過去の記憶のキャパシティの話
体操の動きってラジオ体操に限らず大人になったらしないよね。
足首ぐねぐねするやつとか。
ダウトをやってる時に、やたらダウト!って言う回数多いやついると冷めるよね。
全然言わない人も然り。
文章で”ラジオ”って書く時に”radio”って打ったら、”らぢお”ってなって「あー」ってなるよね。英語の綴りとローマ字表記が限りなく近い言葉はもう少し罪悪感を持った方がいいと思う。
でもそれより”シ”に点々と”チ”に点々が同じ発音なの納得行ってないし。こんな謎ルールの存在が幼少期の作文の筆の走りを止めていたと考えたら少し腹が立つ。
「1回濁点なしにして考えたらわかるよ」ってあの時先生は言ったけど、チヂミとかは?チチミ?チシミ?
あの時の自分の語彙の中にチヂミはあっただろうか?多分なかったように思う。
あったら真っ先に先生のところに行ってドヤ顔で「チヂミは?」って聞けたのにな。可愛くないな。小学校の先生の目には、そんな屁理屈野郎も可愛く写ってるのかな。
たまたま引き出しの手の届く場所にあったあるあるです。可愛がってあげてください。
小学校の先生。最近見た映画の中で「小学校の時の先生の名前なんて覚えてる?覚えてないでしょ」っていうセリフがあった。そういう過去の記憶に触れるような事がある度に自分はまだまだ子供なんだなと実感する。20歳の自分にとって小学校は近い記憶だし、人生の4分の1以上を占めているわけだから覚えている記憶は多い。
少なくとも担任の名前くらいは簡単に答える事ができるし。日常の記憶はどのくらいあるだろうか。
小学校の入学式の日、ある男の子に初めて自分から「友達になろう」と話しかけたこと。その言葉を、子供心に真っ直ぐすぎてかっこ悪いと思っていたこと。だからその言葉は自我との葛藤の中で放たれた言葉だったこと。その男の子の返事は「もうなってるじゃん!」だったこと。想像以上の真っ直ぐな返事に少し自分を嫌いになったこと。その子が給食の焼きそばが苦手だったこと。その子がおしっこを”ちびる”という表現を教えてくれたこと。その子とは小3くらいを境にあまり遊ばなくなったこと。
なんか恋愛映画の回想シーンのセリフ回しみたいになっちゃったな。
こうやって思い出すと結構覚えているもんだ。それは20年という短い期間しか生きていないからとか言う世代的なことではなく、同世代の中でも覚えている方な気がする。。でも、それを自分の中で、なんかダサい事だと思っている。おそらくこのような昔話を話すと「よくそんなことまで覚えてるね。」って言われる。その言葉でなぜか傷つく事がある。
多分、ひとつの思い出が自分の中と同じ質量で相手にも収まっていて欲しいというエゴみたいなものがあるんだと思う。あと、過去のこと覚えている=現在で上書きされる思い出が出来ていないに変換されていると言う節もある。
もちろん日常から全ての記憶を覚えているわけではない。
だけど誰かと飲みに行く時にその人のことを考えると、ストックされた記憶が一気に掘り起こされる。そこで自分は、一つ一つの記憶を相手が覚えているかどうかの篩にかける。そうして話せそうなエピソードを引き出しの手前に出していつでも思い出せるような状態にしておく。そしていざ、昔の話をする時に「覚えてないと思うけど」とかいう前置きをして、傷を負うリスクを減らす。時には相手の思い出話に「えー、あったっけそんなこと」とか嘘をついて、傷を分けあった気にさせる。多分周りはそんなこと1ミリも気にしてないのに。
でも、これが自分の口癖みたいに思われてたらめちゃくちゃ恥ずかしいな。もしこの癖に気付いてる人がいたら、その癖が出た瞬間にこっそり教えてほしい。その時嘘ついてたらちゃんとダウトって言うから。
あと、もし他に同じようなことを考えている人がいたら教えてほしい。思い出話なんてたくさん話して損はないものだから。
体操の動きをしないのはただ単に運動してないだけか、。
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