山下達郎と小杉理宇造とジャニーズ事務所

※以下の文章はすべて敬称略とさせていただきます。
※当記事は予告なく本文を加筆修正削除します。

2023年7月1日に音楽プロデューサーの松尾潔がスマイルカンパニーとのマネージメント契約が中途で終了になったとツイートしました。要点をまとめると以下の3点になります。

  1. 松尾潔とスマイルカンパニーとのマネージメント契約が中途で終了になった。

  2. 松尾潔がメディアでジャニーズ事務所と藤島ジュリー景子社長に言及したのが理由である。

  3. 山下達郎も会社(=スマイルカンパニー)の方針に賛成している。

現時点では松尾潔のツイートしか情報元がなく、どこからどこまでが事実なのかわかりません。

スマイルカンパニーのホームページから松尾潔の個別ページが削除されいます。これを見る限り松尾潔が現在スマイルカンパニーとマネジメント契約していないことは事実のようです。

【追記】週刊文春からの問い合わせにスマイルカンパニーの担当者が電話で回答しました。

スマイルの言い分を聞くべく、文書で質問を送ると、担当者が電話で回答した。

――契約解除は事実か?

「合意のもとで業務提携を解除したのは事実です」

――ジャニーズ事務所の影響はあった?

「お答えはできません」

――山下さんも賛成した?

「守秘義務がありますので、お答えは差し控えさせて頂ければと思います」

https://bunshun.jp/articles/-/64130?page=2

松尾潔のツイートのうち1については「業務提携を解除したのは事実」と認めたものの、2と3についてはゼロ回答でした。

【追記】スマイルカンパニーの公式ホームページで、スマイルカンパニー社長 小杉周水の名で声明文を出しました。

皆さまへ

平素より大変お世話になっております。
この度、スマイルカンパニーと業務提携をしておりました松尾潔氏と松尾潔事務所との業務委託契約が本年6月30日をもって双方の合意により終了しましたことをお知らせ致します。

契約終了直後に、松尾氏がTwitterで弊社所属の山下達郎の名前にも触れてツイートを行ったことが各方面で取り上げられておりますが、今回の契約解除は、松尾氏によるこれまでの社内外での言動等に鑑み、弊社代表である私自身の判断により、松尾氏との協議の上、合意により終了することとなったものです。
双方の代理人弁護士による署名/捺印済みの解約合意書もございます。
その他については、守秘義務の関係もあり、お答えを差し控えさせていただきます。

尚、一部週刊誌やインターネット上で拡散されております件につきまして、今週日曜日(7/9)14時からTOKYO FMとJFN(全国38局ネット)で放送されます山下達郎
サンデー・ソングブック内にて、山下達郎本人より大切なご報告がございます。
この度は、ご心配とご迷惑をおかけして申し訳ございません。
今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。

2023年7月5日
株式会社スマイルカンパニー
代表取締役社長
小杉 周水

https://smile-co.jp/info/20230705.html

要点をまとめると以下の4点となります

  1. スマイルカンパニーと松尾潔の業務委託契約が終了したのは事実である。

  2. 松尾潔の社内外での言動を理由に小杉周水が業務委託契約の終了を判断した。

  3. 業務委託契約の終了について小杉周水と松尾潔が協議し合意している。

  4. この件について山下達郎は「サンデー・ソングブック」でコメントする。

スマイルカンパニーとは

そもそもスマイルカンパニーとはどういう会社なのでしょうか。

1978年に山下達郎のマネージメントをするために芸能プロダクション「ワイルド・ハニー」が、音楽出版社として「スマイルカンパニー」が設立されました。

1984年に芸能プロダクションの社名を「ワイルド・ハニー」から「スマイルカンパニー」に、音楽出版社の社名を「スマイルカンパニー」から「スマイル音楽出版」に変更しました。このときに小杉理宇造がスマイルカンパニーとスマイル音楽出版の社長に就任しています。

ワイルド・ハニーという名前もスマイルカンパニーという名前も山下達郎が敬愛するビーチボーイズのアルバム『Wild Honey』と幻の未発表アルバム『SMiLE』から取られています。

2017年に小杉理宇造がスマイルカンパニー社長を辞任したあと、スマイルカンパニー社長は黒岩利之が、スマイル音楽出版社長は小杉理宇造の長男である小杉周水が引き継ぎました。

