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さよならだけが愛ならば。

今日久々に、米津玄師さんの「vivi」という曲を聴いた。
私はこの曲が大好きで、一番のBメロの歌詞なんか共感しすぎて首がもげてしまう。
米津玄師さんはここから何年間も最前線で活躍するアーティストになるわけだけど、最新の洗練された楽曲に負けず劣らず、この曲は何度聴いても好きだ。

歌詞を味わいたくなってインターネットで検索すると、歌詞の解釈を考察する記事もたくさん見つかる。もちろん真の意味は作り手である米津さんのみぞ知ることなんだろうけど、いくつか読んだ中で私にしっくりくるものが一個もなかったので、こうして今日は記事を書いてる。

viviが一体誰なんだろう、という事に関しては、私はきっとバイバイしなきゃいけない存在の擬人化にしか過ぎず、名前はあるけど形のない、あやふやだけどたしかに存在はしていた何かだと思ってる。
この歌の一番すごいところは、もやに名前をつけたところなんじゃないかな。

寝る前にふと思うことがある。
明日目覚めたとき、その時の私は、今日寝る前の私と果たして同じ私なのかな、と。
「寝る」という行為で私は一度死んでいて、たまたま生還できた(起きることができた)世界に私は移動し続けている可能性はないだろうかと。
生還するのに失敗した世界では、朝起きて冷たくなった私の身体を泣きながら起こそうとする家族がいるんじゃないかとか、こういった縁起でもない妄想を、悪気もなく考えてしまう。

viviって歌は、そういう歌なんじゃないかなと思いながらいつも聴いている。
私は私という器に入ったまま、無限の時の中を旅して、毎日寝る度にいくつものお別れを経験している。
昨日までの自分にさよならすることだけが、明日の私に会える唯一の方法。
ひとつながりの出来事のようでいて、実はとても重大なことの気がする。
たまに寝て起きて、自分でもびっくりするくらい心変わりする朝がある。そんな日は、きっととても大切にしていたviviにお別れしたんじゃないかな。

「さよならだけが、僕らの愛だ」

あの日別れたviviと、私はもう一度会える日がくるのかな。
でもきっと迎えに行ったところで、向こうも私のことなんか忘れて、他の人の大切な何かになってる気がする。

生きてくって、そういうことなんじゃないかと思ったのだった。


(という日記でした)

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