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「異常ありません」で生還する

肺がん検診では胸部エックス線検査で、がんの可能性がある陰影を「要精密検査」とする。受診者はその結果を見て驚き、病院でCT検査を受ける。みんな、「自分は肺がんになってしまった」と、硬い表情で診察室に入ってくる。
胸部エックス線検査の写真には、小さな陰影や淡い陰影、以前からの古い陰影、骨、乳房など、無数の要素が写りこんでいる。そのなかで、肺がんを否定できない陰影を要精密検査とするのであるが、その陰影が本当に肺がんである確率は数%程度である。
CT検査後「異常ありません」と伝えたあとの受診者は急に饒舌になる。肺がんと思っていたのに、完全に生還したのだから。
「息子にも言えませんでした」「持ち物を整理してきました」「エンディングノートを書き始めました」等々、気の毒になる。夕べは眠れなかったかもしれない。
結局異常がなかったから、これは不要なやっかいごとだったとばかりは言えない。病気はよその人ばかりでなく、突然自分にふりかかることを知り、まわりの人のことを考えたであろう。考えなかったら鈍感だ。今日は、夫の好物が並ぶかもしれない。残念ながら、この気持ちは驚くほど長続きしない。
中には、毎年要精密検査となっても受診せず、腫瘍が毎年大きくなっているのを確認することもある。自分ががんになるはずないという思い込み、あるいは、がんと言われるのが怖くて受診できない、という理由もあるらしい。1年目に受診すれば、手術できたのに、がんは治療しないと確実に進行するからがんなのだ。
子供の検査もある。若い母親と小学生の子供が診察室に入ってくる。「異常ありません」と伝えたとたん母親は泣きだした。「この子が生まれたときは五体満足で、それだけで十分だったのに、いつのまにか欲がでてしまって、いますごくうれしい」と顔がくしゃくしゃだ。小学生の子供は母はなぜ泣いているのかと不安げに見上げている。
「子供よ、この親の思いを覚えておけよ」と伝えたいが、まだわからないであろう。あと数年、あるいは自分の子供ができるまで、あるいは親が死ぬまでわからないかもしれない。


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