文人たちの江戸名所(一)         「根岸鎮衛と芝神明宮」後編 

還暦過ぎの子
 
テッチャンこと南町奉行・根岸鎮衛やすもりの、謎多き父親、安生定洪あんじょうさだひろの出世を追っています。
 俸禄が七十俵五人扶持のかちから、百五十俵の徒組頭かちくみがしらに出世した安生定洪は、さらに一踏ん張り。享保二十一年(1736)に、ついに旗本役の代官に出世したのでした。
 およそ半世紀かけて、御家人を脱して旗本となったのです。のことでした。この年改元があり、元文元年となります。
 翌元文二年、六十二歳の定洪は、頑張りついでに三男を儲けました。テッチャンです。通称銕蔵てつぞう、あるいは九郎左衞門。還暦を過ぎてからの子なので、おそらく二人の兄たちとは母が違うと思います。父ちゃん、頑張りなのか、好色なのか微妙ですね(笑)。
 代官は幕府直轄領の支配を担当したので、管轄地で出来た子なのかも知れません。すべての欲望を絞り尽くした定洪は、三年後の元文五年に亡くなりました。享年六十五。
 惣領そうりょうの安生直之は、百五十俵の家督を継ぎます。徳川幕府は大名の跡継ぎを嫡子、旗本・御家人の跡継ぎは惣領と呼んでいます。
 直之は勘定、評定所留役・蔵奉行と累進して旗本になりました。晩年は布衣ほいを許され、役高七百石の船手ふなてに出世しています。さすがにテッチャンのお兄さん、優秀だったんですね。
 ところで定洪が亡くなったとき、三男のテッチャンはまだ数えで三歳。父の死で将来に暗雲がただよいます。惣領は家を継ぐのでチヤホヤされましたが、二男・三男以下は、惣領に「万が一」があった時、血統を絶やさないための「お控え様」として扱われました。
「万が一」がなく、惣領が健康で家督を無事継いだら・・・その後は「厄介やっかい」と呼ばれましたたのです。ヒドイ(泣)。
 無駄飯食い扱いです。これじゃあ、ぐれたくもなりますね。厄介は養子の口を探すか、武芸や学問に励んで別な道を探すしかありません。厳しい競争から脱落して無頼に走る者が続出し、幕府の悩みの種でした。
 ましてや代官・定洪が外で作ったテッチャン。母子が安生家でぬくぬく暮らせたとは思えないのです。
 あくまで想像ですが、ここでも裕福な相模国の鈴木家が面倒を見たのかも知れません。その後のテッチャンの豊富な資金元を考えると、十分あり得るのです。
 いずれにせよ、複雑な家庭環境からテッチャンは、一時身を持ち崩してしまいました。無頼の世界にはまって、刺青いれずみも入れちゃいます。
 ところが、テッチャンは二十二歳になって突然生き方を激変させました。何がきっかけだったのか、残念ながら随筆『耳嚢みみぶくろ』にもそれを匂わせる記述はありません。

「これ、テツ!また博打で朝帰りですか。ここにお座りなさい。おお、袖から見える、その不気味な青い絵はなんです!まさか・・・ヨヨヨ、ヨ~」
「おっかさん、泣かないで。もう無頼から足を洗うからさ。実はオラァ米相場で大金をつかんだんだ」
「えっ、ホント?ヤッタァ!あんたはいつかはやる子だと思っていたわよ。じつは叔父様が良い養子口を見付けてくれたのですよ。ちょうどいいわ、そのお金を持って挨拶廻りに行きましょう!すぐに月代さかやきを剃って、かみしもに着替えてちょうだい」
「おっかさんたら相変わらず現金だなぁ。でもこっちの人生ゲームの方が博打より面白そうだね」
 
 まさかね。でも、テッチャンには「博打が上手い」という噂が、生涯つきまとっていました。
 話が煮詰まってきましたね。真偽のほどはさておき、先を急ぎます(パタ、パタ)。