2022年には小杉周水がスマイルカンパニー社長とスマイル音楽出版社長を兼務し、スマイルグループの代表となりました。

間に黒岩利之を挟んでいるものの、実質的な世襲といえます。

話が本筋からそれますが、黒岩利之がどんな人かというと、ソニーミュージックに在籍していた2000年にデフスターレコーズの立ち上げに参加した人物です。デフスターレコーズは平井堅やCHEMISTRYが所属し、J-R&Bブームの中心となったレコード会社です。そして当時、平井堅やCHEMISTRYをプロデュースしたのが松尾潔です。

そして黒岩利之は2022年にスマイルカンパニーの社長を辞任し独立。合同会社デフムーンを設立します。"デフ"はもちろんデフスターレコーズから、"ムーン"はムーンレコードからとったのでしょう。

スマイルカンパニーには他にも音楽家やクリエイターが所属していますが、設立から現在まで一貫して山下達郎のマネージメントを中心業務としてきたことは間違いありません。

山下達郎の妻である竹内まりや、ツアーバンドのメンバーである小笠原拓海、宮里陽太、ハルナ、アルバム『SOFTLY』のジャケットを描いた漫画家ヤマザキマリもスマイルカンパニーに所属しています。

小杉理宇造とは

2017年までスマイルカンパニー社長だった小杉理宇造とはどのような人物なのでしょうか。

小杉理宇造はグループサウンズの時代にブルー・シャルムというバンドでドラムを叩いていました(当時の芸名は春城伸彦)。ブルー・シャルムのキーボードは後に作編曲家としてヒット曲を出す馬飼野康二でした(当時の芸名は馬飼野睦)。

ちなみに山下達郎もシュガー・ベイブ結成以前はもともとドラマーでした。自主制作アルバム『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』ではドラムを叩いています。

山下:ドラムはマシーンだけど、ドラムのおかずは自分で叩いていますけどね。僕はもともとドラマーなので。

(引用者註:『SOFTLY』収録曲「YOU」についてのコメント)

https://news.audee.jp/news/3t1ezQRc6e.html

ブルー・シャルムは1969~70年にシングルを4枚リリースしています。

  • ブルー・シャルム

    • 抱きしめたくて/トウキョウ・アフターダーク(1969年)

    • ハイウェーラブ/ひとりぼっちの並木道(1969年)

    • ふたりのシーズン/愛する人へ(1969年)

    • 風の旅/青いしぶきの弥八島(1970年)

小杉理宇造はロックがやりたかったのにデビューシングル「抱きしめたくて」はムード歌謡でした。自分たちで作詞作曲編曲ができるのに作詞家/作曲家が作った曲を歌わされます。クリエイティビティ(創造性)が発揮できない状況に小杉理宇造は失望します。

興味深いのが3枚目のシングルでザ・ゾンビーズ「ふたりのシーズン」をカバーしていることです。

山下達郎は10代の頃に聴いて感動した3大シングルの1枚としてザ・ゾンビーズ「テル・ハー・ノー」を挙げています。

「ふたりのシーズン」をカバーしたのが誰の発案なのかわかりませんが、小杉理宇造と山下達郎の音楽の趣味が近かったことを思わせるエピソードです。

小杉理宇造はバンド解散後、1年間アルバイト生活をしたあと渡米し、1年8ヶ月間アメリカで英語を学び人脈を作ります。日本に帰国し1973年に日音に入社します。日本のロックを手掛けたかったものの洋楽部門に配属されます。小杉理宇造は日音で2年間働いたあと、1975年にRCAレコード(RVC株式会社)に入社します。

小杉理宇造と山下達郎

小杉理宇造が山下達郎と出会ったのは、牧村憲一の紹介でシュガー・ベイブの解散コンサートを見たときです。シュガー・ベイブの解散コンサートは1976年の春に荻窪ロフトで行われました。

達郎さんとの出会いは、RCAですね。僕はRCAでロックをやりたいと思ったときに、僕はまだなにもわかってなかったから、まず二人の人間に会いに行ったんです。(中略)それからもう一人は今ポリスターにいる牧村さん(憲一氏。現(株)ポリスター専務)。竹内まりやとか山下達郎とか、センチメンタルシティーロマンスとか、そういったいわゆるポップ系を一手にやってた人なんですよね。(中略)牧村さんにもあるアーティストを紹介してもらうことになったんです。それで牧村さんと荻窪ロフトのシュガーベイブ解散コンサートに行ったんですよ。山下君を見たのはそれが初めてで、ものすごく感動したんです。牧村さんは他のアーティストを紹介してくれるって言ってくれたんだけど、僕はシュガーベイブを見て、山下達郎はすごい、ぜひやりたいと思ったんです。

