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〇明日2021年9月13日(月)TOKYO-FM『トラッド (The Trad)』に吉岡正晴ゲスト生出演~レイ・チャールズ評伝


〇明日2021年9月13日(月)TOKYO-FM『トラッド (The Trad)』に吉岡正晴ゲスト生出演

【Yoshioka Masaharu Will Be On “The Trad” TOKYO FM Tomorrow】

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(本作・本文は約20000字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字で読むと、およそ40分から20分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと67分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

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〇明日2021年9月13日(月)TOKYO-FM『トラッド (The Trad)』に吉岡正晴ゲスト生出演

【Yoshioka Masaharu Will Be On “The Trad” TOKYO FM】

生ゲスト。

毎週月曜から木曜日、15時から16時50分まで東京FM(80.0mhz)から生放送されている人気番組『トラッド』に吉岡正晴が2021年9月13日(月)ゲストで出演します。前回は8月24日だったので、3週間ぶり。番組は、基本は月曜と火曜が稲垣吾郎さんと吉田明世さん、水曜と木曜がハマ・オカモトさんと中川絵美里さんが司会。ただ13日は、稲垣さんと今回は中川さん。

この番組は架空のレコード店『ザ・トラッド』を舞台に「上質な音楽をじっくり味わう」をコンセプトにしたもので、各音楽ジャンルに秀でたマイスターたちとともに本質的で流行に左右されない上質な音楽と趣味の話題をお届けする音楽番組。稲垣さんが店長で、ハマ・オカモトさんが副店長だ。ゲストはお客さんとして、このレコード店を訪れる。

今回のテーマは、昨年(2020年)が生誕90周年だった「ソウル・ミュージックの神様」レイ・チャールズについて。ちょうど90周年を記念して2021年9月10日発売された6枚組CDボックスセット『トゥルー・ジニアス』をフィーチャーしながら、レイ・チャールズ入門的なこと、レイ・チャールズの魅力についてぎゅぎゅっと凝縮してお話する予定。ただレイ・チャールズについては話したいことがたくさんありすぎるので、うまくまとめられるかちょっと自信がない…。(笑)

■番組概要

番組名 THE TRAD
放送局 東京FM(80.0mhz)
放送時間15時~16時50分
出演 稲垣吾郎、中川絵美里
ラジコ、東京FM



https://radiko.jp/#!/ts/FMT/20210913150000

2021年8月24日(火)放送分、リアルタイム+タイムフリー


https://radiko.jp/#!/ts/FMT/20210824150000

番組Webサイト:


https://www.tfm.co.jp/trad/
メッセージフォーム:


https://www.tfm.co.jp/trad/form/

twitterハッシュタグは「#THETRAD」
twitterアカウントは「@THETRAD_TFM」


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■DVD
DVD RAY/レイ
Ray / レイ 追悼記念BOX [DVD]


https://amzn.to/2WH0rE2
(なんとDVD900円)

■ブラザー・レイ/レイ・チャールズ物語 (自伝/伝記)
(デイヴィッド・リッツ著、吉岡正晴訳)2005年2月1日発売


https://amzn.to/3hbSFMa

レイ・チャールズ

1930年9月23日ジョージア州オルバニー生まれ。盲学校を経てシアトルで本格的にプロ・ミュージシャンとして活動。49年マクソン・トリオ名義の「コンフェッション・ブルース」がヒット。それまで誰も成し遂げなかったゴスペルとブルースを融合させた〈ソウル・ミュージック〉という概念を作り出し、60年代以降の黒人ミュージシャンだけでなく、白人ミュージシャンにも多大な影響を与えた。代表曲は「ホワッド・アイ・セイ」(59年)、「わが心のジョージア」(60年)、「アンチェイン・マイ・ハート」(61年)、「愛さずにはいられない」(61年)など。89年、日本では「いとしのエリー(エリー・マイ・ラヴ)」が大ヒット。2004年6月10日ロサンジェルスで肝疾患のため死去。享年73。

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■レイ・チャールズ『ジーニアス・オブ・ソウル』DVDのライナーノーツ 

