父親の死に思う

8月8日に父が亡くなりました。
数年前に胃がんが見つかって、それからなんだかんだと入院してときどき手術していました。私自身、長生きに肯定派で無く、その時が来たらもういいんじゃ無いの?と考える人です。父が亡くなった今もそれは変わらず。

亡くなった人や、ほぼ亡くなることが確定した人って、肯定されがちです。実際には生きているうちには良いことも悪いこともあります。私は父のことは好きではありませんでした。子供の頃は理不尽に暴力を振るわれたし、いい加減な知識で振り回されていました。今思えば、100%嫌いでは無いですね。95%くらい嫌いで、稀に良く思うことがあったと思います。レアケース。1970年付近生まれの人は、そんな人もいると思います。

そんな傍若無人と感じていた父ですが、年老いて弱ってくれば悲しくも見えます。しかし幼い頃、父に大して大いに不満を持っていた私は入院の保証人にはなりませんでした。というか、そもそもそんなものを要求する病院って何なの?と思いました。今も思いますけど。あと、名前だけ書いてくれれば良い、という態度にとても腹立たしかったです。当時、私には病院の機材を破壊したときの補償が出来るような経済状況にはなかったです。この国はどうなっているのやら。私はそういうバクチはやりません。自分がそうなったら死を選びたいです。一生懸命生きているものの、いつも死場所も探しています。

そんな感じで誰かが保証人になったと思います。ほんと、とんでもない仕組み。こういうことを国会議員さんに陳情すれば良いのだろうな。今度やっておこう。

そんな感じで何度か入院や手術をしていたらしい。何回か聞いた気もするけど、毎回聞いていたわけじゃ無いみたい。私もそれほど気に留めていなかった。

そんな感じで5年ほど、実家には行かず過ごしていた。ところが7月の下旬に、もうダメかもしれない、と連絡が来た。自分の中では亡くなってからで良いよ、くらいに考えていた。弟があまりにも強く会うように要求してきたこと、怪しいけど父が会いたがっているはず?とのことで、会うことにした。父がそう言ったわけでは無いようだったが、弟が面倒なので、ということもあった。面会日までは3日くらいあったので、もしかしたら間に合わないかも?という思いもあった。

なんだかんだで、私の家族全員で行くことにした。急だったけど、そうなった。
実家に立ち寄った後、病院に面会に行った。死の直前、という感じでは無いが衰弱していた。聞き取りにくいものの会話も出来た。そんなに長くは無いことは分かった。
妻と娘は、亡くなる前に会えてよかった、くらいで満足していた。私は私がもっと会いたいというよりも、父はこのまま亡くなって未練は無いのだろうか?という思いがあった。

翌週、一時退院が決まった。少し体調が良くなったということと、回復の見込みがないので自宅で過ごす時間をつくりたい、という配慮によるものだった。2週連続ではあるが、私も週末に自宅にむかうことにした。ところが自宅に戻った直後、たった1日で体調は悪くなり、また入院になった。
私は再入院で、遠くまで行って会う必要があるのかとも思ったが、父が寂しがり屋であることを何となく感じていたこともあり、見舞いに来てくれないと落ち込むかな?と思って行くことにした。金曜日の深夜バスで向かい、昼に面会して、日中の高速バスで戻る予定にした。
面会に行くと、大きな音で野球中継を見ていた。アメリカの大リーグで大谷が出ている試合だった。家族の写真を持ってきた。病院は退屈だから。病院に向かう直前にコンビニでプリントした。写真を見ると、孫娘が可愛いと言った。まも無く、遺産をどうしたいと語り始めた。この時はよくしゃべった。20分くらい。面会は15分と言われていたが、30分は超えていたと思う。院内での撮影は禁止だったが、一緒に写真を撮ったり、長い話を動画に収めた。帰りに看護師さんから病院の食事は食べていないのでなくすかどうか、と相談されたので、父にどうするか聞いてみたら、出して欲しいとのことだったのでお願いした。わがままでごめんね、と冗談混じりに言っていた。
病院からのバスの時刻に間に合わず、タクシーで高速バス乗り場に向かった。

次の土日は面会に行かなかった。病状は悪いながらも安定している気がしていた。休みの度に行くのも無理があった。ただ、気にはなっていた。

しかし月曜日、もうダメかもしれない、と昼前に連絡があった。以前の私なら、亡くなってから行くくらいだったが、その日は仕事を早めに済ませて早退して病院に向かうことにした。家族に見守ってもらいたいだろうな、と思った。そういう人だから。
電車と新幹線に乗って、病院に着いたのは午後7時30分頃。かなり黄疸が進んでいる。体温は低く、触れると冷たい。会話は出来ないが腕を動かして、目を開けている。目は思うように動かない感じだった。
病室に入った時は母がいた。すでに状況を分かっているせいか、取り乱している様子はない。父の発声は出来ないが腕を動かす状況に母は苛立っていた。今夜がヤマと医師が言っていた、と父の横で言う。聞こえているんじゃないの?
午後8時過ぎに弟が私を迎えに来た。母を病室において、私は実家に向かった。
深夜2時30分頃、父の容態が悪いと病院から連絡があった。最後に会いたければ来てください、と。兄弟3人で向かった。

病室に着くと、父は酸素マスクをしていた。深夜のためか、弱っているためかあまり目は開かない。生きていると思えないほどに冷たい。血圧は測定できないほどに低い。息をして、時々腕を動かしている。母は相変らず腕が動くことに文句を言う。
母は退院の準備をしていた。もちろん回復するわけはない。道具をまとめて、壁に飾っていた孫娘の写真を片付けていた。もう、死の予定に合わせているように。そして私に、息を引き取ったらここの葬儀屋に連絡して、と言った。まだ父は生きているし、何も聞こえるところで言うことはないと、私は苛立ったが、今まで看病してきた人なので、言わせておいた。父は案外息を引き取らず、朝6時過ぎに私を残して残りの家族は自宅に戻った。私は父と病室に残り、聞こえているのかどうかも分からない父に昔の話をしたり、今の話をした。写真や動画を撮って、妻と娘に送った。妻と娘もおはようの動画を送ってくれて、それを父に見せて聞かせた。朝になってから、よく目が開くようになった。何か言いたそうにも思えたが、話す力は無かった。
ずっとベッドに寝ていたので、外が見えなかったと思い、窓からの風景をスマホで撮って見せた。今日も晴れているよ。毎日暑いんだよ、と話した。
看護師さんが、体の向きを変えたり、体を拭いてくれたと思う。

スマホで写真や動画を撮っていたけど、バッテリーが半分くらいになってきた。モバイルバッテリーを持ってくればよかったな、と思った。
10時30分頃になって、呼吸の頻度が減ってきた。苦しそうというより、呼吸する力が尽きてきた感じだった。一度、看護師さんが心臓が止まった、と病室に来たが、また呼吸をしていた。でも、もう無理かな?と思った。
10時50分頃に最後の呼吸をした。看護師さんも来て、心臓止まりましたね、とか言っていた。自宅に連絡して、家族が来てから医師が説明しますね、とのこと。今診ないんだー?と思ったけど、もう終わっているのでそうした。

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