https://www.musicman.co.jp/interview/19480

山下達郎がソロデビューするにあたりレコード会社はCBSソニーに決まりかけていたのですが、小杉理宇造が山下達郎を手掛けたいと話を持ちかけます。そのときに山下達郎は(フォー・シーズンズの編曲やローラ・ニーロのプロデュース/編曲で知られる)チャーリー・カレロとニューヨークで録音ができるならRCAレコードと契約してもいいという条件を出しました。小杉理宇造は持ち前の英語力を駆使しチャーリー・カレロとのニューヨーク録音をセッティングします。

彼はその時もうほとんどソニーと契約決まってたんです。でも正式にはしてないらしい。だったらとにかく本人に会いたい、と伝えてもらって、山下君が吉田美奈子のインタビューのときにRCAに遊びに来てくれたんです。それで二人きりになって「君をやりたいんだけど」って申し出たんです。でも最初はなんか理屈っぽいことをいろいろ言ってたんですよ。でも話しているうちに、ニューヨークレコーディングをやりたいから、そのお膳立てをしてくれたらやってもいいって事になったんですよ。それから自分のフェイバリットプロデューサーは、チャーリー・カレロで、ベーシストはウィル・リーで、ギターは誰、サックスは誰、ドラムは、と全部指定するんです。僕は全然知らなかったけど、これを用意したらやってくれるっていう答案用紙が出てきちゃったんだから、それをすればいいんだ、じゃあ楽だなと思ったんですよ。

https://www.musicman.co.jp/interview/19480

1976年にリリースされた山下達郎の1stソロアルバム『CIRCUS TOWN』はRCAレコードからリリースされました。予算の都合でニューヨークとロサンゼルスの2ヶ所で録音されました。

ただ当時ニューヨーク(でのレコーディング)はあまりにも高すぎたんです。フジパシフィック音楽出版が予算を持っていて、相当な予算をもらってるんだけど、それでもニューヨークで一枚のアルバムを作るのは無理なんですよ。結局4、5,000万ぐらいはかかっちゃったのかな。1枚作るのにね。それでニューヨークでのレコーディングは半分以下の楽曲数にして、あとをどうしようかと考えたんですよ。ロサンジェルスに行けば、僕が日音時代に東京音楽祭とかで知り合ったミュージシャンがたくさんいるからなんとかなるかもしれない。そう考えて山下君に話したんです。「ニューヨークでは予算の都合でできないからロスでやろう」って。そうしたら山下君が「じゃあ小杉さんはロスのどんな方と知り合いなんですか」って言うからジョン・サイター&ジミー・サイターのサイター兄弟、当時タートルズにいたんですけど、彼らと仲良かったんですよ。イクイノックス・ファミリーっていうテリー・メルチャーとかデビッド・キャシディとかをやってた集団がいて、山下君が彼らの大ファンだったんですよ。そいつらを俺はタダで使えるなぁ、ってことになったんです。それでロサンジェルスに行ったんです。僕もそんなすごいとは知らなかったんだけど、友達だったジョン・サイターはラヴィン・スプーンフルとかフィフス・アベニューバンドとか、山下君が好きなバンドの連中をみんな集められちゃうんですよ。山下君はびっくりですよ。すごいって大感動ですよ。

https://www.musicman.co.jp/interview/19480

デビューアルバムのニューヨーク録音でチャーリー・カレロと話したことが山下達郎の価値観を変えました。

シュガー・ベイブの時は、オールド・ポップスが最高と思ってたし、アメリカへ行かなかったら、今でもそうだったと思う。それがプロデューサーのチャーリー・カレロに会って、彼が僕の好きなミュージシャンを聞くんで、何人かの名前をあげたらね、彼がいうには「そいつらは67年には一流だった。でもオレは今も生きている」っていうのね。それで、ガツンと価値観が変わっちゃった。ノスタルジアじゃなくて、生きてる音楽の中で勝負しなくちゃ駄目だ。そうでなければ、音楽を聞いたことのない若い世代に対する説得力はないんじゃないかってね。

