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トーマの心臓 〜君にはわかっているはず〜



萩尾望都の代表作のひとつ「トーマの心臓」
この作品は1974年に少女コミックに連載された漫画。
今から50年近く前の少女漫画とは思えない文学的な作品です。

ドイツの寄宿制の男子校での生活の中で
それぞれの少年たちが抱える精神的な愛の物語です。

私が初めて読んだのは、確か小学低学年の頃。
たまたま家にあったので読んでいたのですが、あれから何十年。
今でも忘れられない物語のひとつです。

電子書籍で購入して、この間読み返したばかり。
ちょっとこの作品について思うところを綴ってみたくなりました。

あらすじは超ダイジェストですが、ネタバレありますので注意。


トーマからの手紙


物語はある少年が雪の中を歩くシーンから始まります。


萩尾望都「トーマの心臓」より


間近に春。
最後の雪の日に、少年はある決心をします。

彼は、そのまま静かに鉄橋から線路に飛び降ります。

何も残されていない、まだ13歳の少年の死に、人々は悲しみますが
鉄柵から足を滑らして転落したのだろうと事故として処理しました。

イースターの休暇の出来事でした。

黒い髪の委員長ユリスモールが学校に戻ると
トーマの死についての噂で学校中が大騒ぎでした。

トーマは穏やかで静かで美しい少年で、学校のアイドル的な存在でした。

ユリスモール(以下ユーリ)は冷静に「では次の礼拝は追悼だな」とそっけなく報告を聞きます。

髪をきちんと梳かし、制服も乱れなく、シャツのボタンも上まできっちりと留めている
冷静な優等生のユーリが部屋に戻ると、一通の手紙が机の上にありました。

トーマからの手紙。
彼は過去にもトーマから手紙をもらっていましたが、いつも読まずに捨てていました。
でも今回だけは、最後の手紙だから読んでやらなければ、と封を切ります。

そこに書かれていたのは、短い詩のような文章。

ユリスモールへ
最後に
これがぼくの愛
これがぼくの心臓の音
君にはわかっているはず
トーマの心臓より

ユーリの顔が青ざめます。
トーマは事故ではなく、自殺だったと知った瞬間です。

ユーリはトーマに愛されていたのを知っていました。

この短い手紙は、今でも暗記しています。
小学校低学年の頃に読んだ漫画なので、理解できないなりに幼い私の心に刺さりました。
何か、強くて大きくて確信めいた何か。

恋愛とも、恋愛ごっことも違う、家族や恋人との物理的な愛ではなく
もっと透き通った曖昧な何か。
きっと本人たちにもわかっていないのでしょう。
でも確実にそれを感じながら物語は進みます。


ユーリは「うんざりだ、こんなのは」といい
ひとりトーマの墓地にゆき、トーマの手紙を破り捨てます。

「これが僕の答えだ。君などには支配されない!」

吐きそうになりながら、墓地の木にもたれかかっていると
トーマにそっくりな少年が柵の向こうからこちらを見ています。

転校生エーリクとの出会いです。
でも性格は正反対、活発で感情をなんでも表に出してしまうエーリク。

ここから忘れるつもりのトーマを、いつもエーリクが思い出させます。
ユーリの憂鬱をさらに重くさせます。

こうして、ユーリの冷たく閉ざした心が溶けてゆくまで、トーマ不在のまま
本編が始まります。

これが僕の愛
これが僕の心臓の音
君にはわかっているはず

ユーリがこの詩の本当の意味を理解するまで。



感情を殺すユーリ、感情を解放するエーリク


墓地での二人の出会いが最悪だったので、お互いに苦手意識を持ったまま。

エーリクはユーリをお堅くて真面目で冷たい委員長として
ユーリはエーリクをトーマの面影として見ていて
なかなか仲良くなれずに距離を保っていました。

エーリクが転入してきた時から、ユーリと同室のオスカーだけは
何か起こるかも知れないと予感していました。
ユーリの閉ざした心を、もしかしたらエーリクが開いてくれるかも知れない、と。