レイ・チャールズ
『ジーニアス・オブ・ソウル』
原題 Genius Of Soul

ビデオアーツ(廃盤=ライナーは、ビデオアーツ盤に書いたもので 、それを日本コロンビア発売のDVDに転載しました)
日本コロンビア
COBY 90049

https://amzn.to/3nnVnSF

1999年02月20日発売
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今度あなたの映像ライブラリーに加わることになった一枚(一本)のLD(ビデオ・テープ)をご紹介します。

レイ・チャールズの『ジーニアス・オブ・ソウル』


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ゴスペル、ジャズ、ソウル、カントリー&ウエスタン。あらゆるジャンルの音楽をクロスオーバーさせた天才レイ・チャールズ
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「ソウル・ミュージック」という概念をアメリカ音楽の歴史に定着させ、その「ソウル」の世界を代表するだけでなく、「アメリカン・ポピュラー・ミュージック」の世界をも代表することになった偉大な存在、レイ・チャールズ。ビリー・ジョエルが、ドクター・ジョンが、ウイリー・ネルソンが、ありとあらゆるタイプのミュージシャンからあこがれられ、好かれてきたレイ・チャールズ。50年代から一線で活躍し、90年代の今日まで、たゆまぬ前進を続けるレイ・チャールズ。アメリカだけでなく、日本、ヨーロッパなど世界中を旅するミュージシャン、レイ・チャールズ。そんなレイ・チャールズの、初めてのドキュメンタリーが完成した。プログラムの中身はじっくりと御覧いただくとして、ここでは、ビデオでは触れられない部分も含めてレイ・チャールズのこれまでの軌跡を振り返ってみよう。

ACT ONE 7 歳で盲目に、15歳で孤児に

レイ・チャールズ、彼はかつてこう言ったことがある。「人生にトラブルは必ずいつかやって来る。 それが若い時か、中年の頃から、年老いてからかはわからない。だが、それは必ず訪れるのだ」

そして、レイの場合、人生のトラブル、悩み、問題、苦悩といったものは、人生の初期に集中した。

レイは本名レイ・チャールズ・ロビンソンといい、1930年9 月23日(ほかに32年説があるが、30年説が信憑性が高い)、ジョージア州アルバニーという街に生まれた。彼が子供の頃一家でフロリダ州にグリーンヴィルへ移り住む。父親は鉄道労働者で、子供のレイにはまた全く関心もなく、家にもあまり寄り付かなかった。 もちろん、彼の一家は貧乏だった。だが、母親は子供達の面倒をよくみてくれたので、レイ自身はその頃は幸せだったと振り返る。

しかも、この頃彼にはしっかりと視力があった。レイは、隣に住んでいたおじさんの顔や、両親そして2歳年上の兄の顔も覚えている。しかも、5歳の頃、レイは悲劇を目撃する。母親は、いつも子供達をお風呂に入れていたが、ある日、母親がちょっと目を離したすきに弟がそのなかで溺れ死んでしまったのである。そのショックののち、彼は緑内障をわずらうようになり、6歳の頃から視力を徐々に失いだし、7歳のときには完全に失明してしまった。

失意の両親は、彼をまもなく、セント・オウガスティンの目と口が不自由な人のための学校に入れる。レイは、そこで文字の読み書き、音楽の基礎などを点字で学ぶようになる。レイは点字で楽譜を読み書きすることを学習し、それだけでなく、ピアノ、サックス、クラリネット、トランペットなどありとあらゆる楽器をマスターした。

彼のこの頃の音楽的な影響は、ショパン、シベリウスなどのクラッシックから、アート・テイタム、アーティー・ショウなどのジャズ・アーティストまで実に幅広かった。この時期、レイは音楽こそが人生になりはじめていたが、レイにピアノを弾くことを強く勇気付けた近くのグリーンヴィルにある「レッド・ウイング・カフェ」というピアノ・バーのワイリー・ピットマンの名前も、大きな影響を受けた人物として上げられる。

レイ・チャールズの幼少時代は、非常に暗かった。弟の溺死を目撃し、自身は失明。さらに、レイが聾唖学校に入学後、育ててくれた実母が1944年5月(レイ13歳)この世を去る。レイには父の記憶がほとんどない。こうしてレイ・チャールズ少年はわずか14歳で、世界にたった一人だけ残された孤児となってしまった。1945年のことである。しかも、孤児で、盲目で、さらに黒人という当時としては、充分な三重苦を背負ってレイ・チャールズは生きていかなければならなかった。

