そういうときもありますよね頑張る。頑張らない。
メッセージ?
ある晴れた日、先生たちが園児たちと散歩をしていた。よく見る光景。
すれ違うときには、思わず目尻がたれてしまう微笑ましい時間。
子供たちの中に、ぐずって立ち止まる子がいた。
そのときに、近くにいた杖をついて歩いていたお爺さんが、子供たちに
「頑張らなくていいからね、
頑張らなくていいからね!
遊びながら歩きな、
遊びながら歩きなよ!」
と、少ししゃがれた声で何度も繰り返して言う。
先生も、子供たちもあまり耳を傾けてない。聞こえてないのか、聞こえてても無視しているのか、まるで人がそこにいないかのように普段通りに先生が子供をなだめている。
その列の横を自分が通り過ぎるほんの4.5秒の世界。特に自分も立ち止まったわけでもなく駅に向かって歩いていく。
その光景が視界から消えて、数秒。
えっ、今のって、
もしかして俺に?
だってその言葉は、子供たちにも先生たちにも届いてない。たまたまそこを通り過ぎた自分だけが認識している言葉。
その言葉が頭の中で反芻する。
遊びなが歩きなよ。
遊びながら進みなよ。
遊びながら生きなよ。
少しずつ言葉を変えながら、頭の中で繰り返される。
遊びながら生きるは自分のテーマでもあるこら、比較的意識はしてることだけど。
改めて言ってくれたのかな。
こんなとき、天からの言葉かな?って、
振り返ってみたら、お爺さんがどこにも居なかった!と言うのがストーリーとして素敵なんだけど。
そう思ったときには、もう角を曲がっていた。
頑張る。頑張らない。
もっと頑張れよ!
死ぬ気でやってみろ!
努力が足りないんだよ。
もっと、もっと、もっと…。
それに対して、
頑張る必要はないよ。
頑張り過ぎじゃない?
今まで充分やってきた。
そのままでいいよ。
そのままの自分でいいよ。
何も変える必要はないよ。
まるきり反対の考え方。
怠けたときとか、出来なかったときに
前者は、やらない自分を嫌になったり、自分を責めたり。自分を低く評価したり。
また、だからこそ、怠ける人に対して、異様に怒ったり、許せなかったり、イライラしたり。
後者は、一見優しくて正当な感じに見えるけど、偏ると結構危険な考え方だとも思う。やらないことを正当化してしまう理由にしてしまっている人もいる。考えることを放棄して他人に全てを委ねてしまう人もいる。
どちらにせよ、それが自分の生き方で心地よいなら、それでよいと思う。しかし、その考え方を他人に押し付けてしまうのはどうかと思う。
自分はどちらかだとして(どちらかである必要は全くないが)、それを踏まえつつ、他人はこうなんだ、逆なタイプなんだと、少しでも分かり許せるとラクになるかもしれない。
中庸とか言うと、カッコいいかもしれないけど、ものごとの中間というか、真ん中のバランスを取れる人って、
その両極の真ん中とか、どちらにも偏らないとか、間とって中間みたいに位置するのではないと思う。
人間生きてりゃ、何かしら偏るものです。
極端な偏りは別として、偏ってるけど、その反対の偏りも分かる。
もっと言えば両極知って、経験して今中間みたいな。
それを経験といったり、器というのかもしれない。
知っていて、
「たまにはそういうときもありますよね。」というゆるさがあってもいいんじゃないかなぁと。
頑張りすぎてりゃ、力を抜いてみる。
力を抜きすぎているなら、たまには無理してみる。
こうじゃなくちゃ、こうではならねばは手放して。
『そういうときもありますよね。』