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「母親になって後悔してる」からの、「エブエブ:エヴリン」


母親になって後悔してる
オルナ・ドーナト

「母親になって後悔してる」という本が出て、世界中で話題になった。
日本でも出版され、私は嬉しかった。
母親はとても大変なのである。
正直に言おう。
母親になって後悔する機会はたくさんある。

子どもを育てるという生物学的、心理学的なことだけでも大変なのに、
加えて、社会学的な困難さがさらに重圧となる。
わけても、欧米と比べて、日本や韓国などでは、「世間」「伝統」という「形はないが重苦しい圧力」が母親を押しつぶしにかかってくる。
最近の韓国の女性作家の作品を読んでいると胸が苦しくなる。
そして、「そうだ、そうだ。よく書いてくれた。」と思う。

「母親らしく。」
「自分を犠牲にしても子どもを守る。」
「子どもの幸せは母親次第。」
「母親の役割を果たす。」
「子どもの将来は母親次第。」
「子どもの学歴は母親の努力で決まる。」
「子どもに障害や病気があったら、母親が対処する。実家や夫に頼らず。」
「母親はいつも笑顔で子どもに接する。」
「周りに迷惑をかけないように子どもを育てる。」
「子どもが泣いたり騒いだりして周囲に迷惑をかけないように。」
「子どもが泣いたり騒いだりしたら、速やかに謝る。」
「自分にお金や時間をかけないで、子どものために使う。」
「母親らしい服装で。」
「母親は強い。」
「母親はいつも健康で。」
「子どもの教育環境を整える。」
「子どもの障害は、母親のせい。」
「障害児を産まないように。」

もっともっといっぱいあるけど、数えだしたらきりがないけど、母親役割を求める社会的風潮はものすごい。
さらに、同調圧力とか、マウンティングとか、ママカーストだとか、もうこの国で、母親なんてやってられないよと言いたくなる。
言いたくなったときは、言った方がいい。
だって本当に大変なんだから。
大変なのに、どうってことない顔していたら、周りはどんどん圧力を加えてくるし、期待してくる。

まだまだ、我慢できるねって。

「いやもう我慢出来ません。」
ってなったときの、エヴリンの前に登場するのが、マルチバースだ。
エブエブのエヴリンは、母親業に加え、父親の介護、うまくいかない仕事、経済的な窮地、そして頼りにならない夫、本人のADHD、娘のLGBTQ、移民。
という、今の世の中のすべての苦労を抱え込んで、どっちにも行けない状態になっていた。

「アメリカに来なかったら。」
「結婚しなかったら。」
「母親になっていなかったら。」
「ほかの仕事についていたら。」
今の自分と違う、いろいろな自分がマルチバースに存在し、自分はそこで活躍している。
そう思うのは、エブリンだけではない。

私など、脳内に、過去に、未来に、さまざまな自分が存在し、さまざまな生き方をしている。
だから、今日も生きていける。

エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス

母親は、特に障害や病気を持った子の母親は、毎日、血を流して、涙を流して戦い続けているのです。
「この役割変わってほしい。」と思うけど、「変わってくれる人が気の毒で言えない。」って思うこともあるのです。

ヘッダーの写真は、「植竹国良展」のポスターです。
ポン・ジュノ監督の「スノーピアサー」を連想させるかのようなカオスが描かれています。


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