父親は滅多に家に居らず、レイは母親に育てられた。失明した後も母親が様々な面倒を見てくれた。だが、その母が死んだ。母の死は、レイのその後の人生にとっても大きなターニング・ポイントとなった。レイにとっては、母なしの人生というものは考えられらなかったし、考えたところで、それはとてつもなく恐ろしいもののように感じられた。レイがそのときの気持ちをこう語る。

「ワシは、 母の死という事実と面と向かって立ち向かえなかった。死の現実というものと立ち向かえなかったのだ。母親が死んだ後の夏はワシにとってターニング・ポイントだった。ワシは、自分自身で決意しなければならなかった。自分自身の行く道、自分自身の時を考えなければならなかった。その沈黙の数日間は、ワシ自身を強くした。そして、 その強さを、ワシは以後の人生にずっと持ち続けているんだ」

その時の孤独感は、想像を絶するものがあっただろう。ファミリーを失い、視力を失い、真っ暗やみの世界にただ一人。友達も出来なかった。彼は人生のトラブルを一挙にしょい込んだ。レイ・チャールズは、その頃のことをさらにこう振り返る。

「ワシはシャイな男だったなあ。他のだれにも迷惑をかけたくなかったからな。つまり、ワシは、人が好きじゃなかったから、人と接触しようとしなかったんだ。それは本性みたいなもんだ。子供の頃から、ワシはいつも一人で遊んでいた。別にいろいろ分析しようというのではなく、単に事実を述べようとしているだけなんだが、要するに他の子供達は目が見えるから、いろいろなゲームが出来るだろ。それにワシは参加出来ないわけだからな。そこでワシは一人遊びの方法を学び、 それにすっかり慣れっこになったというわけだ。そうなれば、何だってできたさ」

彼にとって唯一心置きなく熱中出来るものが、音楽だった。彼は言う。「肘や腕や脛(すね)がワシの体にくっついているように、音楽はワシの体の一部だ。ワシの血だ」

彼は、学費を出すことも出来なかったので、学校を辞め、プロのミュージシャンとしてやっていかざるを得なかった。音楽を演奏して、金を稼ぎ、部屋を借り、食事をして、つまり自立しなければならなくなったのである。彼は、まず南部のジャクソンヴィルに引越しそこをベースにしばらく音楽活動を始めた。

幸運なことに彼は、楽譜が読めた(!)ので、プロのミュージシャンとしての仕事を得ることができた。レイはまずカウント・ベイシー・スタイルのビッグ・バンドにはいり、それ以後、いくつかのバンドを転々とする。ルイ・ジョーダン・タイプの小さなバンド、フロリダ州タンパでは、フロリダ・プレイボーイズというヒルビリーのグループに参加、ここでヨーデルを学んだ。彼は、ジャズ、ヘヴィーな音楽(当時はもちろんロックやソウルなどという呼び名はなかった)、ロマンティックな音楽(例えば、フランク・シナトラのような今でいうイージー・リスニング・ヴォーカル的なもの)、そしてクラシックなどまで、仕事があれば、何でも引き受けた。

彼は18歳(1948年)までに、当時の金額でなんと600 ドルもの貯金をした。一日10ドルもあれば楽に暮せた時期の 600ドルであり、それは大変なお金だった。レイは、これをもって、その南部の土地から可能な限り遠くの土地に引っ越そうとした。そこで、選ばれた地がアメリカ西北部ワシントン州のシアトルだった。

ACT TWO 新天地シアトルへ

レイのそれまでの3年間は、苦難の連続だった。様々な困難に遭遇し、時には、死にそうになったこともある。 人種差別も体験した。だが、いつも自分自身でなんとか道を切り開いてやって来た。彼は「決して、哀れみを求めたり、人に物乞いなどする必要はなかった」といい切る。レイにとって、シアトルとはどんな意味があったのだろうか。