刺青旗本の誕生
 どんな伝手をつかったのか、宝暦八年(1758)、二十二歳の安生銕蔵は、家禄百五十俵の小普請こぶしん旗本、根岸衛規もりのり末期まつご養子に潜り込みます。
 末期養子は嗣子ししのない当主が重病危篤に際し、急いで願い出る窮余の策でした。条件は大変厳しく、本来は養父本人が願い出なくてはなりません。それが難しければ、せめて上司や目付の確認が必要でした。
 しかし、この頃にはその規制が形骸化しています。テッチャンはそこに目を付けたのでしょう。
 その代わり、かなりのお金を積んで、遺族の生活を保障し、上司や縁戚にも根回しのための金をばら撒かなくてはなりません。御家人株を買うより何倍もの資金が必要でした。
 米相場の儲け(?)がウソだったら、大スポンサーが必要なのです。テッチャンを親身になって面倒を見てくれる大金持ちといえば、父の実家、相模の鈴木家しか考えられません。
 ここがテッチャンの最大の謎なんです。生前から出自をとやかくいわれるのは、このあたりでした。
 しかしテッチャンは耳の遠いふりをして(これはホント)、なんとかこのハードルを乗り越え、百五十俵の下級旗本の養子となりました。
 しかしお金はまだまだ必要なんです。正式に旗本と認められるためには、将軍との初御目見おめみえが必要で、またもや関係各所に金をばら撒かねばなりません。金、金、金でうんざりですね。ブチ切れそう!
 ガチガチに儀式化した幕府体制の中にあっては、初御目見は将軍との君臣関係が確認される大事な儀式。これによって家督知行の相続権が生じるからです。
 家督を相続したい者は金をばら撒き、なんとか初御目見しようと、上司に請願の朝駆けもします。亡くなった養父・根岸衛規は病身で、長く役に就けませんでしたから、条件も悪く伝手もありません。
 しかしテッチャンはこのハードルも黙々とこなし、五ヶ月でクリア。第九代将軍家重いえしげに初御目見しました。
 いったいどれほどの金を突っ込んだのか!
 この位で驚いちゃ~いけません。さらに奇蹟の出世は続くのです。
 初御目見を済ませた翌月に、なんと定員百八十六名しかいない勘定に就任してしまいました。
 勘定は勘定奉行支配で、百五十票高。焼火間たきびのま席。支配勘定、支配勘定見習、勘定出役という御家人の下僚もいる、今日なら役所の主任か係長で、立派な中級官僚です。
 同じ旗本でも、役に就くか就かないかでは天と地ほどの差がありました。つい最近まで無頼人だった男が、あという間に一頭地抜けた旗本になったのです。
 当時は、勘定就任者はほとんど世襲でした。それもソロバン勘定に優れた勘定の子が見習に出て、努力を認められて正式な勘定になる習慣です。
 無役の旗本に養子に潜り込んだテッチャンにとっては、かなり高いハードルのはずなのに、あっさり就任出来たのです。どうしてこんな異例の人事が起きたのか。
 実はこの頃の勘定所は、前代未聞のスキャンダルが進行し、大混乱だったのが幸いしたのです。

快刀乱麻を断つ田沼意次
 
きっかけは史上名高い「郡上一揆ぐじょういっき」でした。
 長くてややこしい事件ですが、カル~クご紹介したいと思います。
「あら、イヤだ?一揆なんて知らなくてもイイのよ~、面倒くさいわね」
 と、おっしゃる方!いや、それは弱ったなぁ(ポリポリ)。
 一揆が幕閣をブッ吹っ飛ばした江戸時代でも大変珍しい事件なんで、ここは御辛抱下さい(汗)。
 この頃、美濃国郡上藩は、年貢を定免じょうめん法から検見取けみどり法に変更して増徴を画策しましたが、農民が大反発。一揆が起きたのです。
 一揆勢は弾圧をかいくぐって、老中へ訴状を手渡す駕籠訴かごそを敢行し、ついに幕府で審理することになりました。
 しかし幕府内で郡上藩を支持する勢力の抵抗も強く、もみ消し工作も行われて事態は膠着化こうちゃくかします。
 一揆勢は宝暦八年、今度は目安箱に訴えました。目安箱を開けることが出来るのは、将軍に限られます。
 九代将軍家重は幼い頃に高熱によって言語能力を失っていましたが、頭の切れは抜群といわれます。
 自分のあずかり知らぬ所で起きていた不正を知って、幕閣が自分を「蚊帳かやの外」にしたと激怒。
 事件の背後に幕府要人の不正関与を疑い、御側御用取次おそばごようとりつぎ・田沼意次おきつぐを起用して解明に乗り出したのです。これが意次の、大跳躍のきっかけでした。
 家重はまず意次に五千石を加増して一万石の大名とし、評定所へ出席させました。評定所は前編の「め組の喧嘩」でも説明したように、幕府の「最高裁判所」です。
 意次は大張り切り。将軍の意向を背景に評定所を掌握し、幕府高官の不正疑惑に迫りました。
 そこで判明したのが、郡上藩側の対幕閣工作でした。藩主金森頼錦かなもりよりかねは、義理の父に当たる老中本多正珍ほんだまさやすを通じて、勘定奉行大橋親義ちかよしに依頼し、有利な判定を得ようとしたのです。もちろんそこでは大金が動いていました。
 賂を受けた親義は美濃郡代代官に命じて、幕命として検見法採用を命じた事が明らかにされます。
 この調査の結果、関わった老中本多正珍は罷免、西丸若年寄・本多忠央ただなかは改易。大目付・曲淵英元も罷免、小普請入り、勘定奉行大橋親義は改易、陸奥相馬中村藩に永預けを言い渡されました。
 田沼意次はこの処分を通じて、勘定所内の旧勢力を一掃。勘定所人事を手中に収めます。
 まさにこのタイミングで、テッチャンこと根岸鎮衛が採用されたのでした。偶然でしょうか、それとも田沼意次とのパイプがあったのでしょうか。
 その後テッチャンは、意次の期待に応えて手腕を発揮し、勘定所内で存在感を高めます。
 五年後の宝暦十三年、勘定身分に加えて、定員わずか八人の評定所留役に出役、つまり出向を命じられたのです。百八十六人の勘定から選ばれるのですから、かなり優秀でした。
 テッチャンはまだ入所五年目。二十七歳の若造が評定所留役になるなんて、尋常じゃありません。ベテランたちの怨嗟の声が聞こえます。
 でもテッチャンは都合が悪くなると、また耳が遠くなる得意技で知らんぷり。したたかなんですね。
 生活が楽になったから気にしません。役高百五十俵はそのままですが、二十人扶持が加わわったのがありがたい。これは石高にして三十五石に当たります。
 私生活も順調で、宝暦十二年に旗本桑原盛利の娘・たかと結婚。嗣子衛粛もりよしほか三女を授かり幸せな家庭を築きます。
 テッチャンの後見人(あ、いつの間にか断定しちゃった)田沼意次も、勘定所と評定所を制した後、日の出の勢いとなります。
 テッチャンも後を追うように出世して行きました。
 明和四年(1767)意次が側用人になると、翌年テッチャンは勘定組頭になります。役高三百五十俵。
 享保の改革で足高たしだかの制が導入され、役職ごとに禄高を定め、就任する者の家禄が役高に達しない場合、その不足分を在職中のみ加増する制度です。
 役高は家禄とならないので、子どもに引き継げません。膨れあがる人件費を抑制するシステムです。
 テッチャンも家禄は百五十俵のままですから、差額二百俵を足高として貰い、役料百俵も支給されました。
 さらに安永五年(1776)、ついに大金星を摑み取ります。勘定吟味役になったのでした。役高は、ご、五百石ですぞ。
 享保頃、旗本は約五千二百人いますが、五百石以上は千六百八十家で、テッチャンは上位の旗本に入ってしまったのです。
 布衣ほいの着用も許されました。布衣は式日に着用する礼服。無紋の狩衣《かりぎぬ》で、武家官位六位に相当します。各部門の頭になると許される立身の象徴でした。

