やっぱりクラシックが好き!


一の一シューリヒトのブルックナー、マタチッチのブルックナー:前編
ブルックナーというと、交響曲第8番が最高傑作とされている。名盤は数あれど、必ずお手本とばかりに提示されていたのがクナッパーツブッシュ/ミュンヘン・フィル版と、シューリヒト/ウィーン・フィル版だった。
ただし今回紹介するのはブルックナーの絶筆となった交響曲第9番なので、クナことクナッパーツブッシュの出番は残念ながらない。
クナに関しては熱狂的なファンであった故宇野功芳ですら、第9は改訂版を振っているからと難色を示しているくらいだ。
狂がつくほどの宇野氏ですら敬遠する、クナッパーツブッシュ版のブル9参考までに聴いてみたい気もするがどんなものか。
さて、第9番である。シューリヒト版を初めて聴いた時、第一楽章の何人も寄せつけない断崖絶壁の高峰を思わせる響きにのけぞってしまった。
厳しさを感じさせる旋律だが、聴き慣れると逆にブル9はこれでなければいけないと他の指揮者のものが物足りなくなった。
生涯ブルックナーを得意とした朝比奈隆のものを聴いても、これほどの感銘は受けなかった。逆に最晩年のライヴ録音を聴いた時、あまりの苦しそうな演奏にああ、朝比奈はもうすぐ死ぬからこんな音になったのだとむしろいたたまれなくなった。
シューリヒトのブル9には、そんな人間の苦悩というか死の影は微塵も感じられない。
ただブルックナー自身がこの未完の大曲を、彼自身が愛してやまなかった神に捧げようとしたような別世界の響きをシューリヒトは見事に体現していた。
聴きようによっては、これは新約聖書の「ヨハネの黙示録」を表現しているようにも受け取れる。
少なくともシューリヒトの孤高の響きは、復活の日に最後の審判を受ける人類の行く末を描写しているかのようだ。
どんな人間でもいずれは死を迎える。その後、亡くなった者たちはどこへ行き着くのか。人類がこの地上に誕生して以来、永遠のテーマである。
キリスト教は人類最後の日に審判が行われると説いた。宗教の是非について、ここでは敢えて問うまい。
ブルックナー自身は敬虔なクリスチャンである自分も、最後の審判で復活すると願っていたであろう。
だからこそ聖フローリアン教会の地下に埋葬されることを望み、死後その通りになった。
作曲家の神に対する熱烈な憧れと畏怖、第9番はそんな背景を抜きには語れない。そしてシューリヒトはそれを余すところなく響き尽くした。
第三楽章の終結部を聴いてみるがいい。それまでの厳しさから一転した穏やかな旋律。この瞬間、ブルックナーだけでなくシューリヒトの脳裏にも神の微笑みが浮かんだと考えるのは穿ちすぎだろうか。
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