『宝島』1982年5月号

山下達郎はニューヨーク録音の際に、チャーリー・カレロにスコア(譜面)をもらったことが勉強になったと語っています。

僕の場合、ソロ初作の『CIRCUS TOWN(サーカス・タウン)』のアレンジャーだったチャーリー・カレロが、なぜかスコアをくれた。本来くれないはずのものなのに、なんか気に入られたみたいで。あれはどんな教則本より実践的な参考書でした。自分のレコードになってるんだから、かけがえがない。

https://bunshun.jp/articles/-/58453

山下達郎は1982年4月に発売されたシングル「あまく危険な香り」を最後にRCAレコードを離れ、ムーン・レコードに移籍します。

これは小杉理宇造がRCAレコード(RVC株式会社)から独立しアルファ・ムーン株式会社を設立するのに伴っての移籍でした。

もともと小杉理宇造は独立にあたって山下達郎を連れて行くつもりはありませんでした。当時ポニー・キャニオンレコード社長だった羽佐間重彰に「山下はお前が必要なんだよ!お前には山下が必要なんだ」と言われたことで、山下達郎も一緒に移籍することになりました。

RCAをやめるときにね、フジサンケイグループの羽佐間さん(重彰氏)に呼ばれたんですよ。当時ポニーキャニオンの社長だったんですけど、けっこう可愛がっていただいていたので…料亭か何かに呼び出されたんですよ。「やめるという話を聞いたんだけど…やめるのか」「はい」「近藤真彦はどうするんだ」「いや、僕は達郎にも声をかけていません。僕がやめるのであって、タレントを連れて行くことは全く考えてません」と答えたんです。(中略)「じゃあ山下達郎はどうするんだ」「達郎も連れて行く気はありません」「バカ野郎!山下はお前が必要なんだよ!お前には山下が必要なんだ。なんだお前、味噌もクソも一緒に考えやがって、そのくらいちゃんと考えろ!」って言われて「わかりました」って。

https://www.musicman.co.jp/interview/19480

1990年にアルファ・ムーン株式会社はワーナー・ミュージック・グループ傘下になります。アルファ・ムーン株式会社はエム・エム・ジー株式会社、そしてイーストウエスト・ジャパンと社名が変わります。

1997年まで山下達郎はイーストウエスト・ジャパンの役員でした。

88年にムーンレーベルをワーナーが買収した後、僕が役員をやっていたイーストウエストは1997年になるまで制作部長っていうポストが無かったんです。それは僕のために残ってた。つまり僕は、最終的にこの会社の制作統括をする事になってたんです。そういう意味で、レコード会社の制作エグゼクティブとしては僕はプロフェッショナルだという自覚はしています。販促的、営業的な問題とか、そういう知識もある程度ありますし、若い頃ディーラーコンベンションをやっていたのは伊達ではない。でも97年にソニーから大挙してエグゼクティブが入ってきたので、役員はクビになって、ただのミュージシャンに戻ったんですよ。

http://www.hmv.co.jp/news/article/1208200027/

小杉理宇造は1995年にワーナーミュージック・ジャパン代表取締役会長に就任し、2002年まで会長職をつとめました。

【追記】小杉理宇造がワーナーミュージック・ジャパン会長を務めたのは1993年から1997年とのご指摘をいただきました。訂正いたします。

ワーナーミュージックグループは日本での事業体制を一部見直す。ワーナーミュージック・ジャパン(WMJ、東京・港、折田育造社長)に製作部門として「WEA JAPAN」を新設、折田社長が責任者となる。また、エム・エム・ジー(MMG)の小杉理宇造社長がWMJの会長に就任、営業部門も統括する。

https://www.nikkei.com/compass/content/NIRKDB19930929NSS0075/preview

山下達郎にとって小杉理宇造はソロデビュー当時から約40年間に渡りビジネスパートナーでした。また、1stアルバム『CIRCUS TOWN』のニューヨーク録音とロサンゼルス録音を実現してくれた恩人でもあります。

そしてスマイルカンパニーの現社長は小杉理宇造の息子の小杉周水です。小杉理宇造がスマイルカンパニー社長ではなくなった現在も、息子を通じてスマイルカンパニーに影響力を持っていたとしてもおかしくありません。

【追記】週刊文春の記事が正しければ、小杉理宇造は今もスマイルカンパニーに影響力を持っているようです。

今年3月、英BBCがジャニー氏の性加害を報道すると、松尾氏が『日刊ゲンダイ』の連載でこの問題に言及。さらに5月14日、藤島ジュリー景子社長が動画と文書で釈明をした際には、〈まずは記者会見を。(中略)ジュリーさん、これを機に膿を出しきりませんか〉とツイートした。19日の連載では先のツイートを掲載、〈今日も気分が悪い!〉と締めくくった。