ユーリは自分の心からトーマを追い出したかった。
トーマの表現した愛は自分を縛りつける重石でしかないないと思っていました。
そこにそっくりのエーリク。
アイドル的存在だったトーマの椅子に、そのまま座ったかのようなエーリク。

かつて、自分とトーマを巡って生徒たちが面白がったように
また、こんな茶番が始まると煩わしさにもうんざりしていました。

怒るなら怒る、笑うなら笑う、泣くなら泣く、好きなら好き、嫌いなら嫌い、
なんでもオープンなエーリクを見ていると、ユーリの心はもっと重くなります。

見ているのさえ、辛い状態。
ユーリの心の狂気に似た苦しみと葛藤が描かれます。


萩尾望都「トーマの心臓」より


自分に冷たく当たるユーリが、どうしてこんなに人望があるのかも理解できず
ひとりイライラするエーリク、暴れ出しそうな彼に時々、オスカーが仲裁に入ります。

本当の彼は、友達思いの優しい人だよ、と。

オスカーとユーリは同室で、舎監も兼ねていました。
が、ある夜ユーリが発作で過呼吸になっている時、オスカーが口移しで気道確保している所を、生徒に見られ「夜中にキスしてた」と吹聴されたのが原因で、オスカーは学校側から部屋替えを余儀なくされます。

代わりに入ったのが、エーリクでした。

部屋交代の話を聞いたエーリクは咄嗟に叫びます。
「嫌だ!殺される!」


萩尾望都「トーマの心臓」より


ある時、エーリクとユーリがフェンシングの試合中に剣のキャップがとび、ユーリの体操着の襟を開いてしまいます。

首元にはユーリが隠していたキズがありました。

一瞬、生徒たちがざわつきます。怪我をしたんじゃないのかと。
襟元を抑え、凍りつくユーリにオスカーがいいます。
「言ってやれ!そんなもの、ただの昔の火傷のあとだって!」

オスカーは知っている?
ユーリはショックを受け、気分が悪くなり自室に戻ると、
エーリクが試合のことを謝りに、見舞いに来ます。


トーマの顔をしたエーリクに、一瞬殺意が湧くユーリ。
衝動的に、エーリクの首を掴み、襲い掛かります。


「神さま…!!」
エーリクは咄嗟に叫びます。


萩尾望都「トーマの心臓」より
萩尾望都「トーマの心臓」より


「君は信じるの?救いなんてものを?」
「君の方が機敏だから、逆手にとって僕を殺せたのに」

「僕は自分で死のうと思ったことはあるよ、でも誰かが死ねばいいなんて思ったことはない!」
「君がそうしたいなら、そうすればいい、僕は無防備だし抵抗なんかしない」

するとユーリはそっと手を離します。
「キリストのセリフだ。“お前は行ってすべきことをすればいい“」

エーリクの言葉に一瞬だけ、ユーリの心が解けます。

キリストがユダの裏切りを知っていながら、行かせた時のことを引用しています。
難解なキリストの許しのセリフですね。
この後、磔刑になることを知った上でユダを行かせたのですから。

そんな一面を見せながら、教室では普通通りに優等生なユーリ。

もうこんなやつと同じ部屋は嫌だ!
替えてもらおう!とエーリクが飛び出した時に。母親からの手紙が届いていると知らされます。

待ちにまった母親からの手紙。
美しくて優しくて無邪気なママ、マリエ。
彼ば母親をマリエと呼び、誰よりも愛していました。
寄宿学校に転入したのも、再婚すると言った母親に反抗してのこと。

