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日本病と炎の洗礼:パート1

1974年、僕が妻と最初に暮らしたのは、京都北部の小さな村、八瀬大原だった。妻が勉強していた墨絵の先生の関係もあったし、僕にとっても八瀬大原はロマンティックな場所だった。サリンジャーが禅の勉強をしているときに滞在したり、アメリカの詩人のゲリー・スナイダーが住んでいたり、結構有名な外国人の縁がある場所だったのだ。


J.D. Salinger


ここで半年、そのあと市内に移った。全部左京区エリアだった。例えば宮本武蔵の決闘で有名な一乗寺付近とかね。日本文化の匂いが充満していて、「あの武蔵がここで決闘したんか……自分は日本のカルチャーど真ん中にいるぞー」

と興奮していた。近くに詩仙堂もあるし、比叡山もすぐだし、市内中心部までは自転車で行けばいい。パリよりもニューヨークよりも、豊かで洗練した文化都市だと感じていた。最初の3年間は、下駄ばきに着物姿。それくらい没頭していた。もう完璧に日本最高!と思っていた。僕の場合、惚れ込むと徹底的なんだね。もちろん僕だけじゃなかった。当時京都に定住していた外国人はビジネスマンではなくて、アーティストが多かった。彼らと毎週のようにやったパーティもエキサイティングなものだった。友だちの外国人は、みんな真剣に勉強もしていたけれど、一方でよく遊んだのだ。左京区の白川にある古い大きな住んでいた友達のところに集まっては、日本人論や日本論をディスカッションする。がんがん酒も呑む。みんなアーティストや禅の修行している坊さんたちだ。日本人もいたけれど、外国人のコミュニティだった。

 

酒を飲んでは踊ったり、議論したかと思えば、山の中に駆け上がって滝の水を浴びてきたりする。ある夜などは、崖の上で寸劇をしていた仲間が、突然舞台から落ちてしまったと大騒ぎになったこともあった。結局、それは人形のダミーでサプライズだったんだけれど、緊張と弛緩、興奮の坩堝で、それ自体が儀式とさえ感じられるほどだった。そういうパーティを真夜中までやっていた。


大徳寺の禅堂に入って修行していたテキサスの坊さんもいた。この人は、きわめて頭のいい人だったから、公案をどんどんパスして、日本人の坊さんをあっという間に追い越してしまった。かなり上の立場まで上がっていた人だ。嫉妬もされていたんでしょう。ストレスもあったと思うね。この坊さんが、酒呑んでは禅の話をしたり、突然テキサスダンスを踊りだしたりするわけ。もう、何でもありって感じで、実に楽しかったね。


近所迷惑だったかもしれないけれど、ただ遊んでいるだけじゃなかった。みんな、真剣に修行していた。目的意識を失わなかったんだね。だから、ニューヨークの元ボクサーは、いくらパーティが楽しくても、10時になると帰ってしまう。自分は朝五時に起きて5時間座禅組むといってね。僕も、毎日朝から座禅と経行をしてから、仕事に行った。全日空のパイロットに英会話を教え、関西大学や神戸女学院でも英会話や英文学の講師をやった。弓道に熱中し、書道にも親しんだ。


弓道は非常に神秘的だった。こんなに奥の深いシンプルな訓練があるのかと驚いた。いくら練習しても上達することが困難。なかなかマスターすることができない。だから、みんな謙虚だった。最近、20代くらいの男が、「自分はヨガのマスターだ」とか自慢げに言ってるのを聞いたけれど、馬鹿じゃないの?と思う。20代でマスターだなんて、ありえないでしょ。そういうことを言う今の日本の甘ったれ男には、吐きそうになる。何もわかっていないと。