レイ自身がこう記している。「私はフロリダでやるべきことは充分出来たと思った。そして、何か次のステップに進むべき時期が来ていたと感じていた。いつでも次のステップに進む。それが私のスタイルだ。だが、シアトルについては何も知らなかった。中規模の都市で、何とかやっていけそうな土地、そんな感じがしていた。きっと、私自身ニューヨークやシカゴ、LAといった大都市が怖かったのだろう。もちろんどうやって生きていけばいいかは知っているつもりだったが、私のどこかにカントリー・ボーイの血が流れていたのだと思う」

1948年、彼はこうして新天地シアトルに引越し、ミュージシャンとしてクラブなどで新たな再出発をはかる。その頃までに、レイは既に大人気だったナット・キング・コールの真似を完璧にこなすことが出来るようになっていたため、シアトルに来ても彼がいうところの「シアトル着後24時間以内に」初仕事を獲得することが出来た、という。レイは、フロリダ時代の友人、ゴサディ・マギーとともに組んだマクソン・トリオ(このほかにマキシム・トリオ、マキシーン・トリオなどの名前も使った)でチャールズ・ブラウンやナット・キング・コールを真似ていた。そして、最初の店で何かをやると、そこに来ていた別の店のマネジャーか何かが、次の店での仕事をすぐにくれた。こうして、彼はシアトルでも、ミュージシャンとして、生活を支えるくらいのことは出来たのである。

そして、この頃からは彼は自身のオリジナル曲を書き、自分のバンドで少しづつ歌うようになる。レイは、これらのオリジナルを「クズ」と呼ぶ。何しろ、だれかほかのアーティストのために書いても、だれもそれをやってくれないので、仕方なく自分でやっていたという代物だったからだ。そしてレイは「そうしたことはまったく他のだれのためでもなく、自分自身のために歌っていた」という。

レイは、この頃ステージ・ネイムを本名の「レイ・チャールズ・ロビンソン」ではなくシンプルにレイ・チャールズとすることにした。これは、既にミドルウエイト級のボクシング・チャンピョンだったシュガー・レイ・ロビンソンとの混同を避けるためである。


ACT THREE 『6-9』と『7-0』、生涯の友との出会い

このシアトル時代に、レイは、その後生涯の友となる人物と出会う。その男は、レイより3歳程若かったが、レイ同様早くからプロの音楽の世界に飛び込んでいた野心家だった。レイとその男が会ったとき、彼は地元のバンプス・ブラックウエルのオーケストラの一トランペット奏者で、レイは時々そのオーケストラのためにアレンジの仕事をしていたのである。その人物はレイのことを次のように語る。

「レイはまるで40歳位の人物の様に思えた。彼は何でも知っていたんだ。女のこと、音楽のこと。人生のこと。すべてを。なぜなら、彼はそれだけ、すべて自立していたからだ」

この男こそ、その後、ジャズ・ミュージシャンとして名をなし、マーキュリー・レコードの副社長となり、レコード・プロデューサーとして、音楽史上世界で最大のヒットとなったマイケル・ジャクソンのアルバム『スリラー』をプロデュースすることになるクインシー・ジョーンズだった。クインシーがレイについての思い出を続ける。

「レイは、まだ17かそこらだったのに、バンプスと同じ位の年ではないかと思えた。それほど彼は賢かった。彼はフロリダからシアトルに引っ越してきて、既に自分のアパートに住んでいたんだ。それには本当に驚かされたよ。やつは、アパートに住み、何着かスーツを持っていて、そしていつもこぎれいにしているんだ。私は、当時彼のことを『6-9(シックス・ナン))』と呼んでいた。今でもそう呼ぶ。レイは私のことを『7-0(セヴン・オー)』と呼ぶ。私が彼のことを『6-9』と呼んだりするのは、オシャレな人達の間で、名前を大声で呼んだりするのがかっこよくなかったからだ。一度なんて、私たちがホワイト・ハウスに呼ばれたとき、私がステージにいて、レイがバルコニー(2階席)でレーガン大統領夫妻の隣に座っていたときも、2階に向かって『6-9』と叫んだものだ。私たちは、そんなことをどこでも出来る。どこだろうと気にしない、そんな仲なのさ。そして、彼が『6-9』と呼ばれたときだれに呼ばれたか、レイは知っているというわけだ」

