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ノア・スミス「もっと浅薄な未来に向かって」(2024年1月3日)

Art by GPT-4. Prompt: “an image that evokes ‘The Triumph of Death’, with similar buildings and a similar layout, but where everyone is healthy and happy”

不運には,代償に見合う値打ちがない

「50歳までぜひとも生きていたいよ」――キース・ヘリング

いや,たしかにこの記事の発端は,旧称 Twitter のソーシャルメディアプラットフォームでつい先日に起きた馬鹿馬鹿しいいざこざではあるんだけど,約束する,後の方まで読んでくれたらもっと面白い話になっていくよ!

つい先日のいざこざは,有名な絵画を軸に展開してる.その絵とは,キース・ヘリングの「未完の絵画」だ ("Unfinished Painting").1989年に描かれたこの絵は,AIDS になった彼に迫っていた病死を表している.ヘリングは翌年に死去した.享年31歳だった.

Art by Keith Haring

おそろしくゾッとする,悲劇的な絵画だ.片隅にだけできあがった模様から絵の具が幾筋も垂れ落ちている様子は,ひと目見て涙や血を思わせ,崩壊やむなしさを感じさせる.ここで強調されているのは,カンヴァスの空白がいかに広く手つかずに残されているかということだ.この絵画を眺めていると,個々人としてのぼくらの潜在的な可能性がいかに無駄にされているかが想い起こされる.それに,いまや忘れかけているパンデミックによってアメリカだけでも70万人もの人命が失われたことも.

先日,DonnelVillager という偽名のアカウントが AI 生成した画像を投稿した.それは,ヘリングの絵画の左上にあった模様を「完成させる」というものだった:

DonnelVillager の投稿は,美術愛好家たちをからかいつつも画家の創意を模倣しようと完璧に計算されている.この画像は,それ自体がインターネットのいたずら心による名作だ.投稿されると,この画像はたちまち数万人もの Twitter ユーザーたちの怒りを買った.これはヘリングの芸術を「侮辱」して損なうものだと,彼らは考えた.これに対して,DonnelVillager のネット荒らしめいたツイートを擁護する人たちも現れて,こう言った.「これもまた芸術だ.」 擁護する人たちに言わせれば,あの投稿に対して憤慨の反応が返ってきたことから,AI 芸術には境界侵犯的な力があって,文化的な正統をひっくり返しうることが証明されるのだという.

いつものぼくなら,こういうソーシャルメディアでの他愛ないごたごたには首を振ってすませるだけだけど,今回は友人のダニエルからもらったこんなリプライに目を惹きつけられた:

AI は思考をかき立てるね.AIDS がない世界を見せてくれてる.

もちろん,ダニエルもふざけてこういうことを言ってるわけだけど,それでも,とても重要な点で彼は正しい.AIDS が一度も存在したことがなかったなら――あるいは,HIV 治療がもうちょっと早く到来していたなら――ヘリングは DonnelVillager の AI 画像と見た目のそう変わらない作品をつくりだしていたかもしれない.なにしろ,ヘリングの他の作品のかなり多くは,現にああいう感じだったわけだし,

それに,AIDS がなかったら,おそらくヘリングは「未完の絵画」みたいにゾクッとする作品や感情を喚起する作品をひとつもつくらずに終わっていたかもしれない.彼の芸術は最後までずっと明るく気まぐれでたまに政治的な発言のスパイスが入る作風のままだったかもしれない.この6月に,William Poundstone はこう書いている.「みんなキース・ヘリングのことが大好きだけれど,誰も彼のことを本気で考えていない.[最新の]展示会で「ヘリングは反復的だ」という考えが破壊されたかというと,そうとも言えない.」 DonnelVillager がつくりだした AI 画像は,すごく浅薄だ――大規模統計モデルを利用して,ヘリングっぽい画風で無意味な模様をなにも考えずに繰り返してるにすぎない.でも,若くして死んでしまうという切迫感がなかったら,ヘリングの芸術はあれほど深いものになっていなかったかもしれない.