「この発言が小杉理宇造元社長の耳に入った。山下さんも不快に思っていたと聞きました」(業界関係者)

そして6月2日、スマイルで全体会議が行われた。

「社長が『小杉家と山下家と藤島家は義理人情で長年繋がっている。わが社もジャニーズシンパだということを忘れないように』という趣旨の発言をした。その日、社長が松尾さんに契約解除を伝えたようです」(事務所関係者)

https://bunshun.jp/articles/-/64130

小杉理宇造とジャニーズ事務所

小杉理宇造はRCAレコードに入社してすぐ、ロビー和田(和田良知)のアシスタントを1年ほどしていました。このときにリトル・ギャングというジャニーズ所属の2人組アイドルに関わっっています。これが小杉理宇造とジャニーズ事務所との最初のつながりです。

もともとRCAに入ったときは、まず1年間ロビー和田さんていう人のアシスタントをやってたんです。美樹克彦さんとか、韓国の女の子とか森田健作さんとか…ほかにも売れなかった物も含めていろいろやりましたけど、その中のひとつがジャニーさんのところのグループ(リトル・ギャング)だったんです。

https://www.musicman.co.jp/interview/19480

リトル・ギャングの活動期間は1975年から1976年ですから、小杉理宇造がジャニーズ事務所と関わりを持ちはじめた時期は山下達郎と知り合った時期とほぼ同じです。

その後どういった経緯があったか詳しくはわかりませんが、小杉理宇造はRCAレコードで近藤真彦のディレクターをしています。その頃、山下達郎が近藤真彦にヒット曲「ハイティーン・ブギ」をはじめ5曲の楽曲を提供しています。

  • 近藤真彦

    • 恋のNON STOPツーリング・ロード(1981年9月)

    • ハイティーン・ブギ(1982年6月)

    • MOMOKO(1982年6月)

    • 永遠に秘密さ(1984年9月)

    • One more time(1984年9月)

ちなみにシングル「永遠に秘密さ」のカップリング曲「One more time」の編曲は山下達郎と馬飼野康二がクレジットされています。先述したとおり馬飼野康二は小杉理宇造とブルー・シャルムでバンドメイトでした。

「One more time」はCMタイアップ用に提出したものの採用されなかった「RIDE ON TIME」の詞・曲違い別バージョンをもとに作られました。

ちなみに「RIDE ON TIME」の詞・曲違い別バージョンは2002年に発売された『THE RCA/AIR YEARS LP BOX 1976-1982』のボーナス・ディスクで初めて公式に商品化されました。

山下達郎は『宝島』1982年5月号掲載のインタビューで「僕はアイドルのプロデュースはやらない」と断言していました。なぜなら芸能界のシステムというのは「10代の前半から一日数時間の睡眠で働かして、何年かでその人生を消耗させてしまう、しかもそれで金をもうけていく」ものであり「そういうシステムに加担したくないから」です。

62~63年のアメリカの白人音楽は確かに素晴らしいけれども、世界としては、今の松田聖子と同じっていうこと。だから、いいっていう人と嫌だっていう人といると思うけれども、僕は後者でね。もともと、芸能界みたいのは嫌いだったし……。若いアイドルっているでしょ。でも、彼らも60、70まで生きてく人間なわけだよね。それを10代の前半から一日数時間の睡眠で働かして、何年かでその人生を消耗させてしまう、しかもそれで金をもうけていくっていう芸能界のシステムっていうのを僕は容認できないのね。オールド・ポップスの世界もまったく同じで、音楽の凄さとそのシステムのひどさの両極を持ってる。だから、軽々しくグッド・オールド・デイズみたいなことを僕はいえないし、例えばプロデューサーとしてフィル・スペクターを尊敬するかっていったら、僕はしない。音楽は凄まじいけれども、彼はアーティストの生きている人間の姿を必要としなかった人だから……。今、プロデュースの依頼は沢山くるんだけれども、僕はアイドルのプロデュースはやらない。そういうシステムに加担したくないからね。

『宝島』1982年5月号

当時、芸能界の搾取構造に強い嫌悪感を抱いていた山下達郎が近藤真彦に楽曲を提供したのは、小杉理宇造が近藤真彦のディレクターだったからでしょう。

1997年に株式会社ジャニーズ・エンタテイメントが設立されます。もともとはKinKi Kidsのデビューのために設立された会社でした。この時期、ジャニーズ・エンタテイメントの社長は藤島ジュリー景子で、小杉理宇造は音楽アドバイザーとして関わっています。