レイ・チャールズがクインシー・ジョーンズについてこう語る。
「シアトルで起こった最高の出来事は、恐らくクインシー・ジョーンズに出会ったことだろう。彼は私よりほんの少し若かっただけだが、きちんとした基礎を持っていなかった。彼はトランペットを吹いていたが、ジャズを書きたがっていた。彼は私にどうすれば、それが出来るか訊いてきた。そこで、私は彼に私なりのアレンジの方法などを教えてやった。そして、彼はそれをすぐにのみこんでいった。Qは、そうした情報に飢えていた。彼が出来ることを学ぶことに非常に熱心だった。 彼は本当にスイートで、気の置けないやつだ。それ以来、私たちはパートナーだ。クインシーが私を必要とするときは、どんなときでもかけつける。その逆もまた同じだ。私は1948年から1950年までのシアトル時代のことを、ミュージシャンとして頭角を表して来た時期だと考えている。だが、それと同じ位重要なことが、クインシー・ジョーンズとの出会いだ。われわれの関係は文字どおり、生涯の友、友情なのだ」


ACT FOUR 初レコーディングへ

レイは、シアトルでちょっとした評判を得るようになり、その噂がロス・アンジェルスのジャック・ロウダーデイルという人物の元に届いた。そこで、レイは、ジャックの持つダウン・ビート・レコード(後にスウィング・タイム・レコード)で、マキシーン・トリオとして最初のレコーディングを経験する。1948年暮のことでそれが「コンフェッション・ブルーズ」(DOWN BEAT 171) という曲だった。もっとも、これには後日談があり、彼がそこにレコーディングしたことが、ミュージシャンのユニオンの規定に触れ、レイは 600ドルの罰金を払わなければならなかった。

この「コンフェッション・ブルーズ」は、1949年 4月からビルボードのベスト・セラー・チャートにもはいるヒットぶりをみせ、同チャートでは11週ランクされ、2位まで行くヒットになった。これは、ナット・キング・コール・タイプの曲だった。

レイは、48年以来約 4年に渡ってこのスイングタイムに、40曲近くの作品を吹き込み、結局スイングタイムに17枚のシングルを残し、その内の3枚がチャート入りを果たした。

しかし、この時期のレイの音楽には、彼自身の個性はなかった。彼自身はこう述べている。

「ワシは何も求めていなかった。ワシがやりたかったことは、ただ音楽をプレイするということだけだった。グッド・ミュージック、それだけだ。ワシが唯一わかっていたことは、自分が好きな音楽というのは、自分が感じた音楽だということだ。その感じるということなどどんなふうに説明出来るんだい?

ワシは、音楽出版(著作権)のこと、 ロイヤリティー(印税)のことなど何も知らなかった。だが、そんなことは関係なかったな。初めてのレコードを作るときワシは思った。本当にレコードを作りたいと。なぜならば、レコードをだすということだけで成功の象徴のように思えていたからさ。ほかのことなんか、何も気にならなかった。だからユニオンとのトラブルに巻き込まれてしまったんだ。有名なレイ・チャールズになるはるか以前から、ワシは、どこでもいい音楽がプレイされているなら、それに参加したいと思っていたわけだ」


ACT FIVE アトランティックへ移籍「ゴスペル」と「ブルーズ」の融合

レイ・チャールズの名前は、業界内では徐々に知られるようになった。そして、その活動とレコードに注目したレコード会社があった。1947年、ニューヨークでアーメット・アーテガンとハーブ・エイブラムソンによって設立されたアトランティック・レコードだった。 当初、ジャズを中心に作品を発表していたアトランティックは、徐々にその取り扱い音楽ジャンルを広げ、ジャズ以外の黒人音楽にも手を伸ばしていた。

1952年、アトランティックは、スウイング・タイムから2500ドル(註、本編の中では3000ドルと発言)で契約を買上げ、レイ・チャールズはアトランティック・レコードの所属アーティストとなる。

アトランティックからリリースされたレイ・チャールズの最初のシングルは52年の「ロール・ウイズ・ミー・ベイビー」(ATLANTIC976) だが、これから4枚目まではヒットには至らなかった。