布衣を着るのが旗本の憧れでした

 しかし時の権力者にこんなに密着して大丈夫なんでしょうか?

浅間山焼けの惨状
 
天明二年「浅間山焼けて、上州武州の内、甘楽郡・碓氷郡・緑野郡・片岡郡は、或いは三尺或いは一尺ほどに焼け砂降り積もり、田畑を押し埋め堀川を埋め、浅間近き軽井沢などは火のままふりしゆえ、家も焼け候もありて恐ろしき事なりし(中略)予 右見聞御用仰せこうむりて、残らず廻村見聞」(『耳嚢』)
 テッチャンこと根岸鎮衛は、三十年以上にわたって随筆『耳嚢』を書き続けました。
 内容は来訪者や古老が語った奇異談・巷説が中心で、職務や私事に関する記述はほとんどありません。
 しかし当時の大事件だった浅間山焼けは、三編書き記しています。それもそのはず、テッチャンは勘定吟味役の職にあった天明三年、この被害状況の視察と、救済復興計画を命じられていたのでした。

天明三年の浅間山大噴火は、さまざまな記録が残されています

 日本でも有数の活火山・浅間山は、記録的な爆発を何度も繰り返していますが、この天明の爆発は平安時代の天仁の大噴火以来の大規模なものです。
 天明三年(1783)四月に噴火活動を再開してから三ヶ月間小噴火を繰り返し、七月六日、ついに大噴火を起こしたのでした。
 大噴火は三日間続き、信濃、上野ばかりか、日本中に最大級の被害をもたらすことになります。
 七月七日には軽井沢の宿の家々は赤熱した石が落ちて焼け、積もった軽石で潰れました。七日から八日にかけては特に激しく、烈しい揺れで山麓の家々は戸や鍵もはずれ、雷鳴稲妻が凄まじかったといいます。
 幕府が深刻な被害を察知したのは七月九日でした。利根川下流の江戸川周辺の村々から、異変の報告が入ってきたのです。
 河が泥で濁り、根を付けた倒木や、粉々になった家財道具が一面に広がって、中には損壊した人や牛馬の死骸もたくさん交じっているというものでした。
 幕府は勘定所の役人を先遣隊で派遣し、被害状況を視察させます。
 続いて八月十七日、テッチャンに復興のための巡検役が下命されました。勘定吟味役就任以来、日光修復や東海道や関東の河川監察でたびたび手際よく処理したので、白羽の矢が立ったのです。
 まさに脂の乗りきった四十六歳。一行を率いて八月二十八日に江戸を立ち、九月二日上州渋川に入り、村々を巡見した後、武蔵国本庄宿に戻って、川越藩に幕府の救済方針を伝えました。
 テッチャンがさらに注目したのは、火山泥の被害です。
「上州吾妻郡は浅間の後ろなるが、かのあたりは砂の降りしは少なけれど、浅間山頭鉢段といえる洞より泥火石押出し、家居を押流し人民を泥に埋め」(『耳嚢』)
 これが今日残っている「鬼押出し」です。村人は押し寄せる泥の河に怖れをなして、裏山によじ登って逃げました。しかし二十人余が行方不明。
 人々が生存を諦めていたところ、吾妻川の川縁に泥が盛り上っているところがあるではないですか。まるで人がうつぶせに倒れているようにも見えます。懸命に掘り起こすと・・・。
「村方百姓の母、孫を肌に負いて、祖母は相果て、背負いし孫はつゝがなかりしとなり。(中略)不思議の運なり」(耳嚢』)
 テッチャンは被災者から聞き溜めた奇跡や助け合いの感動話のみを残しています。悲惨な話は公式の報告書にとどめたのでしょう。
 救済と復興計画策定が速やかに終わり、テッチャンの任務は終了しました。
 気の重くなる調査でしたが、その功績などにより、翌天明四年に黄金十枚を賜った上に、遠国おんごく奉行の佐渡奉行に累進します。