母親からは「お願い、戻ってきて、再婚しないから」という手紙が来ることを望んでいました。

でも待っていたのは、弁護士からの知らせ。

母親の事故死の知らせでした。


ユーリの慈悲、エーリクとの和解


ショックが大きすぎて、受け入れることができず自分を見失いかけているエーリク。

ユーリはエーリクに鎮静剤を飲ませて落ち着かせます。
エーリクが眠った後に、机に置いてあった手紙を読み、彼が荒れた理由を知ります。

もちろんユーリは、エーリクがどんなに母親を慕っていたかを知っています。

「かわいそうに」

泣き顔で眠っているエーリクの頭をそっと撫でるユーリ。



萩尾望都「トーマの心臓」より


ここでユーリの隠れてた心が表出します。

可哀相だ?
その優しい手はなんだ?
お前に優しくする資格があるのか?
お前に人を愛する資格があると思っているのか?

ユーリの心にブレーキをかける声。
自分で自分を抑えつける声が聞こえてきます。

自分にはもう、愛する資格も愛される資格もない。

自分の中で、見なかったことにしていた深い傷がえぐり出されるのを怖れ
光の化身のようなトーマや、嘘のないエーリクを見るたびに
もう天使の翼を持たない自分が醜く映り、苦しくなっていたのでした。

翌朝、エーリクは学校を抜け出します。

実家に帰ったのであろうと当たりをつけたユーリは、連れ戻すために彼を追いかけます。

母親のいない実家で想い出に浸りながら過ごしていたエーリクに弁護士が訪ねてきます。
「君にはまだ保護者が必要だ」と弁護士から、実の父親と、再婚するはずだった母親の最後の恋人と、二人の候補者がいる聞かされます。

そこにユーリが迎えに来ます。
学校に戻る列車の中で無口な二人でしたが、それでもいつもよりユーリはエーリクに気遣って優しく接していました。

列車の乗り換えを間違え、ユーリの実家に一泊することになった二人は
駅である男に出会います。
ユーリと男はお互いに青ざめて嫌な顔をしましたが
足早に立ち去ろうとするユーリに「楽しい晩だったな」と嫌味な声をかけます。

一瞬だけ、声を荒げるユーリでしたが、それ以外は常時穏やかなままでした。

ユーリの実家で、ユーリは祖母から不当な扱い(髪の色や目の色での差別)を受け
居場所のないことを知ったエーリクは、真夜中に泣きながらユーリの部屋を訪ねます。

「君が泣いているんじゃないかと思って」
「泣いているのは君の方だよ、どうしたの」

僕なら、あんなの耐えられないから…!
ユーリの代わりに泣きじゃくるエーリクに、また少しユーリの閉ざされた心が開きかけます。

「君は僕が嫌いなの?トーマに似てるから?」
「君、同情されるの嫌いだって言っていたけど、僕は好きだよ。だってそういう感情って優しいから」

泣きながら素直な心を伝えるエーリク。

萩尾望都「トーマの心臓」より



ユーリの冷たい委員長の仮面の下に、優しさを見つけたエーリクは、
ようやくユーリを見直し、二人は少しずつ距離を縮めます。

学校に戻ったある日、図書室で本の管理をしているユーリを訪ねたエーリクは
図書室で不穏な行動をとる下級生と上級生を見かけます。

盗癖のある下級生が持ち出そうとしていた本は難しそうな論文の分厚い本。
それを手に取ったエーリクは中から一編の詩を見つけます。

それはユーリへの恋慕。
ラブレターのような詩でした。


ぼくは ほぼ半年のあいだずっと考え続けていた

ぼくの生と死と
それからひとりの友人について

ぼくは成熟しただけの子どもだ ということはじゅうぶんわかっているし
だから この少年の時としての愛が

性もなく正体もわからないなにか透明なものへ向かって
投げだされるのだということも知っている

これは単純なカケなぞじゃない

それからほくが彼を愛したことが問題なのじゃない

彼がぼくを愛さねばならないのだ
どうしても

今 彼は死んでいるも同然だ
そして彼を生かすために
ぼくはほくのからだが打ちくずれるのなんかなんとも思わない

人は二度死ぬという
まず自己の死
そしてのち 友人に蒸れ去られることの死

それなら永遠に
ぼくには二度めの死はないのだ(彼は死んでもぼくを忘れまい)

