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Once Upon a Time in YURAKU-tyo

※次の映画のちょっとしたネタばれがあります。『理由なき反抗』『オズの魔法使い』『十二人の怒れる男』『風と共に去りぬ』『市民ケーン』  『卒業』『カサブランカ』

昔々、私にとって映画は、”=”ハリウッドだった。                          東映まんが祭りを観にいっていたガキが映画好きになると洋画一辺倒になり、映画館に足繁く通った。そして、そこで上映されている洋画は当時ハリウッド映画ばかりだった。      

有楽町の映画館で、受付窓口のお姉さんから学生証を見せろと言われ、持ってきていなかった丸坊主頭と詰襟学生服の中学生だった私は、その恰好がお姉さんに見えるよう窓口の外からつま先立ちになって胸を張り、必死に自分で自分を指さして見せた。                      するとその姿がおかしかったのか、”ぷっ”と吹き出したお姉さんが、学生料金で買ったチケットをもぎってくれた。                 

観たのは確か、ジェームス・ディーンの『理由なき反抗』だったと思う。   埠頭のカーレースの場面が良かった。

スターターをつとめるナタリー・ウッドが両手を上げるのを、カメラが下から上へとなめるように撮り上げていく。彼女が上げた両の手を勢いよく下げると、フルスロットルで走り出した2台のアメ車が彼女の両脇を猛スピードで走り抜けていく。疾風と共に振り返るナタリー・ウッドをカメラが今度は背中から、そして上から下へと下がっていき、最後は下から見上げるような角度で、彼女が振り返ると同時に翻ったスカートの、裾から中を覗き込む形で視線が固定される。まさか!見られるのか!と目を皿のようにすると、真っ暗な闇しか見えなかった。

昔のハリウッド・クラシックといった作品が頻繁にリバイバル上映されている頃で、少ない小遣いをはたいて有楽町の映画館を片っ端からはしごして回っていた覚えがある。シネコンなんてものは無くて、有楽町マリオンもまだ無かった頃、日劇がまだあった頃だ。2019年に残念ながら閉館となってしまったスバル座にもよく足を運んだ。

『理由なき反抗』『エデンの東』『風と共に去りぬ』『ローマの休日』『カサブランカ』『市民ケーン』『アラビアのロレンス』『駅馬車』『メリーポピンズ』『雨に唄えば』『明日に向かって撃て!』『愛情物語』・・・・・etc、etc。

親父が大のハリウッド映画好きで、淀川長治さんにひけを取らないくらいの本数観ていて、家には洋画関係の本やら写真集やらがたくさんあった。そうした環境もあってか、私の思春期は洋画、それも主にハリウッド映画に染められていった。分けてもこれも親父の影響で、ハリウッド・クラシックばかり追いかけて、当時流行していた映画には全く興味が湧かなかった。

『オズの魔法使い』を初めて観た時は衝撃だった。オズに足を踏み入れるまで、ドロシーがいた世界は全てセピア色で撮られている。カンザスから台風で飛ばされた家がオズに着地して、ドロシーが恐る恐る扉を開けると・・。1980年頃の自分でも背筋がぞくぞくしたのだから、この映画が製作された1939年当時の観客の感動はものすごかっただろうな、と思わされた。

推理小説好きとなるきっかけを与えてくれたのも、ハリウッド・クラシックだった。当世流行りの映画には見向きもしないのに、何故か『十二人の怒れる男』は有楽町まで観に行った。                     恐らく『荒野の決闘』を観ていたからだろう。それに主演していたヘンリー・フォンダが凄まじく素晴らしく普通の市民を演じていた。最後、彼と十二人の陪審員の内の一人が、裁判所の外に出た所で名乗り合う。あれだけ熱く論戦を交わした者同士だったが、その時初めてお互いの名前と職業を知り、名乗り合い握手をした後、何事もなかったように”じゃあ”と言って別々の方向へと歩き出す。恐らくその後二度と会う事もない二人。このラストに痺れた。市井の名もなき市民である事、責務を果たすという事はこういう事なのか、と思った。

その頃流行っていた『スター・ウォーズ』を初めて観たのは、成人を過ぎてからビデオでである。『メテオ』という当時封切られたB級SF映画に41歳になったナタリー・ウッドが出演していたが、テレビCMにチラと映った横顔を見て何故か悲しい気分になり、観に行く気にもならなかった。    これもテレビでやっていたアカデミー賞で『クレイマー、クレイマー』がやたらと受賞作品として何回も名前を呼ばれていたのを覚えているが、観にいこうとは全く思わなかった。(成人してからこれもビデオで観たが、いい映画だった)でも『テン』の上映ポスターは食い入るように見入った。(今確認の為ググってみて思い出したのだが、この映画、ジュリー・アンドリュースが出演していたんだった!)

