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南北三廻り同心録(寛政3~天保13)

 どれだけ興味をもっていただける方がいらっしゃるのか分かりませんが、寛政3年から天保13年にかけての江戸南北両町奉行所の三廻り(隠密廻り、定廻り、臨時廻り)同心の名簿をアップしてみます。
 このファイルは町奉行所の職員名簿(『旧幕府引継書』)や『町鑑』等をもとに作成していますが、誤写や誤字脱字などもあろうかと思います。内容の正確さは保証しかねますので、それを踏まえてご利用ください。
 もともと廻り方も有徳院(吉宗)のころまでは「町廻り」しか存在しなかったようです。それが管轄地域の拡大や、業務の輻輳などの要因もあり、改革を推進するため、隠密廻りや臨時廻りが増設され、それらとの差別化の必要から、必殺シリーズの中村主水でおなじみの「定」町廻りという呼称が生まれたのでしょう。
 隠密廻りも臨時廻りも寛政年間の勤方大概(業務要領。タイトル画像「定町廻勤方之事」)には記載がありますから、文恭院(家斉)のころまでには三廻りの体制も整備されていたのでしょう。しかし、文化四年(1807)の『江戸町鑑』には隠密廻りは載っていません。筆者が確認した範囲では文化十年(1813)の『増補改正万世江戸町鑑』に「御用懸り」として登場するのがもっとも古く、当初は業務上『町鑑』に掲載するにはふさわしくないと奉行所が判断していたのかもしれません。
 通常、町奉行所の業務は職制上、組頭格である与力が同心を監督する業務設計になっています。掛(分課)においてもそれは同じで、担当の与力が下役の同心を指揮するのが通常ですが、廻り方の同心は町奉行の直轄だといわれています。なかでも長老格の隠密廻りを中心に奉行への報告などを行っていたようです。
 実際の犯罪捜査や訴訟事案の調査においては、予審判事に相当する吟味方の与力が全体の指揮を執っていたものと思われます。

 投稿練習・確認用なので、この記事はまた加筆修正する予定です。


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