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「してあげたい」はしなくてもいい

 町で、電車内で、駅で、学校で、職場で、病院で、とにかく、あちこち出かけた先で、障害者や、高齢者に出会うと、「何かしてあげたい。何かしてあげなくては。」と思う人はたくさんいる。善意を示すことに強迫的にさえなってしまいどきどきする人もいる。

きっと、いいい人なんだろうと思う。(自分より)困ってる人、弱い人、お年寄りの人、障害者の人には、やさしくしてあげなくてはいけませんよと言われて育ってきたのだろう。

でも、席を譲って断られたら、どうしよう。手助けはいりませんとことわられたら、カッコ悪いし。

「ほんとは何かしてあげたいのに。」

こんな時は、どうしたらいいのでしょうか。と聞いてくる人はたくさんいる。

そのような質問に、私はこう答える。

「してあげたい」はしなくていいのです。気持ちだけでじゅうぶん。

なぜかというと、「してあげたい」は上から目線。障害者や高齢者を自分より下にみているから。そして、「してあげたい」で満足するのは自分の気持ち。「相手が何を望んでいるのか」ではない。だから、ありがた迷惑とか、おせっかいなどになってしまうことがある。それで素直に断ると、健常者の人を傷つけてしまうかもなんて気を使ったりする障害者もいる。

そういう私も、今まで、「何かしてあげたい。何かアドバイスしてあげたい。若いお母さんたちに、自分の体験を踏まえてお手伝いしたい、」と思っていた。

しかし、これは結構危ないことだと気がついた。障害者の母として、介護の専門家として、私は体験と知識がたくさんありますよ、という優越感そのもではないか。それは、ただの私の頭の中の知識に過ぎない。

 ケアが必要な人も、ひとりひとり、人生があり、望みがあり、希望がある。ひとりひとりの気持ちを尊重するということは、こちらの視点、立場を離れて、相手の人生を考えることだ。自分のちっぽけな価値観で、世のなかの人や出来事を、判断したり、アドバイスしたりするのは、まったくもって、自分の都合に相手を合わせることになる。

自分にできることは、同じ電車に乗り合わせた障害者や、高齢者の人たちと、一緒に電車に揺られることだけ。

それで、何か、困ったことが起きたり、「手伝ってください」のサインが出たら、お手伝いをしよう。

「お困りですか?お手伝いしましょうか?」と尋ねて、

「いえ、一人でできます。今は大丈夫です。」とか言われたり、席を譲っても「大丈夫です」と断られても、「はい、そうですか。では、何かあったら言ってくださいね。」といえばいい。

障害者の人や高齢者の人に、自分の善意を断られると、人格を否定されたみたいに思う人もいる。でも、障害者の人だって、断りたいときもある。

カーティス・ハンソン監督の「IN HER SHOES」は私の大好きな映画。

題名の意味は、「その人の立場になってみる。」

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