それはともかく、そのころの日本人は、自分たちの素晴らしさを惜しげもなく捨てているように見えた。伝統的な古民家があっても、日本人は住みたがらない。大切にするどころか、壊して立て直そうとする。家具だって調度品だって、何百年も使われ続けてきたものを簡単に捨ててしまう。僕たちには信じられなかった。「なんで、こんなもったいないことするの? 日本人アホになったんと違うか?」そう言い合っていた。古いものの価値をまったく認めずに、デパート行って馬鹿らしい外国のイミテーションを買って満足し、それでカッコいいと思っている。コンクリートのマンションに住んで、新しい電気製品をたくさん買って、アメリカ人みたいに生活することがカッコいいと信じ込んでいるんだね。僕たちは、「日本人、相当おかしいんじゃない?」とささやいていた。古い家に住みたがるのは外人しかいなかった。で、どうしたか。僕たちはいいアイデアを思いついた。


毎月一回、粗大ゴミの日に朝6時から京都中をトラックで回る。センスのよいアンティークがそこらじゅうに捨てられていた。宝の山だった。それを集めて、古い家を改造しては運び込む。それで茅葺の古民家を生き返らせた。文化の伝統と継承。そういう意味では、能面の師匠に弟子入りしたり、禅の厳しい修行したり、伝統的な日本文化を受け継いだりするのは、外国人しかいなかったのだ。僕たちは、間違いなく、継承の役割を果たしたと思う。おそらく、当時の先生たちもそれがわかっていたはずだ。日本人には自分たちの厳しい徒弟制度に耐えられる若者はいないだろうと。


こうした状況は、世界的に生じる必然的な事態だと思う。あるローカルなカルチャーが死にかけると、それを維持したり追求したりする人たちが登場する。そしてそういう人たちによって、ある程度カルチャーは維持されていく。もし、僕たちのような存在がいなかったら、弟子もいなくなって先生たちも消えてしまっていただろうと思う。もっとも、最近の僕は、こうした文化継承、文化保存にはかなり懐疑的だ。例えば先住民族の文化を保存継承しようと一生懸命やっている人たちがいる。『ナショナルジオグラフィック』にも寄稿している人類学者であり探険家でもあるウェイド・デービスもその一人だ。



彼は、最も尊敬する人物の一人だけれど、彼が躍起になって、身体を張って世界の先住民族の記録を残したとしても、伝統文化は資本主義の影響をうけて変容せざるを得ない。それが現実だと思う。少数民族を訪ねていっても、ちっぽけな布きれを百ドルで売りつけられるのが関の山なのだ。実際、デービスは、我々の世代で地球の「部族語」は絶滅すると言っている。伝統文化どころじゃないのだ。言語自体が絶滅しつつあるということ。おそらく、数十年もすれば、イヌイットの言葉を話せる人は絶滅してしまうと思う。これはもう、とめることのできない変化だと考えている。日本でも古民家の保存に取り組んでいる外国人は、まだまだいる。それは大切な役割を果たしているとは思うけれど、局所的な意味に限定されてしまう。すごく限定された専門家にはなれるかもしれないね。古民家の建具や土壁にめちゃめちゃ詳しいとか。しかし、世界規模で起きている事態に効果的なことかどうか、疑問なのだ。とはいえ、京都の駅ビルを造る計画が出てきたときは、僕たちみんな大反対だった。「なに考えてんだ! 馬鹿じゃないの、こんなきれいな町壊すな!」日本人にもハッキリ言ったね。


「自分の文化を捨てるのか? なんで西洋と同じことばかりしてるんだ? 醜い建物ばっかり作って、おかしい!」

 でも、これは東洋人は西洋を真似し、西洋人の僕たちは東洋のよさを追求するということなんだと思う。ある意味では自然の流れだ。だって、スコットランド生れの僕が着物に下駄ばきの生活をするようになって、ようやく逆にケルトの文化のよさにも気づくようになったのだから。告白すると、スコットランドではキルトを履いたことがなかったのだ。

 東と西、まったく違う文化にどっぷり浸かる。それによって、自分の文化の宝に気づく。だから僕はみんなに勧めるんだね、移動すること、旅することを。

 

