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1日目は、ハル・フォスター編著『反美学―ポストモダンの諸相』です。ユルゲン・ハーバーマス「近代──未完のプロジェクト」が収録されてることで有名ですね。建築、彫刻、絵画、写真、音楽、映画、文学、政治と横断する9つの論考。通底するのは「抵抗」の実践の提唱です。いまこそ。

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2日目は、アンソニー・ダン & フィオーナ・レイビー著『スペキュラティヴ・デザイン 問題解決から、問題提起へ。──未来を思索するためにデザインができること』です。デザインとアートの違い。さまざまな視点から議論されつづけてきたテーマですが、2000年代半ばに著者たちが「スペキュラティヴ・デザイン」という思考と実戦の枠組みを提唱したことにより、その線引きは消失し、融合したといっても過言ではないでしょう(アートにおいても1990年代以降、美術史における大きな転回として、「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」をはじめとして ”美しさ” が評価基準ではない芸術実践が台頭しています)。日本においても、スプツニ子さん、長谷川愛さんなどが著者の教え子であり、また、2013年に東京都現代美術館にておこなわれた、長谷川祐子さんキュレーションによる「うさぎスマッシュ展 世界に触れる方法(デザイン)」を観覧した方もおおいのではないでしょうか。バチバチに進行形の先端へようこそ。

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3日目は、ジェイン・マクゴニガル著『スーパーベターになろう!──ゲームの科学で作る「強く勇敢な自分」』です。ゲームと社会。日本では、数年前に「ゲーミフィケーション」などの単語で、ビジネスのバズワードとして消費された印象もありますが、ところが、そこから現実をよくするためのゲームの活用はさらに進化しています。こちらも2015年の本で事例の若干の古さはありますが、この本は著者が、自ら負った大怪我により発症した偏頭痛や鬱状態から回復するために開発したゲーム「スーパーベター」を通して、肉体的、精神的苦境から脱出するストーリーが語られていて、それが何よりも力強いのです。いまコロナで鬱っぽくなってる人もおおいでしょう。いまのこの気持ちを次の活動に活かすならば、そのヒントはゲームから得られることは間違いないかと。社会への問題提起のための手段としてのゲーム。表現の技術として、PRの手法としてなど、もはやすでにゲームの活用は広く浸透している時代になっています。

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4日目は、ホンマタカシ著『ホンマタカシの換骨奪胎──やってみてわかった!最新映像リテラシー入門 』です。ホンマタカシさん、写真家ですが、映像作品もおおく制作されています。その制作アイデアを通して、映像作品って何だろうかと伝える実践講座。いまや美術館に映像作品が展示されてることは当たり前で、その手法も映画から影響を受けたもの、ドキュメンタリーから、MVやPVからなどさまざまですが、さすが写真家のホンマタカシさんということで、映画以前、マレーやマイブリッジの「連続写真」までさかのぼって映像を捉えなおすところが、この本の秀逸なところです。何事も原点って大事ですね。表現者のみならず、鑑賞者も、映像作品が当たり前になったいまだからこそ、今一度、映像でしかできな表現、コンセプチュアルな映像の形式について考えてみませんか。主題だけでなく形式まで見れるようになると鑑賞がぐっと楽しくなります。

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5日目は、クレア・ビショップ著『人工地獄──現代アートと観客の政治学』です。いま現代アートについて本格的に学びたいと尋ねられたらなら迷わずこの本を勧めます。訳者あとがきから引用すれば「「人工地獄」と名付けられた本書は、芸術と社会の関係を主題として、二〇世紀の美術や演劇、社会運動を今日の状況へと架橋する試みとなっている。」という内容です。ポイントは ”社会運動” です。こちら美術の専門書ではあるのですが、近頃、アートとビジネスという話題が盛んななか、是非ともビジネスマンに読んでもらいたい一冊です。というのも、いわゆるアートとビジネスにおいてアートと名指しされる事例が、100年以上前から新しいものでも50年前ぐらいというのがほとんどで。ビジネスがアートに期待することは、端的に言ってイノベーションに役立つかも、ということじゃないでしょうか。それにしては事例が古すぎる。またアートから美や崇高 (または発想力とか想像力とか) といった "普遍性" だけを切り取るななら、それはイノベーション=革新とは最も遠い発想ですよね (AppleのCM “Think different” を思い出してみてください) 。そしてアートも、もはや美や崇高だけが価値ではなくなってるのです。ここ10年ほどビジネスでコミニティや共創といったキーワードが議論されてきましたが、アートも同じで、2000年以降から ”関係性” というキーワードが広く流通していました。そしていま、その先としてビジネスで「SDGs」が大きなキーワードとなっているように、アートも本書で示されるように ”社会運動” と密接した動向が先端にあるのです。アートとビジネスは先端で比較してこそ意味があるでしょう。いまやアートもビジネスも社会への問題提起が重要なのです。ぬるい自己啓発に満足せず、本気で何かを変えようとするならば、本気の "アート思考" を、是非、どうぞ。

