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「物語」について

早田大高

ヒッチコックの映画『北北西に進路を取れ』は、謎の男に間違えられたあげく指名手配され、悪の組織に追われながら仕方なく謎の情報を追う、巻き込まれ男の物語であるが、結局最後までその「謎」が明かされることはない。ヒッチコックはこの「正体不明の重要な謎」を「マクガフィン」と呼び、ともすればそれ自体に内容は必要ないとさえ言い切っている。朝井リョウの『桐島、部活やめるってよ』の「桐島」よりもさらに何の情報も与えられない。
内田樹さんは『映画の構造分析』という本の中で、ヒッチコックの「マクガフィン」とフロイトのいう「トラウマ」を重ねながら、その空虚の周縁にうまれる物語について述べている。

「トラウマはそれを抱え込んでいる本人によっては決して言語化できません。というのは、その人の言語運用そのものが、その「言語化できない穴」を中心に編み上げられているからです。(…)私たちは自分の過去について、記憶について、欲望について、おのれ自身が何ものであるかについて、宿命的に嘘をつきます。しかし、それらの「作り話」のうちある種の嘘=物語は私たちの症候を緩和する力を持っています。
トラウマという「穴」に漸近的に接近し、穴の輪郭をそれとなくかたどり、その破壊的な効果を軽減する「阻止線」となるような種類の物語は、そのような意味において「よい物語」なのです。私たちが太古以来、物語を語って止まないのはおそらくそのためです。」
一方で、建築評論の内で、定量化し得ない場所の特性を評価するときに「ゲニウス・ロキ」という言葉がよく使われる。建築史家の鈴木博之さんはこれを「地霊」と訳しているが、ギリシャ語の語源を辿っていくと「タブーの領域を示す石の蓋・その場所」と読むことができる。つまり、私たちが感覚的に感じている、歴史性や意味性・イマージュを含めた、「場所の魅力」なるものも、「タブー」の周縁に編み込まれた物語と言える。たとえば、(たしか)レヴィ・ストロースの研究に出てくるある円形集落において、中心の空洞は、日常的には死者を埋葬する場所として誰も立ち入らないが、催事・儀式の時にだけみんなでそこに立ち入って歌って踊る舞台になる。この場合、「タブー」を介した日常と非日常の物語が「ゲニウス・ロキ」をかたちづくっている。
「マクガフィン」も「トラウマ」も「ゲニウス・ロキ」も「タブー」も、その「周縁にうまれる物語」を構造化する装置として、私たちの認識を支えている。そんな視点で街をみてみるのも面白いと思う。

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早田大高
1987年浦和生まれ浦和育ち。建築家・早田大高設計事務所代表・(有)空間工房花組代表取締役・一級建築士。建築設計・デザインを中心に、講師、執筆などを行う。2021年から施工・不動産も業として行う。「建築」は「場所」と「時間」と「ひと」がつくる「物語」だと思う。

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