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恐ろしい経験/右か左か

≪右か左か≫

突然、絶対絶命のピンチに立たされることがある。
自分の選択が患者さんの命を決める、間違ったら患者さんの生命、私の医者生命にかかわる。熟考し検討する時間はない。
重度の肺気腫で気胸を合併した患者さんが入院していた。気胸は肺に穴があき、肺が虚脱する。完全に虚脱してしまうと、右肺は機能しない。肺虚脱だけでなく循環を悪化させ、短時間で命に関わる状態になることもある。ドーレンという管を胸腔に入れ、虚脱した肺をもとに戻す必要がある。
その患者さんも右肺の気胸を起こしたが、胸腔ドレーンで改善し、ドレーンはいったん抜去されていた。
当直の日、看護師さんから、患者さんが苦しんでいますと慌てた声でコールがあった。患者さんは喘いで苦しそうに言葉にならない声をあげていた。酸素飽和度も落ちていた。
気胸の再発だと思った。放射線科を呼びポータブルのX線写真をとろうとした。同じ側の再発の可能性が高いが、肺気腫の患者さんは肺組織が脆く、どちらの肺も気胸を起こす可能性がある。右か左か確認しなければいけない。肺気腫の患者さんは呼吸音が弱く、おまけに声をあげているため、聴診してもどちらの肺が気胸を起こしているかわからない。また、一回気胸を起こした側は、癒着していることがある。X線写真で癒着を確認せずにメスを入れると大出血を起こしかねない。
放射線科はポータブルの撮影機を押して来たが、患者さんの状態を見て「撮れません」と言った。患者さんが苦しがっていて静止することができないというのだ。鎮静してからX線撮影をとるか、いや鎮静するとおそらく呼吸が止まり挿管、人工呼吸管理が必要になる。その処置のあいだに心臓も止まるかもしれない。でも、反対側に処置したら呼吸状態はさらに悪化する。
「右」。反対側が気胸を起こすより、同じ側が再発する可能性が高い。「癒着もしていない」そう信じた、そう祈った。
局所麻酔薬を吸うシリンジを持つ手が震えた。恐ろしさのアドレナリンだ。ペアンが胸腔に達し、「ぷしゅぅ」と空気が漏れる音がして、患者さんはとたんに声を上げるのをやめた。顔は落ち着いた表情に戻った。「助かった」と思った。患者さんも、私も。
私はとたんに饒舌となり、処置を続けながら「樂になったでしょう、気胸が再発したんですよ。でも大丈夫ですよ。ダバコはこりごりでしょう。こんなことになるとは思いもしなかったでしょう。タバコのせいだっていまさら言われてもと思ってますよね」としゃべり続けた。安堵のため黙っていられなかった。右か左か迷っていたなんて言えるはずもない。
X線写真もとらず胸腔ドレーンを入れたのは、この時だけである。反対側だったら、責任を問われたであろう。結果が悪ければ、仕方なかったと立証するのは簡単ではない。
20年以上経っても、病室の位置、ベッドの向き、看護師さんの緊張した顔を鮮明に覚えている。

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