まあ、70年代の僕たちは、日本人からしたら、騒々しい外人だったかもしれない。でも、あの時代に共通して流れていたのは、ヒッピー文化だった。ヒッピーの基本信条は、LOVE(愛)PEACE(平和)FREEDOM(自由)。共有すること、守るために戦うこと、お金に縛られないことだ。すべてを共有し助け合い、何かを守るために戦い、生活のために働く。お金は大事だけど、生活のためであって、それ以上のものではないというのがヒッピーのあり方だ。お金に換算できないものを、なによりもヒッピーたちは尊重する。スピリチュアリティということだ。それに、すべてを共有しようとするから、自分だけの物という感覚がない。いわば、ホントのコミュニズムだ。「僕が持ってるもので、役に立つなら、どうぞ.。使ってよ」という感覚。取引じゃない。心から「どうぞ」「力になりますよ」という気持ちがヒッピーなんだね。これはキリストの真の教えそのものだと思う。ヒッピー文化は70年代後半に、ヤッピー文化に変容した。彼らのモチーフは、LOVE&PEACE。FREEDOMがないんだ。フリーダムの信条のなかには、戦うことが含まれている。最も大切なもののために、命を、人生をかけて戦うということ。これはケルトの精神でもあり、実は武士的なスピリットでもあると思うけど、どう思いますか?



エキサイティングでハッピーな時間が終わりを告げたのは、来日3年後の1977年。家族が増えた。女の子が生まれたのだった。親にほとんど愛されたことがない僕が、親になった。これは普通大変なことだといわれる。子育ての愛というものを体験したことがなかったからだ。厳しく叱られ、ときには叩かれる。親は自分のことで精一杯で、ストレスを抱えてきつい日々を送っていたのだ。親に期待しても仕方ない、独りで生きるんだと思ってきた僕を救ったのは妻だった。子育ての愛、日本女性の子供に対する無条件の愛に出会って、子育てと親の愛を学んだのだった。つい厳しく育てがちな僕とは正反対に、妻は徹底的に子供を甘えさせ、守ろうとした。これは日本女性の特質かもしれないね。その愛情の注ぎ方を受け入れていくことで、僕のバランスは回復していった。極端に違う者同士が互いに力を合わせていくことで、バランスが取れていくということだった。


もっとも、僕自身も「人を助けること」はヒッピーたちから学んでいた。人を助けるのは当たり前のことだ。

妻の負担を軽くするために、週に一回はおむつも代え、子供の世話を引き受けた。それに、僕の基本にはケルトの精神がある。みんな兄弟姉妹だし、家族のためなら上下の差別なく自分から率先して助ける精神だ。仲間をとても大切にする。実際、イングランドからスコットランドに行くと、会う人が非常にフレンドリーでリラックスできるという人が多いんだね。ある人は、「肩こりが治る」と言っていた。それくらい、スコットランドは上下関係のない精神風土だ。


子供が生まれた頃、僕は日々の生活に疑問を感じ始めていた。相変わらず、外国人コミュニティは楽しかったが、生活するための仕事に不満を覚えていた。複数の大学でで英会話と英文学の講義をし、全日空のパイロットに特殊な英会話を教え、他にもさまざまな会社に招かれて、社長クラスの人物に英会話を教えていた。結構ハードな日々だった。ラッキーだったのは、当時、日本に滞在する外国人が少なかったことだ。英会話の仕事なら、いくらでもあったのだ。20代にして部長クラスの給料だった。

しかし、英会話を教えることが、果たして自分の人生の目的なのか? 生活のために金は必要だが、それにしても他に仕事はないのだろうか……。弓道をやり、座禅を組み、書道の面白さを発見していきながらも、もっと別の何かを求めていた。

「本当にやりたいことが、他にもあるんやないか?」ある日、英語の毎日新聞を眺めていた。ふと、大阪にある東洋医学の学校の広告が目に止まった。外国人が鍼灸師になるための講座を開いているという。