ぞうして
ぼくはずっと生きている

彼の目の上に
萩尾望都「トーマの心臓」より


愛を信じない


「誰かがユーリに恋してる、死んでもいいくらいに」

気づいたエーリクは、後ろから図書室係も兼ねているユーリに声をかけられ
咄嗟に本に詩を挟み戻して、に無理やり本を借りていきます。

一体誰が、ユーリに恋を?あの下級生だろうか?

夜、舎監として見回りながら、エーリクはユーリに尋ねます。

「君、誰かから好きって言われたことある?」
「舎監の仕事とは関係ない質問だね」

「すごくだよ、死んでもいいくらい」
「じゃあ、君は?愛されたら愛し返さねばならない?」

「じゃあ、僕のことは?少しでも好き?」

エーリクは、ユーリに自分の気持ちを素直に打ち明けます。

このまま、エーリクを受け入れたら
また天使の翼をとりもどせるのだろうか。

自分自身を許すことができず、固く閉ざしていたユーリの心に
可能性という、小さな灯りをとりもどしかけた瞬間です。


萩尾望都「トーマの心臓」より


ユーリが階段を降りかけた(需要しかけた)とき
上階で物音が聞こえました。

下級生たちの部屋で騒ぎがあったようです。
二人が駆けつけた時、図書室にいた下級生が吊し上げを食らっていました。

生徒のひとりが腕時計がなくなったことを、その子のせいにしたのです。
以前から盗癖があるため、学校側からも注意されていた生徒です。
この生徒が盗んだことは明白でした。

ことを大きくする前に、ユーリはその生徒を礼拝堂に連れて行き
神の前で罪を告白すれば許してくださるよ、と優しくたしなめます。


「僕じゃないです」シラをきる生徒。
「全てを告白すれば、神様は許してくださるよ。神様はいつも君を見ている。そして愛しているよ」とユーリ。

「神様が許してくださるのはよい人間だけです。罪びとは救われない」
「人間はみんな罪びとなんだよ、だから良い人間になるために努力をしなければならない」

優しく説教するユーリ。

萩尾望都「トーマの心臓」より


盗んだ腕時計を受け取り、教師に届けるために立ち去るユーリ。

盗癖の生徒と二人になったエーリクは、尋ねます。
「君、ユーリのことが好きなんじゃないの、死んでもいいくらい」

「あれを書いたのはトーマですよ」

エーリクは、転入する前のユーリとトーマをめぐっての事情を知ります。
ショックを受けたエーリクは、ユーリを探し責めます。

「君、知ってたんだね、トーマが自殺したってこと」

ユーリのために死んでもいいくらい、好きだったトーマからのあの短い詩を墓の前で破り捨てたのは、なぜだ、と責めます。
「なぜ?」「なぜ?」と。

「なぜ?それならなぜ彼は僕を愛しているからと言って、自殺しなければならなかったんだ?」
「なぜ僕でなければならないんだ」
「あんなふうに自己を押し付けて死んで…結局彼は自分が可愛かっただけだ。
 愛してたなんて信じない!」
断言するユーリ。