やはり、当初は、ナット・キング・コールやチャールズ・ブラウン・タイプのものをやっていたが、徐々に何かをつかみだすようになる。初期のセッションも、レイによれば、アトランティックのアーテガンらはスタジオにはいるが、レイがやりたいように、やらせてくれた、という。

レイ・チャールズは、アーティストとしてアトランティックと契約していたが、レコーディング・セッションのアレンジャーとしての仕事なども他のアーティストのためにこなしていた。特に、楽譜が書けるという点はスタジオ・ミュージシャンを使うときには非常に有利で、いろいろと仕事が回ってきた。

そんな折り、1953年9月。彼はたまたまニューオーリンズに仕事でいった時、ブルーズ・アーティスト、ギター・スリムのレコーディングのために、アレンジを付けた。レコーディングはニューオーリンズで、そのセッションの中に「ザ・シングス・ザット・アイ・ユースド・トゥ・ドゥ」という曲があった。これは、54年1月から大ヒット。ビルボードのジューク・ボックス・チャートで14週間も1位になり、当時でミリオン・セラーになったと報告されている。レイは、この曲でピアノも弾き、アレンジもした。 そして、何より、ギター・スリムの声にゴスペルのソウルフルなコーラスが加わり、何ともいえぬ味わいを出していた。

レイ・チャールズ本人も、アトランティックのアーテガンも、プロデューサーのジェリー・ウエクスラーらも、この時点では、まったく意識していなかった、ゴスペルとブルーズの融合だ。それが、一つのスタイルとして確立し、認識されるまでにはまだしばらく時間がかかった。だが、ここにその時点では、まだだれも認識しなかったレイ・チャールズの独特のサウンドの第一歩が築かれたのである。

そして、5枚目の「イット・シュドブ・ビーン・ミー」(ATLNTIC 1021)が、54年4月からチャート入り。ビルボード・ジューク・ボックス・チャートで5位、 ベスト・セラー・チャートで7位を記録。以後、徐々にヒットをだすようになる。

この頃から、レイは自身のバンドを結成しようと考え始めていた。レイは、ブッキング・エージェントの勧めで、当時大人気だったルース・ブラウンとのバンドを作ったり、ワン・ショット的なバンドでレコーディングしたりしていたが、ついに54年11月、自身のバンドを結成する。

このとき、レイは、アーテガンとジェリー・ウエクスラーをアトランタに呼び、自分の新しいバンドを聞いてもらった。ウエクスラーが振り返る。

「彼のホテルで落ち合って、われわれはその向かいにあるロイヤル・ピーコックというクラブにいったんだ。午後だったが、彼のバンドがいて、みんないつでも準備万端という感じだった。レイがピアノのところに行き、カウントし、彼等は『アイヴ・ガット・ア・ウーマン』という曲をプレイし始めた」

まさに、これこそは黒人の教会音楽ゴスペルとブルーズの融合だった。レイが振り返る。

「ワシは、スピリチャルな音楽を3歳のときから歌ってきているんだ。そして、同じ位長い間ブルーズを聞いてきている。それが一緒になることは極めて自然なことだろう。何かを考えたり、計算したりしてすることではない。すべてのサウンドは、ワシの頭の中で一緒になっているんだ。ナット・コールを真似することは、ある種の計算が要求される。そこに声を合わせなければならないからだ。もちろん、それをやることも好きなんだが、 やりがいがないんだな。だが、ブルーズとゴスペルのコンビネーションは、とてもやりがいがある。何も計算はしなくてもいい、ただワシが初めて触れた音楽に正直になりさえすればいいんだ」

ゴスペルをブルーズと融合したことで、ゴスペル、教会音楽を冒涜したといった意見が出たのも事実である。レイもそういう声は聞いた。

「最初はそうだった。だが、人々は、段々とわかってくれるようになった。つまり、この人物はただ感じたままに歌っているんだ、ということを。 そして、彼は彼自身が感じたままに歌うべきなんだ、と。それがわかったときが、私がもうだれの真似もすまい、と決心したときだった。自分に言い聞かせたんだ。『OK、レイ。レイ・チャールズの様なサウンドにするんだ。 自分自身になれ』とね。そして、自分が自分になった瞬間からもう私は他の誰にもなれないと確信した」