KinKi Kidsのデビューシングル「硝子の少年」は山下達郎が作編曲を手掛けました。小杉理宇造が音楽アドバイザーとして関わっていたから山下達郎がデビュー曲を担当することになったのでしょう。

  • KinKi Kids

    • 「Kissから始まるミステリー」(1997年)

    • 「硝子の少年」(1997年)

    • 「ジェットコースター・ロマンス」(1998年)

    • 「Happy Happy Greeting」(1998年)

近藤真彦への楽曲提供以降しばらくはジャニーズ事務所と距離を置いていた山下達郎でしたが、KinKi Kidsへの楽曲提供のあと少年隊、NEWS、嵐、木村拓哉とジャニーズ事務所所属タレントへの楽曲提供の数が増え、ジャニーズ事務所と親密になっていきます。

小杉理宇造は2003年に株式会社ジャニーズ・エンタテイメントの社長に就任します。

2005年に森光子「月夜のタンゴ」が株式会社ジャニーズ・エンタテイメントからリリースされます。この曲は作詞:竹内まりや、作曲:山下達郎によるものです。「月夜のタンゴ」は森光子が東山紀之と共演する舞台「ツキコの月 そして、タンゴ」の主題歌でした。

2019年にジャニーズ・エンタテイメントはジェイ・ストームと経営統合します。ジャニーズ・エンタテイメントは会社としては存在しなくなりジェイ・ストーム内のレーベルのひとつとなりました。

小杉理宇造の黒い噂

小杉理宇造にはいくつかの黒い噂があります。

近藤真彦と中森明菜の件やSMAPの解散騒動の裏で暗躍していたというものです。もちろんあくまで噂でありどこまで信憑性があるのかわかりません。

井上陽水「少年時代」や松田聖子「瑠璃色の地球」を作曲したことで知られる平井夏美こと川原伸司の著書『ジョージ・マーティンになりたくて~プロデューサー川原伸司、素顔の仕事録~』にはこう書かれています。

中森明菜さんが自殺未遂騒動を起こし、事務所の研音をやめた状態だったんです。そうしたらジャニーズのメリーさんがスマイルカンパニーの小杉理宇造さんに「明菜をなんとかしなさい」と伝えて、彼の部下だった中山益孝くんにその話が行って。中山くんはその昔RCAにいて、竹内まりやさんとか山下達郎くんをマネージメントしているスマイルカンパニーの代表も一時期やりつつ、明菜さんの事務所の社長でもあったんです。

『ジョージ・マーティンになりたくて~プロデューサー川原伸司、素顔の仕事録~』

元『週刊文春』記者で現在フリージャーナリストである西﨑伸彦が書いた『中森明菜 消えた歌姫』の一部が「文春オンライン」に掲載されています。

メリーから事態の収拾を頼まれた小杉(※)は、かつてRVC時代に宣伝にいた中山益孝に白羽の矢を立てた。

中山は原宿のショップで働いていたところを小杉から誘われてRVCの宣伝マンとして入社した。小杉が代表を務める音楽プロダクションでも働き、弟分的な存在だった。ただ、マネジメント経験が豊富だった訳ではない。

新事務所は「コレクション」と名付けられ、社長には中山が就いた。取締役には明菜やワーナーの山本徳源社長も名を連ね、資本金3000万円の大半はワーナーが用立てた。

明菜は小杉のサポートを期待していたが、小杉は役員には入らなかった。その後ろに控えていたメリーは、あくまでもジャニーズ事務所の副社長として、窮地に追い込まれた近藤の芸能活動を守ることを最優先に考えて動いた。

※小杉理宇造:近藤の初期のヒット曲を手掛けたRVCレコードの元担当ディレクター

https://bunshun.jp/articles/-/62525?page=2

メリー喜多川の指示で小杉理宇造が中森明菜の新事務所設立に動いたことは事実のようです。

これらの騒動に小杉理宇造がどのような形でどれだけ関わっていたのか。それが噂されているような悪質なものだったのか。本当のところは内部にいた関係者にしかわかりません。