死んでもいいほど愛していたトーマ、そんな大きな愛を信じないというユーリ。
二人は少し気まずい状態になります。

愛されること、愛することに何の抵抗もてらいもないエーリクには、どうしても
ユーリの冷たい態度は理解できないようです。

悶々と考えるエーリクはある日、ユーリの背中にある傷を見てしまいます。
傷を見られたユーリは警戒します。

また距離が深まる二人。

その時、エーリクの父親候補で母親の最後の恋人が会いに来ます。
君が彼女の子供だから引き取りたい、という母親への愛を貫くその男性に
エーリクはやっと心を開きます。

でもエーリクはもう少し学校に残りたいと言います。

「彼と行くんじゃなかったの」と言うユーリに
「君が好きだからここにいる。信じないと言ってももう怖くない、僕は君が好きなんだ」

吹っ切れたエーリクは再度、自分の気持ちをユーリに伝えます。



引きちぎられた翼

萩尾望都「トーマの心臓」より


思いが伝わらないエーリク、エーリクの思いを拒否するユーリ。
前以上に冷たい態度をとるようになりました。

もう泥沼の状態。
エーリクは彼の気を引きたくて、背中の傷のことまで持ち出します。

自分の言っていることがユーリを苦しめることになるのをわかっていながら
自分でもう止められません。

エーリクは彼の暗い影が気になりながらも、それ以前にあるもともとのユーリが好きだと言うことに改めて気づき始めます。

傷なんかどうだっていい、トーマのことももういい、僕がユーリを好きなだけだから。

萩尾望都「トーマの心臓」より


ある日、元同室のオスカーに、上級生のバッカスがユーリのことで訪ねてきます。
彼は、トーマのことも気に入っていたし、エーリクのこともお気に入りでした。

二人とも、善良で優しい心を持った生徒だ。いい子たちだよ。
なぜか黒髪のお堅い委員長を好きだと言うのに、あいつの冷たい態度はないだろうに。

「お前なら何か知ってるんじゃないかと思って」
「去年のイースターの休みに残っていたのは誰だったか…」
「あの後、数名が放校になって、ユーリとお前が一緒に個室に入った時期だよな」

バッカスが調査していることの意図に気づいたオスカーは激怒します。

それは、ユーリの必至で自分を立て直そうと隠してきた心と体の傷に
直接触れることになるからです。

オスカーはそうなる前に、自分の知っていることをバッカスに話します。


去年のイースターの休みに残っていたのは、悪魔的に頭の切れる上級生とその仲間数名。
それと、妹が入院したために帰省できなかったユーリ。

悪魔的な上級生とは、母親が死んだ後に学校を抜けたエーリクを迎えに行った時
偶然あった嫌味な感じの男でした。

昨年のイースターの休み明け、学校に戻ってきたオスカーはユーリの顔色が良くないことに
気づきます。
案の定、ユーリはふらつき、階段から落ちたところをオスカーが医務室に運びこみ、ドクターが来るまでの応急処置のために、ユーリのシャツのボタンを開けた時、
首の下にまだ生々しい傷があることに気づきます。

タバコを押し付けられたような傷。
それと血。

オスカーは瞬間的にユーリが誰かからひどい暴行を受けたことを察知します。
休暇中に残っていた、素行の悪い上級生たちにリンチにあったのだと。

バッカスとオスカーが話をしている時に、エーリクが現れ、少し話を聞いてしまいます。
ほぼ同時にユーリも現れ、オスカーが自分の傷のことを知っていることを知ってしまします。


萩尾望都「トーマの心臓」より


自分の傷のことを知りたいなら、オスカーに聞けばいい。
と言うユーリに

「それを聞いてどうするの、僕は君が好きなんだ、それだけじゃどうしてダメなの」

「僕が好き?」
「そうだよ。それはもう君が知っていることだ。どうして信じないの」

「何があっても?」「この傷がついたわけを知っても?」
「うん、何があっても好きだよ」

「トーマだって、この傷がついたわけを知ったら好きだなんて言わなかっただろう」
「そんなことはない!彼は君が好きだったよ、彼は君が何であっても本当に好きだったよ」

エーリクの訴えにユーリはとうとう胸のうちをさらけ出します。

「それくらい知っていた!彼が僕を愛していたことも。でも僕に何ができる?僕にはもう翼がないんだ!」

翼とは、天使の持つ翼。
天国に至るための翼。
愛を受けとれるための穢れのない心。

ユーリが失ってしまったのは、あの悪魔の夜に自らを裏切り、引き裂いたしまった自分自身でした。

あの夜、上級生たちの仮説「人は暴力で信仰を変えることができるのか」の実験台として、優等生で真面目で敬虔なキリスト教徒のユーリをターゲットにし、
何度も暴行をした上で、神ではなく俺を崇拝しろと強要をしたのでした。