それでも,それはいい取引だったろう.「未完の絵画」は偉大な作品だけど,ヘリングの命と引き換えにするほどの値打ちはない.AIDS がなかったら,格闘すべき人類の悲劇が減って,世界はちょっとばかり現状より浅薄になっていたかもしれない.でも,「人々の人生が哀しみと嘆きに満ち満ちたものでありつづけられるように,今後もずっといろんな悲劇が起こり続けてくれますように」なんて,正気の人なら願ったりしない.不運を味わう対価を払うだけの値打ちなんて不運にはない.彼のいろんな絵画が一つ残らず無意味な AI 生成のクズであったとしても,キース・ヘリングが高齢になるまで生き続けた世界の方が,ぼくらが現に生きてる世界よりも好ましかったはずだ.

こう考えを進めていって,ぼくは進歩の意味について考えはじめた.

ぼくの祖父は,第二次世界大戦中に欧州戦線で爆撃機乗りだった.負傷せずに帰ってきたけれど,死にかける体験をなんども繰り返したり戦友たちを失ったストレスのせいで,祖父は生涯ずっとアルコール中毒に追い込まれてしまった.かつて,1990年代に,保守系の評論家がこんな主張をしているのを耳にした――「アメリカの若者は惰弱になってしまった,第二次世界大戦の世代のように苦難に直面せざるを得ない経験がないせいだ.」 ぼくは祖父にたずねた.いまの話をどう思う?ちょっとここには書けないような言葉を発してから,祖父は言った.「俺がやっておいたから,お前はあんなことをせんでいい.」

アメリカ建国の父たちの一人であるジョン・アダムズは,1780年に妻宛の手紙で,ぼくの祖父が抱いたのととてもよく似た感情を言い表している――間違いなく,多くの帰還兵たちも同意するはずだ.アダムズはこう記している:

私は政治と戦争を学ばなくてはいけない.
我々の息子達が数学や哲学を学ぶ自由をもてるように.
我々の息子達は数学・哲学・地理・自然史・造船工学・航海法・商業・農業を学ばなくてはいけない.
彼らの子供たちが,絵画・詩・音楽・建築・彫刻・織物工芸・陶芸を学ぶ権利を得られるように.

こうした言明の根底にあるのは,この世の中にある様々な試練や難題を永続させずに終わらせられるという信念だ.そういう試練や難題は未来永劫に一つまた一つと耐え忍び続けるべきものではなくて,いつか克服して永遠に過去の遺物にできるしそうすべきだという信念,努力によってよりよい世界を実現してそれを持ちこたえさせられるという信念が,ここにはある.

これは,しょうもない想定じゃない.これまでずっと,人間はよりよい世界の創出を夢みつづけてきた.でも,せいぜい蝸牛の歩みでの進歩しかこの世界には許されなかった時代が,歴史の大半を占めている.1400年の中国やヨーロッパや中東の人間が享受していた生活は,紀元前400年の生活と大差なかった.あちこちで文明は興ったけれど,マルサスの天井とおぼしいものによってやがて崩壊して,元の木阿弥に戻った.1000年のフランス人は,「神の王国」を地上に創り出すことなら夢見ることができたかもしれない.でも,超自然的な力の介入がなくては,天然痘やトコジラミや加齢による勃起不全のない世界を夢見ることなんてかなわなかっただろう.

でも,ご存じの通り,なにかが変わった.長い歴史のスパンで見て世界の GDP がえんえんと横ばいを続けていたのにホッケースティックみたいに急角度で上向きに転じてるグラフを,きっとみんなもどこかで見たことがあるはずだ.ここでは,あれは掲載しないでおこう.かわりに,これを見てもらおうか:

産婦の死亡率,1900年~2020年(妊娠中から妊娠の終了から42日までのあいだに妊娠に関連した原因で死亡した女性が出産10万件あたり何人いたかという割合を示す)

アメリカでは,産婦が死亡するのはふつうの出来事だった.その後,1930年代から1940年代にかけて,そういう事例は極度に稀なものになっていった.人間の苦しみに関する根本的な事実だった産婦の死は,有史以前から頑固なまでに変化を拒んできたのに,突如として,消え去っていった.いくたびも戦っては敗れ,戦っては敗れるのを繰り返してきた果てに,ある日,戦って……勝ってしまった.