小杉理宇造はインタビューで「僕はジャニーさん、メリーさんという人間が大好きで、この人たちが僕を必要としている限りはお役にたちたい」と語っています。

ジャニーズグループのスーパーバイザーみたいなことをやってるけど、僕はジャニーさん、メリーさんという人間が大好きで、この人たちが僕を必要としている限りはお役にたちたい、ただそれだけです。だから目標はもうふたつしかない。達郎、まりやが続ける限りは手助けしたいということ、ジャニーさんメリーさんに必要とされる間はお手伝いしたい、このふたつなんです。

https://www.musicman.co.jp/interview/19480

もしかしたらジャニーズ事務所にトラブルが起きたときに、小杉理宇造はそのトラブルを解決する役目を担っていたのかもしれません。

ですから、もし小杉理宇造がジャニー喜多川による性加害を知っていたとしても私は驚きません。

小杉周水とは

小杉周水は1997年にcannaというユニットを結成します。メンバーはボーカルの谷中たかしとキーボードの周水の2人組でした。

1999年2月にシングル「紙ひこうき」でソニーミュージックからメジャーデビューします。1999年11月に発売された4thシングル「風の向くまま」は、当時ジャニーズ事務所に所属していた草なぎ剛主演のテレビドラマ「TEAM」の主題歌になります。

2000年7月にcannaは「TOKYO FM 開局30周年記念イヴェント」で武道館のステージに立ちます。出演は他にシング・ライク・トーキングと竹内まりやでした。山下達郎も竹内まりやのバンドとして武道館のステージに立っています。このイベントの主催はTOKYO FMですが企画としてスマイルカンパニーが関わっていました。

cannaはソニーミュージック時代にシングル8枚、ミニアルバム2枚、アルバム2枚をリリースし、2003年に活動休止しました。

cannaは2011年に活動再開し、2017年頃まで活動していたようです。

2017年は小杉理宇造がスマイルカンパニーとスマイル音楽出版の社長を退任し小杉周水がスマイル音楽出版の社長となった年です。2022年に小杉周水はスマイルカンパニーの社長も兼務するようになります。

小杉周水はcannaとして、またshusui名義でジャニーズ所属アイドルに多数の楽曲を提供をしています。

  • 近藤真彦

  • SMAP

  • KinKi Kids

  • タッキー&翼

  • NEWS

  • KAT-TUN

  • テゴマス

  • 山下智久

  • 修二と彰

  • GYM

  • GOLF&MIKE

  • Hey! Say! JUMP

  • NYC

  • 滝沢秀明

  • 中山優馬

  • ジャニーズWEST

  • Sexy Zone

  • Kis-My-Ft2

  • ABC-Z

  • King & Prince

有名な曲だとKinKi Kids「青の時代」や修二と彰「青春アミーゴ」は小杉周水が手掛けた楽曲です。

山下達郎とジャニーズ事務所

ここまで読んでいただければわかるように、山下達郎とジャニーズ事務所は単に楽曲を提供した以上の深いつながりがあります。

山下達郎は自身のラジオ番組「サンデー・ソングブック」で2020年7月5日、7月12日と2週にわたり「初代ジャニーズの洋楽アプローチとアメリカ進出計画」という特集をしています。

もともとは芸能界の搾取構造に強い嫌悪感を持っていた山下達郎が、後にジャニーズ事務所と親密な関係になったのは、ビジネスパートナーである小杉理宇造の影響によるものだったことは想像に難くありません。

山下達郎がジャニーズ事務所やジャニー喜多川の肩を持つのか持たないのかということは、単なる芸能界での権力構造や、楽曲提供でお金が稼げるからだけではなく、長年のビジネスパートナーであった小杉理宇造と現スマイルカンパニー社長であり小杉理宇造の長男の小杉周水との関係を守るのか守らないのかということになります。

「心は売っても魂は売らない」

山下達郎の言葉に「心は売っても魂は売らない」という言葉があります。

「心は売っても、魂は売らない」それが、この商売の根幹なの。すべての芸能、すべてのコマーシャリズムというのは、心のどこかのパートを売らなければならない。問題はその中でいかに音楽をつくる上でのパッションや真実をキープできるか。ただの奴隷ではなくて。モノを作るというのは、常にそういう問いかけがある。

『クイック・ジャパン vol.062』(太田出版)

心を売るとは具体的にどういうことなのでしょうか。この言葉を私なりに考えてみました。

アイドルへの提供曲やタイアップなどの案件では、1人の音楽家より遥かに大きな芸能界や大企業とやりとりをしないといけません。そこには1人の音楽家には簡単に太刀打ちできないような複雑で理不尽な「しがらみ」があります。