ユーリは彼らの暴力に屈し、無理やり信仰をまげることを誓わされました。


「僕のじゃだめ?」

エーリクは言います。

「僕の片方をあげる。両方だっていい。僕はいらない」



萩尾望都「トーマの心臓」より



「翼をあげる、僕はいらない」

そこで、初めてユーリはトーマの残した短い遺書の意味理解するのです。


ユリスモールへ

最後に
これがぼくの愛
これがぼくの心臓の音
君にはわかっているはず

ユーリはやっと自分を許すことができました。
そして、もう一度、神さまと仲直りするために神学校へと転校します。

別れ際、
「列車の中で読んで」とエーリクから分厚いあの本を渡されます。

その本の中には、いつかトーマが書いたあの詩が挟まれていました。




トーマの鼓動


以上がダイジェストです。

メインのところだけですが、このあらすじ以外にエーリクと母親との愛、オスカーと父親との愛(彼には父親が二人いる)、オスカーを慕う少年のエゴ的な愛、登場人物たちのさまざまな愛の形や表現が、そりゃあもうふんだんに描かれています。

それぞれのエピソードが丁寧に描写されていています。
何度読んでも、文学。

少年たちのプラトニックな愛、肉体を伴わないドロドロしたしがらみのないところが
崇高な愛、より神の愛、無条件の愛に近い表現になっていると感じました。
(まあ、若干キスシーンもあるにゃありましたが)

トーマがユーリに伝えたかったことは完全な許しでした。
自分自身も神も、誰のことも信じられなくなって固く心を閉ざしたユーリ。

何も知らないトーマはユーリが深い闇にいること、
孤独でいることを察し
彼が信じない神に代わって彼に伝えたかったのでしょう。



何があっても君を許し、君を愛する
君が何であろうと、どんな人間であっても
たとえ神を裏切ったとしても
それでも君を愛する
君のために僕は翼を失ってもかまわない

物語の最後に、ユーリが自分自身を許したこと、需要したことで本当の「救い」となりました。

苦しみからの解放は、自分が自分自身を許すこと
そして
条件付けではなく、何があっても許されている完全で無形の大きな愛に包まれていたことを
思い出すこと、でした。

トーマの心臓の音。

これは私の解釈ですが、心臓の音って「生きている」ベース音のように思います。
心臓は何も言わないけど、このドクンドクンと聞こえるリズムそのものが、この世界に存在する証のように思います。

呼吸よりもっと気づかない、もともとの「在る」に近い存在のリズム。
ただ在ることだけを許されている、存在のベース音。

トーマの心臓の音は、物語の中でトーマがいなくてもどこにでも偏在しています。

線の細い華奢な絵で綴られた物語、ストーリーだけでなく絵の描写にもハッとさせられます。表現の仕方が素晴らしい。

翼をあげる、のところでは何度も泣いたことか。

死んでも構わないほど、誰かを愛する。

ピッコロ大魔王みたいに悟飯ちゃんを守るための身代わりじゃなくて(あれも見るたび泣いたけど)

闇に落ちた誰かの魂を救うための死。

子どもの頃、読んだ時には「そうは言ってもやっぱり自殺はどうかと」と思ったけど
死の形も愛の形も、どうやら長く所有していた既存概念から
少しずつ乖離していくのを感じます。

愛と死はいつも背中合わせで、いつでも離れることなくあるわけなんですね。
生きている限り。

それにしても、この作品を描かれたとき作者の萩尾望都さんは二十代の前半だったと聞きます。

まじか。

そして、これが50年近く前の作品であることも、いつもびっくり。
読むたびに、毎回新鮮な気づきがあります。




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