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6日目は、津上英輔 著『危険な「美学」』です。アートというと、美術というだけあって “美” のことだ、というのが、まだまだ一般の認識かと思いますが、ざっくり言えば、第二次世界大戦以降の美術を “現代美術” 、1990年代以降の美術を “コンテンポラリーアート” と言ったりします。それで、それよりずっと以前、単純に美術という時代から “美” というものを研究してきた学問が、この本のタイトルにある「美学」です。そして、何が危険かっていうと、“美” って良いものと、疑われすらしないですが、いやいや “美” ってのはときに恐ろしいもの、人を傷つけさえするのですよ、と。それが具体的にどういうことかと言うと、この本のなかでは、高村光太郎 (日本を代表する彫刻家であり詩人。詩の代表作「道程」は教科書に載ってましたよね) が戦中に作詞した軍歌の分析を通して、それがいかに “美” として優れているかを明らかにしながらも、それは戦争賛美という大きな “危険” を伴っていましたよねと。この本に挙げられている例以外でも、戦争画しかり、また、ナチス党大会の記録映画を撮影したレニ・リーフェンシュタールしかりです。大事なのは、こういった例のように、分かりやすく “美” が戦争という危険と繋がらなくても、あらゆる “美” は、いつでも利用されたり、危険に転じるの可能性がるのだと。“美” は普遍的な良き真理ではないのです。すこし飛躍した説明になりますが、さらにこうした視点に、美学のみならず、フェミニズムやポストコロニアリズムなどの学問の成果が社会に浸透してきたからこそ (最近、90年代の漫画を読み直すと何気ない差別表現、例えばブスをギャグとして扱うとかに出会って驚きます。90年代というちょっと前ですらそれがまかり通っていたわけですよね) 、アートでは、“美” の追求というのだけではない、アートと社会、といったキーワードが先端にあり、いま “コンテンポラリーアート” というシーンがあるのですね。良かれと思って、美しい! と言って、誰かを傷つけてしまわぬように、こうした視点を学んでみませんか。こうした問題、もう無知ではすまない社会ですよね。そして、“美” だけじゃないアートの楽しみかたを身につけられるはずです。

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7日目は、栗原康 編著『狂い咲け、フリーダム──アナキズム・アンソロジー』です。はい。ついに最後の7冊目なので、ハードコアな一冊を。アンキズムです。「はじめにファックありき。わたしは正論がキライだ、ファックである。」というもう痛快な冒頭文からはじまるこの本。アナキズムとは何ぞや? というひとにも入門しやすいように、大正時代の大杉栄にはじまって、現在まで、著者が選んだ錚々たるアナキズムの文献と解説が収録されています。アナキズム、、、怖い、暴力、みたいなイメージもあるかと思いますが、まあ事実そうだったりもしますが、いまなぜアナキズムかと言うと、著者の言葉を借りるなら「あばれる力を取り戻す」ということに尽きるかと思います。自分はアナキストってわけでは全くないですが、何か活動をしたり、いまの状況を考えたりするときにアナキストだったらどうするだろうと考えてみるんですね (「俺はいいけどYAZAWAがなんて言うかな?」のように!) 。大半のアナキストは、そのほかから見れば極端に思えますが、この極端ということこそ見失いがちなこと。誰からの要望でもないのに流されたり、同調圧力に屈したり、忖度して諦めてしまったり。なんてこと誰しもあると思うのですね。そんなとき胸に手を当てて、「はじめにファックありき」とつぶやいてみるのです。いま社会への問題提起が重要だと思うのですが、それを妥協しないために、アナキズムの精神に学ぶべきことはとてもおおいのです。もうひとつ言うならば、アナキズムは死に絶えた思想ではなく、例えば、アナーキズム&人類学で「アナーキスト人類学」を提唱するデヴィッド・グレーバーのように、その系譜は脈々と進化している思想です。考えすぎて、そもそもの、そもそも、何で生きてるんだっけ、なんて悩んでしまったときには、是非、生に対して最も真っ当に考えて行動する (そのほかからすればわがままとも思えるほど極端に) 、アナキズムの思想に触れてみるのはどうでしょう。ときには嫌なことは嫌だと極端に。怒りこそ問題提起の源。あばれる力を取り戻せ!