もしかしたら長いものに巻かれたり、権力におもねったり、見て見ぬふりをすることが求められたかもしれません。そんなときに心を売ったのではないかと私は想像します。

では、魂は売らないという言葉は何を表すのか。それは1人の音楽家として音楽にだけは正直であり嘘をつかないこと。手抜きをせず理想の音楽を作ることではないでしょうか。

山下達郎は理想の音楽を作るという音楽家の魂のためなら、ときに人間としての良心を売ったことがあるのかもしれません。

ジャニー喜多川の性加害

ジャニー喜多川の性加害は1980年代から繰り返し告発されてきましたが、ジャニーズ事務所の強い影響力によってもみ消されてきました。

ジャニーズ事務所の影響力が強いテレビや新聞・雑誌などはほとんど言及することはありませんでした。例外といえるのは『週刊文春』が1999年に書いた「ホモセクハラ追及キャンペーン」ぐらいでしょう。

ジャニー喜多川の性加害の問題点は大きく2つに分けられます。

  1. 1人の性加害者が地位と権力を利用して、長年に渡り未成年を含む多くの被害者に性加害を繰り返したこと。

  2. 芸能界とマスメディアが(積極的にジャニー喜多川の性加害を擁護しなくとも)被害者の告発を黙殺することで問題を長期化させたこと。

ですから、加害者であるジャニー喜多川が亡くなったとしても、芸能界とマスメディアが変わらなければ同じような問題が繰り返される可能性があります。

ジャニー喜多川が亡くなったことでジャニーズ事務所の影響力は弱体化しました。そして2023年3月にBBCのドキュメンタリー「Predator: The Secret Scandal of J-Pop」が放送されたことをきっかけに、少しずつ日本のメディアでも報道されるようになりました。

山下達郎はジャニーズに曲提供していただけでなく、ジャニーズ事務所と深い関係だから何らかのコメントを出すべきという山下達郎ファンもいましたが、それは現実的ではありませんでした。

山下達郎はジャニー喜多川の性加害に直接的にも間接的にも関わっていたという情報はありません。つまりファン以外からコメントを求められる状況ではありませんでした。

ジャニーズ事務所を批判すれば山下達郎にとってビジネスパートナーであった小杉理宇造や、スマイルカンパニー社長の小杉周水と対立する可能性があります。ジャニーズ事務所を擁護すれば性加害者の味方をするのかと世間からバッシングされる可能性があります。

ジャニー喜多川の性加害についてコメントをするのは、やぶ蛇を踏みかねない火中の栗を拾うようなものだったのです。

ですが、松尾潔がツイートしたスマイルカンパニーを中途で契約が終了になった件は、ジャニー喜多川の性加害とは大きく異なり山下達郎が直接的にせよ間接的にせよ明確に関わっている騒動です。

もともと山下達郎のマネージメントのために作られたスマイルカンパニーで起きた騒動ですし、松尾潔もツイートで山下達郎を名指ししています。そもそも松尾潔をスマイルカンパニーに引き入れたのは山下達郎です。

まずは松尾潔がツイートした内容が事実なのか、株式会社スマイルカンパニーはステイトメント(声明文)を出すべきでしょう。

【追記】スマイルカンパニーの公式ホームページにてスマイルカンパニー社長 小杉周水の名で声明文が出されました。

今回の件で山下達郎がどう立ち回るのか、松尾潔と直接話し合うのか、世間やファンに何らかのコメントを出すのか、無視を決めて炎上が沈静化するのを待つのか。それはわかりません。

【追記】2023年7月9日放送の「サンデー・ソングブック」で山下達郎が自らの言葉でコメントを出すそうです。

7月9日放送の『サンデー・ソングブック』にて、山下達郎が大切なコメントを発表します。

一部週刊誌やインターネット上で拡散されております、松尾潔氏の弊社業務提携終了に関するTwitterの件につきまして、今週日曜日(7/9)14時からTOKYO FMとJFN(全国38局ネット)で放送されます『山下達郎 サンデー・ソングブック』内にて、山下達郎本人より大切なご報告がございます。

https://www.tatsuro.co.jp/news/#news-000232

山下達郎がライブのMCやインタビューで語った「お互い、かっこよく年を取っていきましょう」や「ポップカルチャーとは基本的に大衆への奉仕と人間が生きることに対する肯定」といった言葉は、上辺だけの言葉だったのでしょうか。

ファンは山下達郎が今回の件で何を語るのか、そして何を語らないのか見ています。

参考ホームページ