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母の前に、人である

先日あるエッセイを読んでいたときのこと、「謝罪の必要がない場面で謝る母親が多くないか?」と指摘する文に目に止まった。「あ、これ私だ」と。子どもを生んでから、子連れ外出するときは、周囲の目を気にして謝ってばかりだ。駅のエレベーターでベビーカーが場所をとるから「申し訳ないです」。車内で子どもが急に大きな声をあげて「すみません」。

これはもちろん外での話だ。でも外ではなく、家の中でも、いや、家の中のほうが、母たちは謝ってばかりなんじゃないか。他のお宅の会話なんて知りようがないのだけれど、現在色々あって「祖母•母•父•私•息子」で同居中の我が家を俯瞰的に見てみるとそんな気がする。

うちの母は私が幼いことからいつも謝ってばかりだ。夕食の際に、一汁三菜かんぺきに揃っているのにもかかわらず「ごめんね、なんだか今日は食卓が寂しい。料理が1品足りないわね」。ほとんど外で遊ぶことなんてないのに、友達とのランチに出かけたら「ごめんね。家あけちゃって、掃除しなきゃ」。食後、家族のためにコーヒーを淹れたあと、「ごめんね、私も飲んでもいいかしら?」。

「謝らなくていいよ」と言っても、母は謝ることを止めない。彼女は24歳で結婚して以来40年以上専業主婦をしているのだが、おそらく「夫に養ってもらっている」、「夫の稼いだお金で食べて生きながらえてきた」という考えが彼女の根底にあり、そこから「料理をかんぺきに用意できずに申し訳ない」、「贅沢はしてはいけない」という思考につながるのだろう。

では、認知症が進行し、最近我が家に越して来た89歳の祖母はどうだろう。祖母の口癖は「すみませ〜ん」。1日に30回、いや50回以上言っているかもしれない。ご飯ができたと知らせると、食卓に着く前に「すみませ〜ん」。食べたあとも「ごちそうさま、すみませ〜ん」、トイレに行くときですら「すみませ〜ん、トイレ行ってもいいですか」。

特に、お菓子を食べるときに「すみません」を繰り返す。祖母にとって、お菓子は相当な贅沢品であり、「自分なんかが食べていいのか」という意識が働いているようだ。午後、私がリビングで仕事をしていると、祖母がそろりそろりと寄ってきて「すみません。お菓子を呼ばれてもいいですか?」と尋ねる。「そんなこと聞かないで、食べて、食べて!」と言っても「すみませ〜ん、ではいただきます」。で、次の日には、また「すみません、お菓子をいただいてもいいですか?」となる。同居して2か月ちょっと、「すみませ〜ん」を浴びすぎて、こちらは「すみませんノイローゼ」になりそうだ。祖母に悪気がないのはわかるが、はっきり言って気が滅入る。

祖母はときどき仏壇の前に立って、死んだ祖父に向けて話していることがある。「おじいさんのおかげで、デイサービスに行けて、温かいご飯が食べられて、幸せに暮らしています。ありがとうございます。自分だけ生きてしまって、すみません」。「生きていてごめんなさい」とは究極の謝罪である。母と同じで、祖母も専業主婦だった。祖父の稼いだお金で生きてこられたのに、自分だけ生き延びてしまった罪悪感が老いて小さくなった彼女の体の隅々まで浸透しきっているようだ。

かくいう自分も夫と一緒に住んでいるころ、彼に謝ることが多かった(今は単身赴任で別居中)。「ごめん、今日忙しくてさっきまで仕事してた。パスタしかできなかった」、「ごめん、はーくん(息子)が1日機嫌悪くて、掃除が手につかなかった」など。「ごめん」ばかり言われて、夫はげんなりしていたのでは?と、祖母と母の謝罪を浴びながら思う。

私は結婚後、出産を経てもずっと働いてきたが、今年は体制が大きく変わる。海外勤務中の夫のもとに母子で行くことに決めたのだ。帯同ビザで働くことは許されない。つまり私は数年の間は夫の扶養に入り、専業主婦となる。

海外に行ったら、多忙な夫は子育てができないので、毎日母子で出かけるだろう。ショッピングモールに遊びに行き、コーヒーを飲み、ケーキを食べることもあるだろう。夫が働いている最中に、夫の稼いだお金で。ダメだ、これは。お菓子を食べた瞬間にいや〜な罪悪感が体に広がるだろうことが想像できてしまう。口の中に広がるのはお菓子の甘みではなく、じわじわと体に染み込む罪悪感。自分が稼いだお金で食べるケーキなら「あ〜おいしい!」で終わるのに!!

昭和の母たちは、仕事をせずに家で家事労働をし、夫の世話をして尽くすのが当たり前だった。今は働く母もいるし、専業主婦もいる。しかし、働く母の大半が、大半の家事を受け持って悲鳴をあげている。他方、専業主婦の中には、昭和の母の背中を見て「かんぺきなな家事」をこなそうとする人も多いのではないか。両者の立場は違うが、どちらにも罪悪感がついてまわる。

母につきまとう罪悪感について思いを馳せると、いつもこのことを思い出す。子どもの頃、夕食の後によくいちごを食べた。3兄弟、それぞれのお皿にいちごが5つ。母は2つ。きまって母だけいちごの数が少なかった。小さい頃は「いちご、たっくさん!」なんて無邪気に食べてたものだけど、中学生くらいになると、その不平等が嫌になった。

母はいちごを食べながらこう言った。「ママのお友達の◯◯さんちは、お母さんは背が高いから、いちごたくさんよって子どもよりたくさん食べるんだって! 信じられないわよね」。顔は笑っているが、確実に◯◯さんちのお母さんを非難している。

「お母さんが大きいからたくさん食べていいんじゃない?」、「お母さんだけ少ないなんて平等じゃないよ」、何度もそう思ったが、反論されるのが怖くて母に直接伝えられたことはない。

謝り続け、罪悪感を持ち、犠牲になることが母ではない。それが母性というのならば、そんなものないほうがいい。謝る祖母、母、そして私。「謝る母」は受け継がれる。そんな母像は私たちの世代で終わりにするべきではないか。

世間が思う母を無理にまとう必要はない。母の皮をぺりっとめくったら、私はただの人だ。それ以上でもそれ以下でもない。好きな仕事をして、好きなものを食べ、好きな人と笑い合って生きていきたいだけなのだ。


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