見出し画像

こうして私は強くなった

 幼少期から東京への憧れが強かった。
 だが、関西の田舎者には、あまりにもハードルが高すぎて、憧れは憧れのまま終わってしまうような気もしていた。
 阪神淡路大震災を経験し、「日本全国どこにいても、大丈夫な時は大丈夫、死ぬ時は死ぬ」そう思えるようになり、25歳になる年に、スーツケース一つで上京した。

 もともと大好きだったアパレルメーカーに、営業事務として運よく採用された。営業課長に、「時代の最先端ファッションを取り扱う会社の人間が、関西弁だと品位が損なわれるから、先ずは標準語を習得しなさい」と言われ、半年後には関西人だと気付かれないレベルの、きれいな標準語を話せるようになっていた。

 二十代は、とにかくがむしゃらに働いた。仕事が上向きになると、恋愛もトントン拍子に上手くいき、仕事に陰りが見えてくると、何故かいつも捨てられた。何もかもを失って、もうこのまま立ち上がれないのではないかと思うほどどん底まで落ちたが、婚約者が浮気相手の旦那さんに訴えられ、婚約破棄になった時でさえ、結婚式場のキャンセル対応も冷静にできた。

 元々男運は良くなかった。男運というより、男を見る目が無いといった方が正しいかもしれない。それに反して、仕事はよくできた。とんとん拍子に出世したり昇給したり…なので、恋愛から遠のいてからは、比較的平和な日々を送れている。ひとり息子が5歳の時にシングルマザーになってからも、特に問題もなく一人二役で成人まで育て上げた。

 この写真は、成人記念に母子そろってスーツをオーダーメイドし、東京の夜景をバックに撮影してもらったものだ。親子写真というより、「相棒」感が強いと笑われた。男運の悪さを一蹴できるほどの、どこに出しても恥ずかしくない息子である。息子の前では、とぼけた母を演じ続けた結果、わりとしっかりした男に育った。しめしめである。これがなぜ恋愛対象の前ではできないのか、そこが私らしいっちゃ私らしい。

 

 

 

#あの選択をしたから

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?