産婦の死亡事例が急減した近因は,次の2つにある.1928年に抗生物質による処置がはじまったことと,そうした抗生物質により安全性が左右される輸血のような医療が発展したこと.ただ,ペニシリンは偶然に発見されたとはいえ,なにもないところに急に登場したわけじゃない.ペニシリンの発見には,産業社会という殿堂が必要だった.そして,そうした社会は何世紀もかけて築き上げられた.産婦の死亡は,長い苦闘の果てに克服されたのであって,うれしい偶然のおかげじゃない.(さらに,1800年代には一部の国々で産婦の死亡率が下がりはじめた.産業化がうみだした富のおかげだ.)

ロマン主義者なら,こう主張するかもしれない――「産婦の死亡率低下によって,世界はより浅薄な場所になってしまった.」 1800年代の序盤だったら,出産は死の危険と隣り合わせだという周知の事実をもとに,情動に訴えかける物語を語ることもできた.今日,高校の国語教師はジェイン・オースティンやエミリー・ブロンテを読むときにいちいちこのことを解説しないといけない.そうしないと,ああいう小説に登場する女性たちがいかに勇敢だったかを生徒たちが頭で理解することもかなわないからだ.

こういういろんな悲惨の克服は,ごくあたりまえのことになっている.1995年なら,HIV は死刑宣告だった.その翌年,デイヴィッド・ホーの研究チームが明らかにした新たな併用薬物療法によって,HIV は人間が処置できる慢性疾患に変わった.それから30年近くが経過した今,大半の人たちにとってヘリングの「未完の絵画」は解説の必要な作品になりつつある.たしかに,いまでも死にいたる病の意味は理解されるけれど,AIDS の文脈は――とくに1980年代の政治状況でゲイの人たちにとって AIDS がどんなことをもたらしていたかという文脈は――すでに生きた記憶から色あせていって無味乾燥な歴史になりつつある.

世界がより安全になるにつれて――科学・テクノロジー・産業社会の集合的な力の前に人類の数々の苦難が打ち破られていくにつれて――悲劇・リスク・不運・ヒロイズムは情動に訴えかける威力を発揮しにくくなってきている.ますます多くの人々の人生が,子供のように純粋で単純になってきている――少なくとも,昔に比べれば,ちょっぴりそうなっている.

ぼくがこのことに気づいたのは何年も前に,ディズニーの『リトルマーメイド』を見ていたときのことだ.原作にあたるデンマークの1837年のおとぎ話では,人魚は自分の命をかけて王子の愛を勝ち取ろうとする.人魚は失敗して,邪悪な海の魔女に命を奪われてしまう.1989年のディズニー映画でも,まったく同じ物語が展開する――ただし,受動的に敗北を受け入れることはなく,人魚と王子はいっしょに海の魔女の胸を船の残骸で刺して,そのあとはずっと幸せに暮らす.

たぶん,こういう結末が,アメリカでは自然で満足がいくものなんだろう――産業革命後に大きくなった国では.世の中には,ハリウッド映画らしい結末を浅薄という人たちもいる.でも,ああいう結末は,現代世界の日々の現実を反映してる.デイヴィッド・ホーによる AIDS の克服にはあって,海の魔女を刺し殺すのにはないことって,なんだろう?

それに,ぼくらの状況は一時だけよくなっただけじゃない.ロマン主義者のなかには,こう空想してる人たちがいる――「社会は円環のなかを回っている.苦難の時代が強い男をつくり,その強い男たちがいい時代をつくりだす.いい時代は弱い男をつくり,そいつらは苦難の時代をつくりだす.」 でも,そういうたぐいの制度的な円環が存在していようとしてなかろうと,いったん状況が上向いたときに発見された各種のテクノロジーはそのまま保持される.あっちの国やこっちの国々はときに崩壊するかもしれないけれど,人類は抗生物質を忘れ去りはしない.

それに,人々が自分の物質的な生活の改善を実感できないためにこのプロセスがおのずと制限される兆しも見られない.生活の満足度と GDP との相関には,上限がない〔GDP の増加とともに生活の満足度が増加していくものの,ある一定のラインに達すると満足度が上がらなくなるという話がときに語られるけれど,そういう上限はないと言っている〕.世間に流布してる迷信に反して,国々が豊かになるにつれて自殺率が下がる傾向は強い.先進国で鬱病の数字が高くなっているのは,憂鬱感のせいではなくて,先進国の方がうまく診断しているからだ.

