猫の声

午後2時17分。定刻。
僕は有り余る感情を精一杯、声に乗せて今日も鳴きあげる。
この時間帯のマンションの廊下は閑散としていて僕の鳴き声がひたすら
響き渡る虚無の空間だ。
玄関の隣、物置と化した寝室の窓際がスタートライン。
ここでいつも主の帰宅待ちレースが始まる。
今日は金曜日。普段どおりだと帰宅が早い日だ。
人間の世界には職業というものがあって社会において与えられた役割を果たす
ために朝早くから夜遅くまで働かなければならないらしい。
なんて馬鹿馬鹿しいんだ。僕みたいに自由に生きればいいのに。
まあ、そのおかげで僕の生活が成り立ってるのだがね。
感謝、感謝です。

僕と主は2年前に出会った。
大雨の日、酔っ払った主が道に倒れていた僕を家に連れ帰ってくれたみたいだ。
記憶にございませんが。
2年も一緒に生活しているのに僕は主の名前すら知らない。
なにせ、家には僕との2人ぼっちで主が自分の名前を呼ぶ機会はない、
しかもなかなか家に帰ってこないものだからプライベートという主の詳細を全くもって知り得ないのだ。
僕が知ってるのは出勤前の忙しそうな姿と、退勤後の酒に溺れてる姿。
それだけ。
ただ、そんな主が僕は好きだ。
名もなかった僕をシオンと呼んでくれたり、普段なかなか帰ってこないから帰宅の時は僕の好物、金のマグロ缶を買ってきてくれる。
普段は貧相なキャットフードを食べてるから本当に美味しい。
そして、なにより僕は主の話を聞くことが好きだ。
上司の悪口だったり、好きな子の話だったり、
主の故郷の話だったり、夢の話だったり。
普段知らない主の内側を覗けた気になれて嬉しい。
そんな時間の積み重ねが主への愛を深める。

3日間、主は家に帰ってきてない。
勤務先はキー局でテレビマンをしているという。
僕はテレビを見ないし、主がなんでそんなに忙しいのか想像もつかないが、
僕にできることは主の帰りを待つ。それだけ。
いつものように窓際で黄昏れる。
廊下の静けさは迫り来る足音を際立たさせる。
今、向かってきている音は小股で早歩き、地面と靴の底が擦れてゴムのグリップが耳に残る。
聞き馴染みのある音だ。
迫り来る足音と裏腹に僕の鼓動は落ち着いていた。
これは、3つ隣の家の小学生。
金曜日は4時間授業で帰りが早い。
この間、小耳に挟んだ。                         
主の帰りに期待して落胆する。
この感情の起伏が僕の生活のほとんどだった。
外の世界に興味はない。
ただ、この5畳半の寝室で帰りを待ち続ければいい。
それが猫社会の中での僕の役割なんだろう。
主の足音はよくわかる。
一流のドラマーのように決まりきったBPMで
歩くたびに革靴の社会人らしい堅く、型にハマった音が聞こえてくる。
それは廊下に響きエレベーターから一歩踏み出したところでわかる。
この聴力と分析力、人間の社会でもやっていけると思うのだが
猫なので仕事は来ない。
今日は晴天だ。
空虚な廊下に流れ込む爽やかな風と夏らしい緑と土をした香りが季節を知らせる。もう、夏か。
適度な風と日陰が恒温動物に安らかな気温を届ける。
こうやって昼寝するのが1番気持ちいいんだよな。


目を覚ますと今日のレースはゴールライン手前。
箱根駅伝でいうところの戸塚中継所を過ぎたくらいだろうか。
日が暮れたってすることは同じ。
耳を澄まして主を待つのみ。
夜になると感情を自分の中に閉じ込めなくてはならなくて辛い。
たとえ相手がいなくたって音に乗せて感情を伝えれば声は必ず誰かに届く。
口に出さないで損するくらいなら何でもかんでも伝えてしまえばいい。
種を種のままにしていたって育つわけがない。
悲しい闇に覆われる街と廊下を歩く幸せそうな家族の声に寂しさに溺れる僕は
エレベーターから聞こえる革靴の社会人の音を聞き逃していた。                                   

扉が開く音がする。             

引き付けられるように窓の側から飛び降り玄関に向かった。                   「ただいま、シオン」             主だ。                    かれこれ3日ぶりの再会になるので少し辛気臭くなってるのは僕だけだろうか。           主の帰りと共にやってきた金のマグロ缶。                君もおかえり。そしていってらっしゃい。    我が家が少し賑やかになった。         静かな時間も好きだけど賑やかなのも好きだ。

やっぱり、ひとりよりもふたりでいたい。


翌朝、勢いよく駆け出す主を見送る。     

幸せとはいつまでも続くものではない。     時に手放し、時に手元に帰ってくる、      気まぐれな存在。               多分そのくらいが丁度いい。          幸せすぎる人生の中じゃ幸せに気づくことさえできないから。        

午後2時17分。定刻。

昨日までの寂しさは喜びに変わり音に乗せて声となる。                     形のない単調なロングトーンが閑散とした廊下に響き渡り鬱蒼とした街をくぐり抜けていく。    そうして今日も僕は散らかった寝室の窓際で帰りを待つ。





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