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名前

露骨な表現があります。
苦手な方はご遠慮ください。

フィクションです。
ぼくは元気です。


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名前



男は友達だった。わたしは、よく男の家に泊まった。共に酒を飲み、共にたばこを吸った。


うつ病由来の憂鬱がずっしり心に溜まり、とても不安で寂しくなる。虚無だ。それはぽっかりと浮かぶブラックホールのようでいる。男との時間は、そんなブラックホールを埋めれる数少ない時間だった。


毎回、スキンシップとしてハグをした。

「なにするの?ちょっと暑いから離れてよぉ」

男は毎回、暑さを理由にした。

「寂しいけん、抱っこしといてもいいでしょ?」

わたしは毎回、寂しさを理由にした。

泊まる度にスキンシップをした。

そして今日、男の性器に手をあてた。

「ねー、やめて」

と困ったように男は硬くなったそれを自分の手で押さえた。

「勃ってるじゃん」

わたしは弱みを握るように男の性器を握った。

「キモいー!」


ありのままの自分を生きるたびに

皆が求める自分と自分が求める自分は

解離していく


 皆が求める自分とは「普通」の人間であり、自分が求める自分とは「一言ではまとめられない存在」である。「わたし」でしかない自分である。自分の名前でしか形容できない人間になりたいと願っていた。しかしながら、それは叶わないのだ。結局「ヤバい」とか安っぽい言葉が「わたし」にあてはめられる。わたしは男も好きで女も好きでカワイイものもカッコイイものも好きで、泣いて笑って、役立たずで、そういう「ヤバい」人間でしかないのだ。なんであの時死ななかったんだろうといつも問いかけて、生きてたから会えたんじゃんって言われて、そんなのわかってるのに。

 バイトをはじめる、そのたびに高校が変わったのは何かありました?と言われて正直に答えると落とされて、隠して受かれば、なんで面接の時に言わなかったのかと腫れ物のようにあつかわれる。学生とはモラトリアム期間である。そのモラトリアム期間においてさえ、うまく渡り歩けずにいて不安しかない。そんな世の中を嫌厭している。「普通」なんて言葉が大嫌いだ。そう言いながら、世の中ではなく、自分のことが大嫌いなんだとおもう。

 男を好きになって。抱いて。拒否されて。行為とは表現だ。抱くとは愛情表現だ。それを拒否された。愛情を拒否された。それは自分の存在を拒否されたに等しい。女を好きになって抱いたときは拒否なんてなかったのに。なんで、自分は男も好きになるんだろう。当たり前のことだと思っていた。カワイイものもカッコイイものも魅力的でしかないし、女を好きになる、男を好きになる、ではなく人柄や人間を好きになるのではないか。そう考える「わたし」は「ヤバい」んである。おかしいヤツなんである。普通ではないんである。そもそも普通にしなくてはいけない理由がわからない。それに皆にとっての普通と、自分にとっての普通はちがうのである。ありのままの自分なんてのが、わからない。自分の地点を中心にしてコンパスで円を描いた。敵はいない。見方もいない。円を出れば敵がいる。見方もいる。勇気を出して円を出た。なんども転んだけど、諦めずに円の外を目指した。見方はいたけど、敵にコテンパンにやられたのが痛い。耐えきれずに円のなかに引きこもった。もう、円の外に出る勇気なんてない。


自分が求める自分とは「普通」の自分である。


男はわたしを見て

「バッド入ってんなぁ。大丈夫?」

と言った。たしかに大変な憂鬱だったが、それは愛情を表現することを拒否されたことに起因する。男はわたしを見ず、わたしの中の病的なものを見ているのだ。「友達」であるはずの男でさえそうだ。他の人においておや。家族や親にさえ本当の自分をさらけ出せない。いまさら何がなんだかわからない。

しかしながら、これだけは確かだ。男が悪いわけでもその他の友達が悪いわけでもなく、家族も先生も悪くない。自分も悪くない。こうなるよりほかなかったのだ。誰も悪くない。繰り返す。誰も悪くない。こうなるよりほかなかったのだ。


こんどこそ死にきりたい。

そしてわたしが死んだことは関係のないひとにとって、情報としてしか耳に入らず、関係のある人にはただ単にかなしいこととして耳に入るだろう。そのことも、全部含めて、わたしは生きるのをやめる。どうかわたしの不孝を許してください、と皆に言いながら、生きるのをやめる。とても感謝していることを伝えながら生きるのをやめる。


2023.7.27

於 男の部屋の隅の隅

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