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20世紀末に起きた、史上初の日本サッカー協会会長への批判行動 日本のサポーター史の入口

ワールドカップ・ロシア大会の開幕直前の4月に、ハリルホジッチ氏が日本代表監督を電撃解任された。その解任理由の説明が「ハリルホジッチ監督と選手たちとのコミュニケーションや、信頼関係の部分が多少薄れてきた。」と、あまりに不明瞭だっため、サポーターは田嶋日本サッカー協会会長への不満を募らせている。

これまでの日本のサポーター史において、日本サッカー協会会長への目立った批判行動が発生したのは2度。

FIFAワールドカップ2006ドイツ大会の惨敗後の密室で決まったと言われるオシム監督就任人事等をめぐる不満から発生した「川淵三郎キャプテン解任要求デモ」と「腐ったミカン事件」だ。

今回は「腐ったミカン事件」について振り返る。

1995年に日本代表監督人事をめぐって発生した騒動が「腐ったみかん事件」だ。2002年のワールドカップ日本開催を目指していた日本サッカー協会は、その前に悲願のワールドカップ初出場を決めたかった。日本サッカーの切り札と言われた加茂周監督が就任するが、戦績は芳しくなく先行きが不透明。「やっぱり日本代表はワールドカップ予選を突破できないのではないか・・・。」という不安に日本全国が包まれていた。

日本サッカー協会強化委員会が様々な角度から検証を行い、日本代表監督には加茂周監督との契約更新ではなくヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)のネルシーニョ監督を起用すべきという結論を打ち出した。

しかし、その結論を採用することなく、日本サッカー協会は加茂周監督との契約更新を発表した。すでに、根回しは終わっており、ネルシーニョ監督は日本代表監督就任に乗り気であった。

ネルシーニョ監督は、記者会見で「腐ったみかん」という表現を用いて日本サッカー協会幹部を痛烈に非難した。

「日本サッカー協会に代表監督を選ぶ権利はあるが、おふざけをする権利はない。ナガヌマ、カワブチは嘘つきで腐っている。残念ながら箱の中には必ず『腐ったみかん』があるものだ。」

対する日本サッカー協会の長沼健会長は記者会見でのジャーナリストの厳しい追及に、売り言葉に買い言葉で、このように啖呵をきった。

「加茂で(FIFAワールドカップ1998)フランスに行けなかったら、私が辞めればいい」

これにサポーターが大反発。日本代表の試合会場に長沼健会長が登場すると、スタンドからは大きなブーイングが起きるようになった。加茂監督留任の理由の一つとして「ネルシーニョ監督のコーチングスタッフを含めた年俸問題が、長沼健会長に重く伝わった」という報道がされたのは、この騒動が発生した、かなり後の事であった。

2006年だったか2007年だったか・・・私は長沼健さんと食事をした際に、このときの出来事について質問してみた。すると、当時を振り返って、長沼健さんは、このように答えてくれた。

「俺が悪者になってでも何をしても、とにかく、日本のためにはワールドカップに出場しなければならなかったんだよ。」

果たして、加茂監督留任の理由が何であったのか、その真相は明らかにはなっていない。しかし、長沼健さんの心の中には日本サッカーを発展させるための決意と信念があったことは事実だ。

当時の加茂監督就任の記事を見ると「ベテラン仕事師集結」「最強メンバー」の見出しが躍っていた。

日本のサポーター史(+KeLBOOKS)


もし、長沼健さんに田嶋日本サッカー協会会長によるハリルホジッチ監督解任事件のことを質問することが出来たら、長沼健さんは、どのように答えてくれただろうか。

長沼健さん 1930年9月5日、広島県生まれ 関西学院大学卒業
1953年、西独ドルトムント国際大学スポーツ週間(現ユニバーシアード競技大会)代表。日本代表として、第16回オリンピック競技大会(1956/メルボルン)、第2回アジア競技大会(1954/マニラ)、同第3回大会(1958/東京)等に出場。国内においては、古河電工の選手として1961年度第1回年間最優秀選手に輝く。1962年、32歳の若さで日本代表監督に就任。第18回オリンピック競技大会(1964/東京)、同第19回大会(1968/メキシコシティ)に出場し、メキシコオリンピックではチームを3位・銅メダルに導く。
技術委員長、専務理事、副会長を経て、1994年会長就任。1996年、FIFAワールドカップ初の共同開催を決定する。1998年FIFAワールドカップ・フランス大会では、日本代表のワールドカップ初出場を果たす。同時に、2002年FIFAワールドカップの日本招致委員会副会長、日本組織委員会副会長を務め、ワールドカップの招致と開催にも尽力。また、日本サッカーリーグ常任運営委員、Jリーグ理事等を歴任。日本体育協会副会長、日本オリンピック委員会委員、ユネスコ・日本フェアプレー委員会委員等を務め、広くわが国のスポーツ界の発展にも貢献した。
1990年 藍綬褒章、2004年 旭日中綬章
2005年 第1回日本サッカー殿堂入り
2008年没

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