ロマン主義者のなかには,産業社会という大伽藍を内部からひっくり返してやりたいという気持ちを抱いている人たちもいる――人類を苦役と苦難の世界に送り返して,人類を高貴な生き物にもどしてやりたいと思ってる人たちもいる.でも,そういう暗いロマン主義者たちはフィクションのなかでも世間の論議でも正しく悪役だと認識されている.ぼくらの物語のヒーローは,デイヴィッド・ホーみたいな人たちだ――汚泥のような世界から人類を引き上げるために戦って,将来の世代がもう少しだけ子供みたいに過ごしていられるように力を尽くした人たち,政治や戦争を研究して,将来の孫たちが彫刻や織物や陶芸を学べるようにがんばった人たちこそが,ぼくらのヒーローだ.

苦しみの高貴さというやつはいつだって対処メカニズムだったってことを,ロマン主義者たちは受け入れる必要がある――苦しみに耐えることに高貴さを見出そうとするのは,不毛で無益にしか思えない永い夜明け前の年月に耐えて希望をもちつづけるための方法だ.それに,ヒロイズムにはいつも自壊する傾向が備わっている点も受け入れる必要がある――世界を救うためには,世界には救うだけの値打ちがある必要がある.

さらに,もっと広い意味で,ほんとは幸福は浅薄じゃないってことをロマン主義者たちは理解しないといけない.せめて,理解しようとつとめてもらわないといけない――たんに,幸福には深さの度合いのちがいがあるんだ.旧世代の人たちにしてみれば,昔より優しく柔和な世界で育った人たちの感情は異質で不可解かもしれない.でも,彼らの感情が昔より強度で劣っているわけじゃないし,彼らを取り巻く文化だって昔より複雑でなくなってるわけでもない.逆境のさなかにあればその苦難に立ち向かわざるをえない.でも,〔物質的に潤沢に〕恵まれているときには,自分がどんな人間になりうるかを探り当てることができる.これは,苦難に立ち向かうのとは別種の冒険だ.

ぼく自身のこれまでの人生を振り返って見ると,しあわせな子供時代を過ごしたあと,臨床的な鬱病になって自分が一変したのを思い出す.鬱病はほんとにひどかった.ただ,いまの自分の人となりに豊かさと深みをもたらしてくれたし,そういう変化の値打ちは評価してる.とはいえ,あの頃のしあわせな子供の自分が鬱病にならないまま成長する機会があったら,きっと,いろんな点でいまと違っていただろうと思う.それに加えて,もっと優しい教師たちに教わっていたなら,人間としての値打ちや面白みも,いまのぼくに劣りはしなかったんじゃないかと思う.

同じことは人類にも当てはまるに違いない.ボタンひとつであんなこともこんなこともできてしまう現代世界は,なにかを失ってしまっているけれど,でも,失った以上のものを手に入れている.そのことを祝って,幾千,幾万年もの長い間に登場して,この現代世界をもたらすためにささやかな仕事をなしとげていったヒーローたちを称えよう.かくいうぼくらも,彼らの偉大な企ての継続にその身を捧げることになるとしてもね.ぼくらに残された使命は,自分たちよりもたくさん笑える子供たちでこの世界をいっぱいにすることだ.

原註

[1] 面白いことに,DonnelVillager のハンドルネームも,この記事を書こうと思い立った理由のひとつだ.彼の名前は,ぼくのお気に入りテレビゲームに元ネタがある.それは,『ファイアーエムブレム:覚醒』だ. Donnel というキャラクター〔日本語版では「ドニ」〕は,ただの村人だったのに,父親を悪漢どもに殺されたあと,終末的な世界で戦わざるをえなくなってしまう.がんばってレベルを上げてやると,ドニ/Donnel はすごく強力なヒーローになる.ただ,戦争が終結すると,彼は戦いや冒険をすっぱりやめて,もとの農村に戻って単純な生活を送る.彼の物語は,苦難を味わうのは苦難のためじゃないってことを思い出させてくれる.

[Noah Smith, "Toward a shallower future," Noahpinion, January 3, 2024]

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