「これだ! 決めた」明治東洋医学院専門学校。僕は、すぐにに入学する手続きをとった。国家資格を取って、鍼灸師になることにしたのだ。人体の筋肉の名前にハマっていた子供の頃から、医者になることは夢だったし、東洋医学の世界観は魅力的に思えたのだ。経済的には妻の両親が全面的にサポートしてくれた。妻もまたヒッピー精神をわかる女性だった。16歳からデンマークに留学し、それからオン・ザ・ロードの生活を経験していたからね。それに、僕はお金にこだわらない人間だから、現実的にちゃんとサポートしないとあかんと考えてくれたのだろう。


というわけで、1978年から本格的に鍼灸師へのステップが始まった。


毎日50ずつ当用漢字を覚え、その他に医学の専門用語も覚えなくちゃいけなかった。それまで日本語は多少出来るといっても、国家試験を通過するための勉強は並大抵のものじゃなかった。猛烈に勉強しなくちゃならなかったのだ。たぶん、スコットランドの大学に入るより、10倍以上もキツイ勉強だったね。仕事も辞めたわけじゃなかったから、ほとんどこれは修行の場だったね。ヒッピー卒業やなと思った。社会人としてのハードトレーニングの日々ということだ。ところが、せっかく入学した学校の勉強が、期待していたのとおよそかけ離れていた。どういうわけか、西洋医学の世界観を通して、鍼灸や東洋医学を語ろうとするのだ。東洋医学の本来の基本は陰陽五行であり、気の力でしょ? それなのに、学校で学ばされるのは神経医学、病理学、生理学、解剖学などほとんど西洋医学の知識であり、脳神経説だった。13科目中、東洋医学といえるのは、たった一科目だった。

「なんだ、これは。まったくズレてる。東洋医学じゃない!」


非常にガッカリしたね。だって、陰陽五行説も気の話も出てこないのだ。不満を抱いたのは、僕だけではなかった。回りの外国人も、ここでは本物の東洋医学は学べないと言っていた。まあ、無理もないかもしれないね。当時、日本では「気」という言葉さえ一般的じゃなかったのだ。当時、東洋医学が世界的に注目されたのは、アメリカにおいてだった。ニクソン大統領が鍼を打って体調がよくなったことなどが報道されて、アメリカでは従来の西洋医学に行き詰った人たちが、鍼灸に光明を見出したのだ。そういう意味で、最先端医療だったのに、元祖の日本は一番遅れていた。アメリカの鍼学校に通っている友だちに話を聞くと、最初から気孔を習い、陰陽五行説を学び、太極拳をやり、診察の基本である「四診」を実践するという。四診とは、望診、脈診、腹診、聞診の四種類。自分たちが習っている勉強とは全然違う。ちなみに、望診は微細な感覚で患者さんの顔色を見ること。脈診は脈をとる。腹診はお腹を触って状態をみる。そして聞診は声の性質を聴き取ること。これが東洋医学の基本で、西洋医学のように器具を必要としないんだね。すべて体感で診断するのだ。

 ここで勉強していても、四診は学べない。最終的に国家資格を取ったとしても、絶対治療なんかできない。マニュアルは学べるだろうが、これはやっぱり、先生についてかたわらで技を盗みながら学ばないと駄目だ。真髄を学ぶには、師について弟子入りするしかないのだ。そう僕は確信し、通学しながら先生を探した。四診を教えてくれる先生を。まず見つけたのが、井村宏次先生。気の第一人者といわれるスピリチュアルな人だ。彼は脈診が得意だった。僕はウィークエンドになると彼の治療所に行って、無料で手伝いながら学ぼうとした。しかし、井村先生はフルタイムでの治療をやっていなかった。これだけでは不十分だった。僕も必死だった。さらに、伝統的な東洋医学を実践している先生を探した。フルタイムで診療している先生のもとで、本格的な鍼灸師としての技を身につけようと決意していた。

To be continued..


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