歌川広重『六十余州名所図会 佐渡金やま』


 佐渡奉行は幕府財政の生命線ともいえる佐渡金山の生産を一手に握っており、勘定方としては非常に重要な職です。
 同時に家禄に五十俵が加増されて二百俵になります。遠国奉行になった者に対しわずか五十俵の加増とは幕府もずいぶんケチに見えます。
 しかし家禄への加増というのは、能力の判らない子々孫々にまで保障される基本給ですから、旗本にとっては重要な褒美でした。
 佐渡奉行は、役高千石(手取りでは千俵)、役料千五百俵、百人扶持ですから、あわせて年俸二千六百八十俵が加増されたことになります。
 テッチャンは深い満足感に包まれていました。

生涯最大のピンチ襲来
 ということで、テッチャンにはめでたい限りだったのですが、その後の日本は「浅間焼け」の後遺症に長く悩まされます。
 軽石や火山灰におおわれた上信地方の田畑は、何年も作物が採れなくなりました。
 日本全体も、上空に噴き上げられた火山灰によって、日射しがさえぎられ、その後数年間気温が下がる気候変動に襲われます。
 ちょうど同じ年の1783年に、地球の裏側アイスランドのラキ火山も大噴火。火山灰などで太陽光がさえぎられて、ヨーロッパに数年にわたって異常気象をもたらしました。
 フランスでは労働者数の減少、旱魃かんばつ、冬と夏の悪天候で食糧不足が発生し、1789年のフランス革命の大きな原因となったといわれます。
 日本においても気候変動は政変を招きました。この天明三年(1783)から史上最大の飢饉、天明の大飢饉が始まり、東北地方をはじめ日本各地で多くの死者や難民が出たのです。
 東北諸国では一揆、打ち壊しが頻発。人々の不満は幕政を握る老中田沼意次に向かいます。
 天明四年に、意次の息子で若年寄の田沼意知おきともが、城内で佐野政言まさことに刺されて死亡した際には、政言は庶民から「佐野大明神」ともてはやされました。
 結局、十代将軍家治の死去とともに、意次は老中を罷免されます。天明六年の政変でした。
 意次を追いやって実権を握ったのは、御三卿田安家から白河松平家を継いだ松平定信。実学好きの八代将軍吉宗の孫ですが、こちらは観念的な朱子学にどっぷり浸かったコチコチ頭で人望がありません。
 田沼派の高官が多く生き残っているため、政権を完全に掌握できず、残党掃討に死に物狂いです。
 意次の贔屓ひいきで出世したと見られていたテッチャンも、粛正に巻き込まれるのは必至。その地位は風前のともしびと思われていました。
 不安な日々をまぎらわせるために、書き始めたのが有名な随筆『耳嚢』だったのです。
 ここからなんと三十年以上も書き続けたのですから、定信の「恐怖の粛正」も『耳嚢』フアンにはありがたいですね(それは、ないか)。
 ともあれ、佐渡のテッチャンの家族も周囲も、意次が失脚した天明六年後半以降は緊張に包まれていました。愛妻たかは気が気でありません。

「おまいさま、田沼さまと親しかった勘定奉行の松本伊豆守さまは逼塞ひっそくだとか。おまいさまは大丈夫かしら」
「た~か~♡、江戸じゃあ次はオイラだと評判らしい」
「おまいさま、そんな鼻歌交じりで随筆など書いておらずに、越中守さまにご挨拶にいった方が宜しいのでは・・・」
「いまさら遅いし~、遠いから面倒。なるようになるさ」
「おろおろ」

 テッチャンも特に成算があるわけじゃありません。ヤケクソで開き直っていました。

ピンチからの大逆転
 
天明六年の政変で二人の勘定奉行が吹っ飛びました。一人は西丸留守居に左遷された赤井豊前守忠皛ただあきら。もう一人が、テッチャンの妻たかが噂していた松本伊豆守秀持です。
 秀持は享保十五年(1730)生まれですからテッチャンより七歳年上。田沼意次に才を認められ、御目見以下百俵の天守番から、勘定として百五十俵の旗本に抜擢されます。
 勘定組頭、勘定吟味役を経て、安永八年(1779)に五十歳で勘定奉行に就任。五百石の知行を受けました。
 誰かを思い出しませんか?そうです。秀持はテッチャンと瓜二つ。一歩先を行くように、出世の階段を駆け上がって行った人物でした。
 意次の全面的な信頼を受けて、印旛沼手賀沼の開発、蝦夷地調査と、経済改革の先兵となっていたのです。
 しかしそれが裏目に出ました。意次失脚によって逼塞させられ、知行も半減となり、表舞台から消え去ります。
 その下僚の勘定組頭・土山宗次郎は、買米金五百両を横領した罪で斬首となりました。ざ、斬首ですよ、痛ソ~。
 武士にとって、切腹は名誉の刑ですが、斬首はそれを否定するもっとも過酷な刑罰でした。あまり聞きません。
 コチコチ定信の粛正は苛烈です。秀持と一、二を競う出世頭との噂があったテッチャンの運命やいかに。あ~恐ろしや。
 天明七年(1787)六月、佐渡のテッチャンの元へ早馬が来ました。江戸に戻って七月朔日(一日)の朝四ツ(十時頃)に、本丸黒書院に出頭するよう命じられます。
 き、来た~。

「おまいさま・・・(泣)」
「心配するな、凶事は午の刻うまのこく過ぎというではないか。朝方の申し渡しは吉報じゃよ」
 と強がったものの、コチコチ定信が相手では自信がありません。
 あわてて江戸に帰り、神妙に朝五つ半前には御城へ。ガランとした黒書院に、ポツンと一刻も待たされていると、なんだか首筋がヒンヤリしてきます。