『クレイマー、クレイマー』は観に行こうともしなかったが、同じダスティン・ホフマンが主演していた『卒業』はいそいそと有楽町へと繰り出した。幼い頃、親父がテープ・レコーダーで繰り返し流していて何度も耳にした”サウンド・オブ・サイレンス”の映画だというのもあったが、別の中学生の男子なりの理由もあった。映画を観た後、巨大な?マークを抱えて家路についたのを覚えている。

「今日、『卒業』を観てきたんだけど」と親父に言うと、「貴様、中学生の分際で『卒業』を観に行くとはどういう了見だ」と言われ、(”りょうけん”って何だ?俺は犬じゃねぇぞ)と思いながら、「あのラストの意味が分かんねえんだけど」と言うと、「貴様にあの映画はまだ早い。どうせアン・バンクロフトの胸ばかり見ていて中身なんぞさっぱり頭に入らんかったんだろう」と言われ、「いや確かにアン・バンクロフトの胸は見たが(実を言うとアン・バンクロフトの胸よりキャサリン・ロスの胸の方が頭に残ってるんだが)、そんな事よりなんであの二人は晴れて一緒になれたのに、最後あんな浮かない顔になったんだ?しかも浮かない顔のまま終わりってどういう事だ?」と言うと、「考えてもみよ、まだ二十歳そこそこの若い二人がこれから二人で生活していかなきゃならんのだぞ?金を稼いで子供作って育てていかなきゃならんのだ。先行き不安しかあるまい。その現実の重さに気づいておののいているという事だ」と言われ、(何を言っとんだ?この親父は?キャサリン・ロスといい事できるんだぞ?他に何が要るってんだ?)ときょとん、とした表情を恐らくしていたであろう私の顔を見て親父は、「だから貴様にはまだ早いと言っとるんだ」と言われた。

『卒業』が製作されたのは1967年。50年代風の絵にかいたようなハッピー・エンドの時代は過去のものとなり、リアルな心象風景をありのまま映像に叩きつける作風であるニュー・シネマの先駆的作品となったなんて事は知る由もなかった私は、全く腑に落ちないラストに興をそがれ、次第に映画から遠ざかるようになっていく、そのきっかけともなった作品である。

振り返ってみれば、かつ丼にかぶりつくように有楽町まで足を運んでいた当時、血眼になってクラシック映画ばかり見ていたが、観たけどよくわからなかったというのがたくさんある。中学生でも頭の出来が良い人ならわかるのだろうが、私の頭は『テン』のボー・デレクの半裸に釘づけであった。(これは上映ポスターだけで、映画そのものは未見である)

『風と共に去りぬ』を初めて観た中学2年の時、寝る事は無かったものの観ている途中で既に(長ぇ・・・)と思った事が一番印象に残っている。南北戦争の事もよくわからなかったし(今だってそんなにわかってるわけではないが)、何でレッド・バトラーがあんなにイキって参戦するのかもさっぱりわからなかった。ただアトランタ炎上シーンの凄さとヴィヴィアン・リーが物凄く綺麗だったのとハティ・マクダニエルが素晴らしく良かったから寝ないで観られた感じだった。ラストに至ってはさっぱり意味不明だったが、(やっと終わった・・・)という疲れで、意味なんてどうでもよかった。

『市民ケーン』なぞ、最初から最後まで意味不明のまま終わった。      (”バラの蕾”って何やねん?)と(何が言いたいねん?)が、初見の感想の全てである。最も中学生でバラの蕾の意味が理解できたとしたら、それはそれでやばいのだが。

『ローマの休日』と『カサブランカ』はわかりやすかったので、素直に感情移入できた記憶がある。特に『カサブランカ』はこれまで何回観た事か。   ”ナチの迫害から逃れる為にどうしてもアメリカへ行くのだ”、と涙ながらに訴えるブルガリアから来た若妻に、”ブルガリアへ帰りなさい”とすげなく言い放つハンフリー・ボガート。その後ルーレット場で”beautiful thing”な事をやってみせ、またまた涙ながらに感謝の意を表す若妻の手をふりほどくと、”Just a lucky guy”と渋く言って去っていく。

