮らしていた高校生活で何か価値を生み出してたわけでもなかった僕は、その人たちに憧れるほど遠く感じていました。
でも、人間なんでも続ければそれなりにできるようになるもんですね。初めて防災教育を意識してから5年目になりますが、最初よりはマシになった気がします。結局、「継続は力なり」なんでしょう。
だからこそ「やりたいこと」を一生懸命頭で考えるよりも、「とりあえずやってみる」こと。そして「続けてみる」ことで見えてくる世界も変わってくるのかなぁと思います。
関係ないですけど、こういうあとがきとか編集後記の口語文を読むの結構好きなんですよね。なんか素で書いている感じが伝わってきて。もう読みやすい文章さえ意識しなければいくらでも書けそうです。正直、上に書いた文章、気づいたら煽り文っぽくなっててあんまり好みじゃないスタイルになってしまったのは反省です。でもどんな文章なら読んでもらえるかなという実験でもあるので、ぜひご感想いただければ嬉しいです。いいねだけでもぜひ、、!

最後に。数々の災害で亡くなられた方々への哀悼の意を表し、これからの災害で亡くなる方々が、自分も含めて1人でも少なくなるように願いを込めて。

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