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検証! 東京裁判

 検証! 東京裁判

 今でもアジア諸国との間に靖国神社参拝問題や慰安婦問題などが残り、 鎮静化する兆しはありません。何よりも問題なのは、当時の日本が極東国際軍事裁判 (以下 「東京裁判」)で裁かれたように侵略戦争を行って世界とりわけアジア諸国に大変な迷惑をかけた、との認識が日本国民の間にも根強いことです。

 そのことを評論する前に、 東京裁判をもう一度公平に検証することにします。少なくとも日本国民がその意味を 「正しく」 理解しておかなければ、あと100年たってもアジア諸国との間に確執が残りそうだからです。

 終戦直後の1945年8月30日に厚木飛行場に降り立った連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーが指令されていた「日本降伏後初期の対日政策」 の中で、最も火急なものが 「戦争犯罪人の逮捕 訴追命令」 だったはずです。

 その命令の根拠となったのは、終戦直前の8月8日に米英仏ソの4か国が締結した 「欧州枢軸諸国(主に日独伊) の重要戦争犯罪人の訴追および処罰に関する協定(いわゆるロンドン協定)」 です。 その中には捕虜虐待などの「通例の戦争犯罪」のほかに、侵略戦争を計画・実行した者も犯罪者として裁ける 「平和に対する罪」 と、占領地での一般住民に対する非人道的行為を裁ける 「人道に対する罪」 が新たに加えられていました。

 この 「平和に対する罪」 と 「人道に対する罪」 は明らかに 「事後法」 であるだけではなく、その「被害者」 はあくまでも枢軸諸国 (主に日独伊) に攻撃された連合国側だけに限定されており、連合国側の罪(例えば原子爆弾の投下など)は一切考慮されておらず、また枢軸国 (主に日独伊) の自国民に対する罪も一切処罰の対象ではない 「明らかな欠陥法」でした。

 このロンドン協定に基づき、ドイツでは国家の中枢で政治や軍事を動かしていた人物 (主にナチス党員)を裁くニュールンベルグ裁判が1945年11月20日から1946年10月1日まで開かれました。

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