映画は、二次元の画面に投影された動く写真に過ぎない。それをただ観ているだけなのに、時々恐ろしく生々しい体験として記憶に刻まれる場面が出てくる。『カサブランカ』の”ラ・マルセイエーズ”の合唱シーンは、そんな場面の一つだ。合唱が終わって拍手喝采の中、”この店を閉鎖する”というナチス将校に、”理由がありません”と消極的に抗議を試みる警察署長だったが、”作れ”と将校に言われ、賭博をやっていたという理由で店を閉鎖する、と皆に宣言する署長の元へ、ディーラーが”勝ち分です”と賭けに勝った金を持ってくると、”Thank you very much !!”と言ってポケットに収め、”閉鎖なんで帰ってください!皆さん!”とがなる署長、というオチも秀逸だった。

この映画が製作されたのは、第二次世界大戦にアメリカが参戦した翌年の1942年、まあそんなわけでプロパガンダ的要素が多分にある映画ではある。その年はナチス・ドイツがフランスを占領してから2年後だった。    映画の中で、フランス国歌である”ラ・マルセイエーズ”の合唱が始まると、アメリカでは映画館の観客が一斉に立ち上がり、共にこの歌を合唱し、劇場がその大音響に震えたという。                      合唱が終わって拍手が鳴りやまぬ中、泣きながら”ビブレ・フランス!”と叫んだイヴォンヌと一緒になって叫んでいる観客の声まで聞こえてくるようだ。

あの頃、映画館の暗闇の中には、まだそうした熱狂の片鱗が生きてあったような気がする。                             その息吹を感じたくて、有楽町へと足を向けていたように思う。

”ラ・マルセイエーズ”の合唱が始まった時、確かに劇場の暗闇の中で、空気が変わったのを感じた。熱く、蒸せるような気の層が、闇が息をし始めたように暗い空間に満ちてきて、コルクのような匂いが鼻腔一杯に広がった。 軽い咳払い、椅子が軋む音、雑誌か映画のプログラムか、紙の束を握りしめたような”ギュムッ!”という音・・・何かに覚醒したみたいに、色々な音が一斉にクリアに聞こえ出した事も、はっきり覚えている。

そんな瞬間を求めて、毎月のように通い詰めた日々を辿りながら、当時の有楽町の街並みを思い描こうとしたのだが、街並みの記憶がさっぱり浮かんでこない。

当時、映画を観に通っていた私は、とにかく映画が観れれば良かったわけで、行く時は(今日は3本観るから、帰りは夜8時過ぎるな、また来月外出禁止令が出されるんだろうが、この3本はどうしても観逃すわけにはいかんのだ)と、これから観る映画の事をあれこれ考え、帰りは観終わった映画の場面をあれこれ反芻しながら、あれはどういう意味だろう?あの場面にはどんな意図が込められているんだろう?と頭が一杯になりながら帰路に着いた。

というわけで、当時の有楽町の街並みについてさっぱり記憶がない。

映画館に足を運ばなくなって、何十年経っただろうか。          今でも時々、あの暗闇が懐かしくてたまらなくなる事がある。        でもあの暗闇は、もはや今の映画館の中には無いような気もする。      今は人生の暗闇から脱け出そうともがく事に忙しい。

一組のカップルが、飛行機に乗って闇の中を旅立っていく。         また二人、ナチスの手から自由へと逃れていった。           『カサブランカ』のラストシーンである。                  飛行機が飛び去った後の闇を見上げるリックの後ろで、ナチスとカサブランカに集った人々の間を鵺のように飛び交い、どちらにもいい顔をしてきた警察署長がふと自分が飲みかけたワイン・ボトルのラベルをしげしげと見つめ、中身を飲まずにそのまま傍らのゴミかごに乱雑に投げ捨てる。

ラベルには”ヴィシー”と刻印されていた。                 ナチスに迎合した当時のフランスの政権は、ヴィシー政権と呼ばれていた、と教えてくれたのも親父だった。                     来月、3回忌を迎える。                          今年も帰れそうもない。                         Amazonで線香をポチろう。

そう言えば、primeに『女神の見えざる手』がラインアップされていた。 時間ができたら、観よう。


         




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