「エイリアンズ・ノーマル:惑星都市の進化」

 新しい未来は、新しい神話である──。近く、芸術と科学が生命の未来を更新するとき、それはサイエンティフィック・イマジネーションの賜ものであるのみならず、神話と神秘主義といった過去の諸相と交差する。つまりは、"科学的想像力による一万年後" と "神話的想像力による一万年前" は、同一性を持つ。この問題提起によって試みるのは、身体の "変身"、"拡張"、"転移"、といった "身体への人間の行為能力"、その超ポジティブな肯定である。人間という種がもつ身体性はどこまで変容可能か。これをまさに身体を用いて物事を荒立てるパフォーマンスアートで実践することを、"トランスフォーマティブ・パフォーマンス (変容的実行) " と名付ける。本ショーイングが提示するのは、14組のアーティストが行為主体として選びとった、来るべき生命= "ポスト・ヒューマン" の超越的な更新となる、想像を超える身体性とその社会実践、それによって可視化される自明性を疑問視する意思である。身体とは個物でありながら、社会的であり政治的なものであり、人間を超えた環境と社会的政治性と関わるものとして、実態を超えたより大きなスケールで捉えられるべきものなのである。あらゆる身体への、あらゆる想像は、すでに虚構でなくはない。

-

 タイトルに冠した "エイリアン" とは、"異星人" を指す言葉として定着しているが、本来は "異邦人 (=外部から来たもの) " を指す言葉である。「エイリアンズ・ノーマル」とは、あらゆる人のもつ、あらゆる想像が、当たり前に解放される世界を想い描いて題しており、副題の「惑星都市の進化」は、そういった世界になることが、地球という惑星にとって "進化" であることを表している。よって、本ショーイングでは、新たな都市論の提唱として、複数の身体性が集う、一つの空間を、一つの都市と見立てる。ここに託す含みは、クィア理論がもつ包摂の眼差しである。クィア理論は、あらゆる性的な態度の区分による、あらゆる判断を拒絶し、すべての存在を承認するラディカルな価値転換の意思に端を発した思想であり、これを受け入れた共同体をも意味する。都市とクィアとポスト・ヒューマンは似ている、今はまだ、違う星に住んでるのでしょうが──。

 本ショーイングが始点とするのは、今現在、強いられている身体性への思い込みとは何かを検証することであり、ここから特筆すべき今現在の社会課題として浮かび上がったのが、"自立/共生という相互扶助の条件" "男性/女性というセックスとジェンダー区分" "人間/非人間の関係性" という事柄である。この問題系に ’10年代を通した情報テクノロジーの常態化を契機とした "マイクロポリティクス" の全面化と、今現在、より切実となった、ウィルスと共生していかざるを得ない状況を問う過程で喚起された問題意識を接続させることによって、未だ明かしえぬ人類史における身体性への思い込みに異議を唱え、身体性を起点に特異点を紡ぎ、形式化するコンテンポラリーアートヒストリーに見直しを迫る。

 コンテンポラリーアート・シーンにおける、生命の概念の更新、それは、"バイオ・アート" による科学と芸術が共同する実践の蓄積、"ポスト・ヒューマン" (ジェフリー・ダイチ, 1992年) や "トランスフォーメーション" (中沢新一・長谷川裕子, 2010年) といったテーマを掲げた企画展の開催や、"スペキュラティブ・デザイン" を標榜するデザイン思想の潮流から複数の作品が選出可能なこと、コンテンポラリーアートとパフォーミングアーツが相互に拡張し、"ニューメディア" として身体を捉える潮流など、先行実践については枚挙にいとまがない。そして、特筆すべきは、近年において、"新しいエコロジー" といったキーワードで総称される、人類学を中心とした諸学問との知的共創による潮流である。新しいエコロジーをテーマとした大規模な国際展は、各地で開催され、社会的な注目を集めている。

 本ショーイングは、こうした先行実践を踏またうえで、特に "ポスト・ヒューマン" と "トランスフォ ーメーション"、さらに加えて、この系譜の先駆的潮流といえる、’60年代末から ’70年代にかけて最盛した​、身体を媒体とした芸術であるのみならず、人類学を伴う身体改造を指す "ボディ・アート" を参照l項とする。そしてこれに、科学的想像力と神話的想像力という視点を取り入れることで、今現在まさに生命の概念の更新が差し迫っていることを伴わせ、旧来の定義を超えた現在形のカテゴリーとしての再生産を提示する。

​ 現在、有機体としての身体を叡知や理性の象徴として実質的に所有する我々は、理性では制御できない不安定で過剰な情緒の吸引装置としての身体を忘却しかけている、人類史において極めて特異な機能錯誤状況を生きている。歴史とは常に、浮動的状態と断片的状態の間で振動する運動体であり、この時間における不二と二分を踏まえてこそ、人間の生における死のもつ意義を自覚する限界状況を受け入れることができる。人間の交わりとは、すべからくばらばらであるから、他者と共に生存していくためには、身体の可能世界への欲望を現実として共有することこそが不可欠な認知である。身体は傷つきやすい、だからこそ連帯が可能となる。これが今現在の現実に唯一残された可能性である。"エイリアンズ・ノーマル" と "惑星都市の進化" はメタファーではない、現実となる。本実践は、本ショーイングを "一万年後と一万年前のアートヒストリー" に位置づけることを目的として実施する。