「土山は斬首ね。あいつはやり過ぎだけど、おいらも調子こいていたからなぁ。直ぐにおべんちゃらを言ってしまう癖がいかんのよね。オシャベリだから黙ってられないんだもの」

 などとブツブツ言っていると、老中首座となったコチコチ定信が入ってきました。

「根岸鎮衛、そちを勘定奉行に命ず。以後はげめ」

 前置きなしにそう言い渡すと、サッサと出て行ってしまいました。アララ~。
 じつはこの日が、享保の制に戻ると宣言した「寛政の改革」が始まった日で、コチコチは忙しかったことは忙しかったのです。

「た、たか。いま帰ったぞ」
「おまいさま~っ、クビ、クビは付いておりますか」
「クビがなかったら歩けんわい。それどころか、なんと勘定奉行を仰せつかったぞ!どうした?たか?」
「たがが外れました」(オヤジギャグですみません)

 秀持に代わって勘定奉行に抜擢されたのがテッチャンでした。江戸ドリームはまだ続きます。

恐怖の密告政治
 
いきなり勘定奉行に抜擢された、テッチャン。さっそく本丸御殿内にある御殿勘定所に詰めることになりました。
「(勘定奉行は)幕府財政一切を総監し、幕領の租税徴収を取り扱うほか、全国の幕領と関八州の私領の民事や刑事の訴訟を受理した」(『江戸幕府大事典』)
 下僚は定員四~六名の勘定吟味役を除いても、勘定組頭、勘定、支配勘定、同見習総計で二百五十二人もいて、幕府随一の巨大官庁でした(宝暦十一年調べ)。
 勘定奉行は老中支配で定員は約四人。寺社奉行(大名役)、町奉行とともに三奉行の一つとされ、今日の最高裁判所にあたる評定所の構成員でもありました。
 テッチャンの家禄は蔵米支給二百俵が知行二百石に改められた上に、三百石加増されて五百石となります。
 御蔵から米を支給されるのと違い、上野国緑野みどの・安房国朝夷あさひなに知行地をもらい、旗本憧れの領主になりました。
 勘定奉行の役高は三千石。テッチャンの家禄が五百石になったにしても、二千五百石分が不足しています。
 御安心を(誰も心配していないって)。在職中は例の足高で差額の二千五百俵が支給されます。
 貧乏生活で有名だった根岸家は一安心。やり繰りに追われていた愛妻たかの喜ぶ顔が見えます。やはりテッチャンは博打上手だなぁ。
 勘定奉行は、幕府領の管理および財政に関する事項をつかさどった「勝手方」と、幕府領内の民事、刑事両事件の裁判を担当する「公事方くじかた」に分かれました。勝手方のほうが優位とされます。
 テッチャンは得意の勝手方に任命されました。高い評価に鼻高々です。
 さらに五か月後の十二月には、諸大夫しょだいぶであるの従五位下肥前守にじょされました。「肥前守殿」と呼ばれると、ちょっと偉くなった気がします。たわいないな、ははは。
 以後、テッチャンは肥前守と呼ばれますが、ここでは可愛いからテッチャンのまま、ごめんなさい。
 しかし、テッチャンのめでたい話はここまで。
 寛政の改革の恐ろしいところは、「密告政治」だったことでした。テッチャンはやがて世間の噂や、同僚、下僚たちの讒言ざんげん、誹謗中傷に悩まされてゆきます。

密告者は身近にもいる!
 就任早々の天明七年六月十九日。コチコチ定信に提出された人物評に、こんなことを書かれていました。
「根岸 我意アル人、給金ヲヤロウト存ルトキ用人申出セバツカハサズ、家来ノ仕ヒ方アシシ。至テリンショク(吝嗇)奢ケナシ、侍ヲ宰領ニスル、ケツパク、御為第一ヨシ」
 自分の意見を譲らず、用人が給料を上げようとしても認めず、家来の扱いは悪い。侍が家計を一切取り仕切っていて、吝嗇だが潔白な人物。上司の利益第一だとか。
 う~む、あまりうれしくない書かれ方ですが、「吝嗇、潔白、御為第一」は定信政権下ではむしろ誉め言葉なんです。テッチャンは必死に猫を被っていると見ましたね。
 同じ日付の報告では「ウドの大木」とバッサリ斬られた小納戸頭おなんどがしらや、「大淫乱 手代あきれて暇を取る。少々学問あれども役にたたず」とされた代官もいます。
 この噂話を報告していた嫌な野郎は、コチコチ定信の諜報役家臣、水野為永ためなが
 KGBタメナガは、プーチン定信(あら、いつのまにかプーチンに)がまだ賢丸さかまると呼ばれていた田安家時代からの近習です。
 安永三年(1774)、プーチンが松平家の養子となった際に田安家から付き人として白河藩に入り、生涯にわたって側近として仕えました。
 プーチンが老中時代、KGBタメナガはスパイを駆使して、噂話、誹謗、中傷、讒言を集め、報告書にして提出します。
 プーチン定信はこの報告書を、夜ごと指をナメナメしながら読みふけり、政策や人事に活用したのです。こいつ、やっぱ嫌な奴だな。
 報告は何の根拠もない噂話が多いので、文末が「~よし」、つまり「てなことです」を乱発したので、後世『よしの冊子ぞうし』と名付けられます(『随筆百花苑』第八巻、第九巻 中央公論社)。
 テッチャン船出の評価はまずまずでしたが、半年後にその評価が一転、地に落ちます。
「根岸世上の評判ハとかく不宜よろしからず。先達しかも青山ノ跡、公事方ハ根岸じやとさた(沙汰)つかまつり候よし」(天明七年十一月)
 公事方だった青山但馬守の後任に左遷させるべきだ、ともっぱらです、と密告されています
 さらに危ない中傷が載ります。
「根岸先年賄賂を取候事とりそうろうこと御座候處ござそうろうところ先達中せんだつじゅう其事発覚致しそふであぶないとさたつかまつり候よし」
 根岸が賄賂を取っていたことが露見しそうだと、先輩たちが心配している、と命取りになりそうな讒言。もちろん先輩たちは心配を装って、テッチャンを引きずりおろそうとしているのです。
 どうやら勘定所内に誹謗中傷の発信源がいて、さかんにKGBに情報を流していました。

