1989年の天安門事件と、当時の日本政府の「孤軍奮闘」

1989年の天安門事件と、当時の日本政府の「孤軍奮闘」 2020年12月24日に掲載

 天安門事件が起こった1989年6月4日の当日、日本政府はいち早く中国を国際的に孤立させるべきではないと判断し、同年7月に開催されたG7(フランス・アルシュ・サミット)において対中国経済制裁決議を「自国のことよりも必死に」食い止めていた事実が、機密指定を解除された複数の外交文書から明らかになった。

 天安門事件とは1989年6月4日未明、北京市の天安門広場に民主化を求めて集結していた学生など一般市民に、人民解放軍が戦車で乗り入れて無差別に発砲し、数多くの一般市民が犠牲になった事件である。

 そもそも中国では天安門事件は「なかったこと」になっているため、事件を知らない中国民も多い。天安門事件について外国人記者の質問を受けた中国報道官は「すべて解決積みである。もっと勉強しなさい」との一言で一切のコメントを拒否している。中国内では少しでも事情を知る生存者に対してはいまだに厳しい監視が付けられている。

 中国当局が「渋々」発表した犠牲者はわずか319人であるが、実際は数千人から1万人の一般市民が「天安門に集まっていた」というだけで虐殺された。

 当時の中国共産党の最高指導者は87歳の鄧小平であった。鄧小平はその後の1992年に南巡講話(当時は田舎町だった上海、武漢、深圳などを視察し経済改革を訴えた)を行い経済的には改革派であるが、政治的には厳格な保守派であった。その鄧小平の下には、総書記の趙紫陽(改革派、当時の総書記は現在ほど偉くなかった)と、首相の李鵬(強硬な保守派)という2人の対立するライバルがいた。

 1989年4月15日、趙紫陽の前の総書記だった胡耀邦が亡くなった。胡耀邦は改革派で特に国民の声をよく聞き、大変に人気があった。その胡耀邦が亡くなったため、学生を含むたくさんの一般市民が追悼のために天安門広場に集まり、やがて民主化を求める集会のようなものになっていった。しかし過激な行動は一切なかった。

 ところがその趙紫陽が北朝鮮を訪問していた4月26日、この天安門における集会は「動乱」であり、即刻排除しなければならないとの社説が出される。これは長い間、李鵬が書いたと思われていたが、後に鄧小平が自ら書いたことがわかる。

 「動乱」とされた学生を含む一般市民もさすがに動揺し、天安門に集まる人数もそれまでの10万人台から100万人規模に膨れ上がったが、依然として過激な行動は一切なかった。

 つまり鄧小平と保守派の李鵬らが結託して改革派の趙紫陽を追い落とすための手段として、天安門に集まっていただけの一般市民を「動乱」と決めつけ大量虐殺したことになる。この鄧小平の「恐ろしい本意」をすぐに理解した趙紫陽は5月19月早朝、一人で天安門に向かい学生を含む一般市民に「すぐに家に帰りなさい。そうしないと殺される」と説得したものの効果なく、趙紫陽はその日のうちに全役職を解任され2005年に亡くなるまで自宅軟禁となる。

 そして鄧小平はすかさず同日(5月19日)、中国全土に戒厳令を布告し、中国全土から10万人を超える人民解放軍を天安門近くに集め、じりじりと包囲網を狭める。そして「天安門は暴徒に占拠された動乱状態であるため、即刻制圧せよ」と命令し、実弾を配る。ここでも「市民に向けて発砲せよ」とは言っていないのは、明らかな責任逃れであった。

 そして6月3日にはついに戦車部隊が天安門広場に入り、翌4日未明に無差別銃撃が始まる。

そして鄧小平が選んだ後任の総書記が、上海市長で保守派の江沢民となる。当時はヒラの政治局員だったため、2階級特進して総書記となった。そしてこの江沢民の時代から、総書記の地位が格段に高められて中国共産党の名実ともにワントップとなり、その地位は胡錦涛、習近平へと受け継がれていく。江沢民は現在も「長老」として権力を維持している。

ところで鄧小平が江沢民を後任の総書記に選んだ理由は「偶然」ではない。胡耀邦が亡くなり、哀悼のための天安門に集まっただけの一般市民を「動乱」とした社説が出た直後から、極端な賛同記事を何度も書き鄧小平に「猛アピール」していたからである。典型的な猟官運動で、江沢民が「信念として保守派だったのか?」はあまり関係がない。

しかしこの江沢民の実父が、日中戦争時代に日本の傀儡政権である汪兆銘政府の官吏だったため、その経歴を隠すために猛烈な反日運動を繰り返す。南京大虐殺や靖国神社参拝に口を挟むなどの反日運動は、すべてこの江沢民の総書記時代に始まっている。韓国の慰安婦問題も同じころに始まっており、裏で江沢民が糸を引いていた可能性がある。

さすがに中国は天安門事件で海外から大きく批判されるが、機密解除された外交文書にあるように日本政府はG7で「自国のことよりも必死に」対中国経済制裁決議を回避させる。G7に出席した日本の首相は宇野宗助、外相は中山太郎であった。宇野は女性スキャンダルによりわずか69日で退陣したが、唯一の「功績」が中国政府への「大貢献」だったことになる。

日本政府の中国政府に対する「大貢献」はまだまだ続き、1992年には天皇・皇后両陛下(現在の上皇・上皇后両陛下)のご訪中を強行し、1998年には江沢民夫妻を国賓として訪日させ、中国が国際社会で孤立しないように引き続き「尽力」している。

 しかし天皇・皇后両陛下(当時)は、後年までこのご訪中を後悔なさっており、また国賓として来日した江沢民は宮中晩さん会に中山服(普段着)で出席し、両陛下の御前で日本の「戦争責任」をとうとうと批判し、円建て借款だけは礼も言わずに持ち帰った。

 今も昔も、これが中国人の本質である。

 その日本政府の「大貢献」もあり、中国は2010年に日本のGDPを上回る経済大国となる。世界における存在感を高めるとともに、中国内外において傍若無人さが目立つようになる。

1997年に香港が返還され、50年間は「一国二制度」が維持されることになっていた。しかしとっくに反故になり、2020年6月30日には香港国家安瀬維持法が成立し香港市民に対する弾圧も始まっている。

今般、米大統領選における中国政府の干渉が噂されているが、その遠因が31年半前の日本政府にもあったことを強調したかったため、本日の記事となる。

2020年12月24日に掲載