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時間は存在してなくて「今ここ」の話

時間は概念だよ、という話


「時間というものは存在していなくて概念にすぎない」っていう話を聞いたのは、たしか『神との対話』を読んだときだったと思う。まあこの本、色々と衝撃的だったから理解するのに時間がかかった。

だって、時系列とか時間軸とかいう言葉があるでしょう。

時間はあるんじゃない?私は生まれて数十年経過してるけど?その間にいろんなことがあったけど?

幼稚園行って小中高とでてインテリアの学校に行って就職して、ちゃんと過去があるよ。

学校で歴史も習ったよ。いい国作ろう鎌倉幕府はいい国じゃないんだよね。ブッダが生まれたあと、イエスが生まれて西暦ができたよね。

6600万年まえ恐竜が滅びたよね。ユカタン半島に巨大隕石が落ちたって。今もクレーターあとが残ってるよ。

75年前は戦争があったよね。そのころのエピソードを親から聞いたよ。

時計を見ればコチコチ秒針が進んでいってるし、さっき焼きそば食べたし、昨日は10時にお風呂に入ったし、今日の12時からライブ配信みるつもりだし、来週は、来月は、来年はまだきてないけど時間だよね。

じゃ、バック・トゥ・ザ・フューチャーはどうなんだい、君の名はは?他にもあるよねタイムスリップもの。四次元解釈は?時間をかけるんじゃないっけ、じゃ相対性理論は?

『ある』と信じていたものが『ない』なんて。

どゆこと?これについては、しばらく『?????』になってました。でも、まさか、そんな、私の過去は?未来は未定だとしても過去が実績として残ってるでしょう。と思っておりました。

が。あるとき不意に「あ、ないね。時間。」と思うようになりました。あれだけ疑っていたのに、あるとき不意に納得したのでした。

その後もよくよく考えてみたら、やっぱりないんですよ。ある感じするし、時計もみるしカレンダーも見るんだけどねえ。

「今」「今ここ」確かにそれしかない。

いろんな本で、パラパラ漫画の例えが出てくるけど、パラパラ漫画って手元に漫画が残っちゃってるじゃん。だから例えとしては未完成な感じする。



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時間はストーリー上の設定


って自分で書いておきながらも「え、でも」とまだ思う。思いながら考察すると「やっぱりないな」になる。

そもそも人間が生まれてから死ぬまでにみる、自然の数々の変化やサイクルを見て、生活を向上させるために(主に農耕のため)発見したのが「時間という概念」だ。

以降、めちゃめちゃ便利に使わせてもらっている。子どもの頃から、あまりにも馴染んでいるため、空気同様、当然「ある」ものと思っていた。それに大好きなタイムスリップ、タイムトラベルものの物語だって、たくさん出てるし、どこかの研究所でタイムマシーンの研究してるって聞いたことあるしね。

でもそれは、やっぱり現象世界でのことで、しかも言葉と同じく便利なツールのひとつ。いや言葉なんでしょう、やはり。思考の小道具だと思う。

動物は時間を意識しない。地球にまだ残っている未開の地でも、時間の概念のない部族がいくつかあるという。

ということは「時間」はあるけど知らないだけってことではなくて、生きていくのにそんなに必要ないってことになる。

彼らは自然の一部なので(もちろん認識はしていない)自然の摂理に沿っているだけ。何時だから起きるとか食べるとか寝るとかではなくて、自分自身のサイクルが自然にあっただけだ。時間に合わせて何かしなければならないことなんてない。それが証拠に、みんなちゃんと生きている。

思考は自我そのものであって概念でもある。自分は『概念そのもの』で自我のシステム上の幻想だ。幻想なのにこんなにいろんなこと発明したり考えたりして、すごいな!

そして概念上の「時間」は、概念である自我を縛る。

何時に起きて、何時に食べて、何時に仕事に行って、何時に寝て。先週の予定、今週の予定、来週の予定、、、。何歳になったらあれしてこれして。適齢期に結婚して子ども産んで、マイホーム持つなら持って、何年ローン組んで、何歳で定年して「老後」になって、何歳くらいで死んで。

こうあらねばならない、こうあるべきだ、こうなるはずだ、という枠の中に縛り付ける。言葉と同じだ。

そして誰しも自分の人生(ストーリー)を良くしたいから、その時間枠でできるガイドラインに沿って生きる。自我は人生とはそういうもんだと思っている。

人生こそ時間だ。生まれてから死ぬまでの時間。自分の歴史。どう時間を使ってどう生きたか、またはこの先どう生きていくか。

時間枠の中で「ストーリー」を考えている。原因と結果がある人生のストーリー作りに埋没していく。

自己啓発や願望実現系では、未来創造をめざす。よりよい未来、よりよい人生。生まれたからには成功してやる、成功しろと刷り込まれる。あるいは「成功」という人間が決めた終着駅を目指しなさい、とありもしない駅をおしえられる。

その成功も時間の中。何歳で〇〇をおさめ、何歳で〇〇し、何歳で成功した。という感じでいつでも時間に追われている。

着いてみてもどこにも「成功」という駅名がないから、キョロキョロ探してると近所の人が出てきて「あ、その駅ならもっと先に引越ししましたよ」と言われて愕然とする、そんなイメージ。

おっと、話が脱線しかけてますね、電車なだけに。

では非二元でもスピリチュアルでも言う「今ここ」について。


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あるのは「今」だけど「今」はぜったい掴めない


過去のエピソードや将来の目標や不安という素材があると、自我はあっという間にストーリーを組み立ててしまう。

でもそれ、全部ただの記憶か妄想のエピソードです。

写真や動画に記録が残ってたとしても、エピソードのほんの一部を切り取っただけ。その時の感触や熱量やその場の雰囲気なんてのは伝わってこない。その瞬間でないと絶対にわからない。

しかも今「いま」といった後にはもう「今」はなくなってしまう。「いま」と言った言葉は「さっき」言った言葉になる。もう「今」ではない。そしてもう残っていない。絶対に捉えることができない。

過去に何があったかというのは、すべて頭の中で構成されたストーリーであって「今」にはない。もちもん未来も「今」にはない。

思考ですら瞬でいなくなる。そもそも思考は言葉だから同じこと。

「今」あるのは目の前に見えているもの。聞こえるもの手を伸ばして触れられるもの、身体が接触している感じ。それも瞬間ごとに変わっていく。

頭の中にあることも、現れてはいなくなる。どんどん流れていく。来ては去っていく、さよ〜ならぁ。。

人間の脳はよくできてるからさっき見たものを「記憶」できる。それでずっとあったかのように認識する。ちなみにこれは左脳の役割らしい。右脳はというと「今」しか認識できないらしい。

普段は左右の脳の連携らしい。右脳で「今」をみて左脳が「記憶」する。で、自我がそれを組み立ててストーリーを作るっていう連携プレー。そういうシステムなんだそうです。

となると「自我」は左脳とともに発達してきたのだろうか。

左脳は右脳にはなれない。そして私たちが使っている言葉や時間の概念も無かったことにはならない。

「空(くう)」「無意識」「潜在意識」は言葉を持たない。言語というのは限られている。その限られたボキャ数で「空(くう)」がどんなものなのか、教えてくれるのは言葉を使える自我なのだ。

本当に不思議です。


◆最近、ピエロや仮面やちょび髭のおっさんばかり書いていたので、たまには美しい女の人を描いてみようと「時」をモチーフに描いてみました。


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