鬼平も太田南畝も噂に「やられた」
 
讒言されたのはテッチャンばかりではありません。天明七年に御弓頭《おゆみがしら》から火付盗賊改当分加役に抜擢された、あの鬼平こと長谷川平蔵宣以のぶためも被害者でした。
「加役長谷川平蔵は姦物と申し候サタ。しかし御時節柄をよく呑み込み候哉、諸事物ノ入ヌ様に取り計らひ候由に付き、町方にてもことの外悦び候由」
 心の曲がった者の噂があるが、町人には金がかからないようにしてくれると評判が良いようです、と当初は好意的でした。
 しかし、平蔵はこの後、「手柄を独り占め」「増長して町奉行を狙っている」など、執拗に讒言されることになります。
 その鬼平以上に被害を受けた幕臣がいます。江戸時代最大の文化人、大田南畝なんぽでした。
 これを機会に、天明文化の先頭に立っていた太田南畝を紹介しましょう。『よしの冊子』は天明期の南畝を、こんな風に取り上げました。
 四方赤良よものあからという狂歌師の号で登場します。

「四方赤良など狂歌連ニて、所々ところどころニてかいなどいたし、又奉納物或ハ芝居抔の幕などをも、狂歌連にてつかわし候ニ付てハ、四方先生ゆえ格別人のもちひも強く候處、御時節故おじせつゆえ左様の事も相止申候間、赤良抔ハ腹をたて申候よし」(天明七年十一月)
 四方赤良などの狂歌連は神社仏閣や引幕を芝居小屋で披露してブイブイいわせていましたが、四方先生の人気はとりわけ強い。時節柄活動を自粛せざるを得ず、ひどく腹を立てているそうです、と告げ口しておりますね、はい。
 こうした狂歌師・四方赤良へのKGBタメナガの攻撃は、幕府要人たちの南畝不信を招きます。コチコチ定信と仲が良かった平戸藩主・松浦壱岐守清(号は静山)もその一人。
 隠居後に書き始めた随筆『甲子夜話かっしやわ』で有名です。天明七年から約四十年後、静山は寛政の改革を振り返ってこう書きました。
「此時武家の面々へもっとも文武をはげまされければ、大田直次郎といへる御徒士おかちの口ずさみける歌は、
 世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし
                 ぶんぶといふて 夜も寝られず
 
時人ときのひともてはやしければ、組頭聞きつけ(中略)呼出して尋ありければ、答え申すには、何も所存は無御座候ござなくそうろう、ふと口ずさみ候迄に候、しいて御尋とならば、天の命ずる所なるべし、と言いければ笑て止けるとぞ」
 大田直次郎という御徒は、蚊のようにうるさい、と狂歌にしたので、上司が問いただしたら、天の声だとうそぶいたので上司も呆れて放置したそうです。
 静山はどこからこの南畝の噂を仕入れてきたのでしょうか。『よしの冊子』を読んだプーチン定信からに違いありません(キッパリ)。

「壱岐守ちゃん、これみてよ~」
「おお、例の2チャンネルですね。どれどれ、あの有名な狂歌師の四方赤良は幕臣でしたか」
「それも、たかが御家人だぜ~。生意気にもワシの政策を馬鹿にしちゃってさ」
「『かほど』を、蚊に引っかけて、『文武』がブンブか、こりゃ良く出来ているなぁ」
「そこがニクイ!」
「あなた様にはこういうセンスはないですからね」
「死刑!」(『がきデカ』のギャグです 恥)
 
 この歌以外にも次の二首が南畝作と噂されました。
 曲りても 杓子は ものをすくふなり
              すぐなやうでも 潰す摺子木
 孫の手の かゆき所へ とどきすぎ
              足のうらまで かきさがすなり
 
 杓子しゃくしは曲っていても物をすくえるけど、真っすぐな摺子木すりこぎは潰すだけ、と定信を皮肉っています。
 また口癖は「余は吉宗さまの孫である」だそうで、孫の手は足の裏まで掻きまくるのさ、と笑い飛ばします。
 図星だけにコチコチ頭の定信の憎悪は高まります。
 しかし南畝は後に随筆『一話一言』で、この三首を挙げて、「大田の戯歌ざれうたにあらず」ときっぱり否定しています。
 狂歌の出来が良いと、すぐに四方先生の作だと、噂されます。南畝には迷惑な話ですが有名税かもしれません。
 お~っと、だいぶ長く寄り道しました。そろそろテッチャンの苦境に戻りましょう。

寛政の改革の空回り
 
若いころは無頼に身を投じ、自他共に認める叩き上げのテッチャン。プーチン定信は、勘定奉行に抜擢してくれた恩人ですが、どうも肌が合いません。
 何かといえば、「吉宗の孫」「本来なら将軍だった」を鼻にかける若造なので鬱陶しい。二十二歳も年下のお坊ちゃま大名が、キャンキャン吠えているとしか思えません(個人の感想です、ハハハ)。
 そのくせやることは陰湿ですからね。プーチンは忖度官僚に囲まれるのが大好きな、典型的な世襲政治家なんです。別に誰かにあてつけているのではありません。
 逆にどんなに有能でも山っ気のある人間は、天敵田沼意次の仲間に見えて警戒します。
 人足寄場計画を出した長谷川平蔵も最後まで信用されませんでした。ちなみに平蔵は通称で、宣以はいみなです。
「寄場てふ(という)事出来たり、(中略)志ある人に尋ねしに、盗賊改をつとめし長谷川何がしこころみんといふ(中略)長谷川の功なりけるが、この人功利をむさぼるが故に、山師などいふよこしまなる事もあるよしにて、人々あしくぞいふ」(『宇下之一言』岩波文庫)
 定信という字を分解して名付けた『宇下之一言うげのひとこと』はプーチンの自慢たらたら自伝です。
 当時、無宿人対策は急務で、長谷川平蔵が寄場を作って管理する案を上げてきました。(「長谷川なにがし」という言い方に、評価していないけどね、という偏見が感じられます)
 平蔵に任せると経費は節減され、無宿人も市中から目に見えて減ったそうです。鬼平は火付盗賊改で実績を挙げて町民の人気が上がり、町奉行の下馬評に度々挙げられます。
 しかし定信も、その後継者たちも鬼平を町奉行に抜擢しません。『よしの冊子』の評判が後々まで尾を引いたのでした。
 結局、鬼平は火盗改を寛政七年(1795)まで八年間務め、辞任した三カ月後に死去します。男の嫉妬はこのように怖いのでした

左遷されてしまった!
 
同じころ、テッチャンも鬼平同様に、プーチンのスパイたちによる攻撃にさらされていました。
 当然警戒していたのですが・・・その甲斐なく直撃弾を食らいます。
 勘定奉行勝手方に就任して一年目の天明八年(1788)のことでした。
 京都大火の後始末をこなし、時服二領黄金五枚を下賜されてホッとした直後、まえぶれもなく勝手方から一段下がる公事方に「左遷」されてしまいました。
 これまで順調に出世街道を歩んできたテッチャンはさすがにガックリ。 「根岸いたって懇意の者ニあい候てハ、今度此方が公事方ニ被仰付おうせつけられ候事ハ世上でどふいふ評判だと申候ニ付、さすが懇意のものでも挨拶いたしがたく候へ共、先今度公事方へ被蒙仰おおせこうむられ候ハ京都の御評判ちとゝ不宜よろしからずのさた故にやと申候位の挨拶のよし」(『よしの冊子』)
 根岸が心を許す者に「ボクがこんど公事方に回されたこと、世間では何といっているのかなぁ」と聞くと、その者はさすがに挨拶の言葉に困って「京都での評判が少々良くなかったからではないですか」と応じたそうです、だとさ。
 う~む、テッチャンと「懇意の者」との会話が、さっそく報告されていますね、コワ~イ。チクリ屋はすぐ側にいたのです。
 実はテッチャンの不手際とされた天明八年の京都大火の始末、本当はプーチン定信の大失敗でした。
「京都よりにはかにいひこしたるには、京都未曾有之火災、二條御本丸よりして禁裏御所不残のこらず炎上しぬとつげ来る。擧朝きょちょう失色す。直に京都の御火消しをして行在所を警衛すべし。御勘定奉行は一人のぼりて、仮之皇居を営すべし」(『宇下之一言』)。
 応仁の乱以来、京都史上最大の火災でした。その再建は幕府と朝廷の大きな政治的課題になったのです。
 当時の光格天皇は有職故実ゆうそくこじつ家・裏松光世うらまつみつよによる平安内裏だいりの考証を多く取り入れた復古様式を要求しました。
 しかし幕府は天明の飢饉と資金不足を理由にそれを拒み、対立が深まります。
 直ちに上京した勘定奉行が、何でもこなすテッチャンでした。能吏のテッチャンに任せておけばよいのうまくやるはずです。ところが過剰な自信家、プーチン定信は、「われにはパイプがある」と京に乗り込みました。
 冷泉家と和歌のやり取りをしていることが自慢の定信は、なんとかなると勘違いしたようです。お公家さんをなめたらアカンどすえ~。
「進退が礼にかなっている」「関東には珍しい正しいふるまい」などと公家たちにヨイショされ、すっかり良い気分で、結局朝廷のいいなりのまま。御所再建は古式にのっとって、行われることになりました。
 木曽義仲も、源義経もころりとやられたように、自意識過剰の定信も「ほめ殺し」にされたのです。
 公家のヨイショ恐るべし、でんな。
 幕府は膨大な支出を強いられることになります。テッチャンはその責任を取らされて、勝手方から公事方に左遷されてしまいました。
 目に浮かびますね。俺に任せろと現場にノコノコ出てきて混乱させ、最後は責任を取らない上司が。
 あなたの会社にもいませんでしたか?

公事訴訟の才能開花
 さらに、勘定所内の部下の不始末をてきぱき処理しなかったことを咎められ、将軍への拝謁を止められます。しかし単なる嫌がらせだったようで、わずか十一日で復されました。
 現実主義者のテッチャンはじっと堪えて、公事方の業務に専念。テッチャンの下情かじょうに通じた独特の裁きは磨かれていったのでした。
 江戸後期の儒者で、後に勘定奉行配下の金奉行かねぶぎょうとなった志賀理斎りさいは、テッチャンに私淑して根岸家に出入りした人物。
 理斎はテッチャンの言行録を『耳嚢副言そえごと』として残しました。かいつまんで紹介します。
「寛政のはじめ白川侯の御補佐ありし頃、『道中宿驛の食賣女めしもりおんなを停止せらるべきや、いかにやあらん』とうちうちに評議ありしとき」
 売春もした宿場の飯盛女の廃止が、幕閣内で建議されたそうです。暇ですねぇ。おそらくコチコチ定信が言い出したか、その意向を忖度する役人でしょう。当時鎮衛は公事方の勘定奉行として、道中奉行も兼帯していました。
 アホな幕閣たちに説明します。
「食賣女といふもの旅人寢食の給仕をなし、よりては密通いたす事も、必其主人の制しとゞくべきいきほひにもあらず。公家・武家のうるはしき旅中と事かはり、庶民の産業には一年のうちいく度となく旅中に在て、定りたる家には更にすむ事なきものも少なからず。かの海上を家居とせる大船の船頭なるもの、湊にくゞつなるいへる女のあるが如し。これも又ひとつの世界ならん」
 飯盛女は旅人の寝食の世話をする者です。密通することもありますが、それは勢いというもので、主人にも止めようがありません。公家や武家の優雅な旅とは違うのです。海上に住む船頭が、港々に遊び女|《め》を持つようなもので、これも一つの生き方なんです。
 いやあ、言ってやりましたね。優雅な旅しか知らないプーチン定信に、一発皮肉をかまして、世俗に通じた存在感を示したのです。
 こうした独特の裁きの評価が定まったのが、寛政二年のことでした。おなじみのオットセイ将軍、徳川家斉の公式記録を引用します。
「十一月廿三日 吹上ふきあげに出まして、三奉行の公事裁斷を聞しめされる。廿四日(中略)きのふ公事裁斷にあづかりし寺社奉行松平右京亮輝和、牧野備前守忠清、板倉周防守勝政、松平紀伊守信道、町奉行初鹿野河内守信興、池田筑後守長惠、根岸肥前守鎭衞(鎮衛)、曲淵甲斐守影漸に各時服をたまひ」(『文恭院殿御実紀』)
 将軍家斉は好奇心にあふれ、相撲、祭り、水練、囲碁、将棋など様々なものを上覧しましたが、この日はなんと吹上御庭で裁判を実演させたことが、記録に残されています。
 呼ばれたのはいずれも裁き上手と評判の役人たち。オットセイ将軍のお目当てはテッチャンでした。『耳嚢』のひそかな読者ですからね。
 この日を境に裁きの名奉行テッチャンの名前が広がり、町奉行待望論が起きます。しかしプーチン定信は無視!
 京都復興の不始末を押し付けた手前、根岸鎮衛を優遇できないのです。
 三年後の寛政五年、プーチン定信は老中を罷免されますが、自派の老中を通じて影響力を維持したため、テッチャンの町奉行昇進はなかなか実現しません。鬼平の二の舞かと思った頃の寛政十年(1798)、六十二歳にしてやっと南町奉行を拝命しました。
 普通だったら晩年ですよ。一、二年務めたところで、名誉の隠居か、と誰しもが思いました。ところがテッチャンしぶとい!ここから十七年間にわたって町奉行を務めるのです。
 この間は、前編で紹介した「め組の喧嘩」裁きを始め、エピソードに事欠きません。しかしそれを一々紹介すると、この倍は続きます(笑)。
 さすがに嫌でしょ、飽きますよね。
 代わって、同時代の医師加藤曵尾庵えいびあんの日記風随筆『我衣わがころも』(『日本庶民生活史料集成第十五巻』三一書房)の一文を紹介しましょう。
「文化十二年亥《い》七月、町奉行根岸肥前守御加増の節、
 〽御加増を ウントいたゞく 五百石 八十翁の 力見給へ
 
是は自身のよみ哥也。例の落首にあらず」
 文化十二年(1815)、長年の功績を称えられ、五百石を加増され、家禄はついに千石となりました(パチパチ)。
 もう八十歳なんですねぇ、感慨深いです。この稿もいい加減に終わりにしなくちゃ(汗)。
「十月十日の夜五ツ時、二階に祭る所の聖天の燈明の火より燃出もえいだし、御役屋敷、居宅向不残のこらず消失す」(『我衣』)
 あらら・・・。テッチャンは翌十一月町奉行を辞し、役宅を出て駿河台の自邸に移ります。そして十二月に死去しました。
 さぞかし気落ちしたのでしょう。晩節をまっとうするのは難しいですね。
 エッ?これで終わり?ふふふ、そうなんです。どうも!              


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