レイ・チャールズの「アイヴ・ガット・ア・ウーマン」は、55年1月から大ヒット。ビルボード・ジューク・ボックス・チャートでも 1位になり、これはレイを広く黒人社会に知らしめる記念すべき作品となった。


ACT SIX ABCへ移籍。カントリーにも手を出し、広範なファンをつかむ

レイ・チャールズは、以後コンスタントにヒットを放つ。「ア・フール・フォー・ユー」、「ドロウン・イン・マイ・オウン・ティアーズ」「ロンリー・アベニュー」…。しかしこうしたヒットは、いずれも黒人コミュニティーだけのものだった。レコードは、黒人音楽だけがかけられるラジオ局でかかり、黒人がオウナーの小さなレコード店を中心に販売されていた。

そして、59年 7月、「ワッド・アイ・セイ」が登場する。この教会の「コール・アンド・レスポンス」を取り入れた作品は、白人ラジオでもプレイされ、白人社会でも大変な支持を受けたのである。R&Bチャートで1位、ポップでも6位を記録したこの作品は、レイのポップ部門における初めてのトップ10ヒットとなり、ミリオン・セラーとなった。

レイ・チャールズ、ブラザー・レイは、もはやアメリカの顔となった。そして、絶好調となったレイにレコード会社移籍の話が持ち上がった。これまでの実績を背景に、メジャー・レーベルのABCが、非常にレイにとってよい条件を提案してきたのである。多額の契約金、長期間に渡る契約、アトランティックよりも高いロイヤリティー・レート、さらに原盤権、音楽出版権、レイのレコード会社の設立までも含められた契約だった。

レイは、これらの条件をのみ、59年11月ABCに移籍する。ABCからの最初のヒットは、60年 6月からの「スティックス・アンド・ストーンズ」だが、以後もアトランティック時代以上にコンスタントにヒットを出すようになる。そして、音楽的にもレイの守備範囲は、広がってきた。ジャズのアルバムを作ったり、カントリーにも進出する。

レイが、初めてカントリーのアルバムを作りたいとレコード会社に提案したとき、レコード会社の社長は、レイがそれまでのファンを失うだろう、と忠告した。レイもそう考えた。だが、彼はさらにこう思ったのである。つまり、失うファン以上に多くのファンを獲得出来るだろうと。そして、レイ・チャールズは「ジョージア・オン・マイ・マインド」そして、「アイ・キャント・ストップ・ラビング・ユー」をレコーディングしたのである。前者も全米ナンバー・ワンになり、ぜいたくなストリングスを含んだオーケストラをバックに従えた後者は、62年 5月からヒットし、R&B、ポップ両方のチャートで 1位になり、当時で 300万枚のセールスを記録、爆発的ヒットとなり、レイ・チャールズの名を世界的に決定付けた。


ACT SEVEN ドラッグ・ゲームをサヴァイヴァルして


ヒットが出始め、金にも不自由しなくなると、レイは当時のミュージシャンの誰もがそうであったように、ヘロインに手を出すようになる。エンタテイメント・ビジネスにおける、激烈な競争。いつ次の新人に追い落とされるかも知れぬ恐れ。多くの人の前で歌うことのプレッシャー。そうした様々な現実から逃避しようと、多くのアーティストがドラッグにそのはけぐちを求めた。レイ・チャールズは、40年代中頃から手をつけるようになり、50年代にはいると中毒になった。1958年にはフィラデルフィアで、1961年にはインディアナポリスで、1964年にはボストンで麻薬所持の疑いで逮捕されている。

インディアナポリスでレイに面会したインディアナポリス・タイムスの記者は、後に作家のアーノルド・ショウに対して、レイの様子を「非常に落ち込んで、悲しそうだった。彼は監獄の中のベンチにすわり静かに泣き出し、自分を失い始めた。彼は言った。『妻や子供達にどうしていいかわからない。1ヶ月も先まで仕事があるというのに』」と語った。

そして、64年の逮捕は、それまで15年間まったくオフらしいオフをとってこなかったレイに初めてのオフを与えることになった。

1965年、レイは1年間のオフをとり、ドラッグをやめるために苦悶の日々を送ったのである。そして、裁判所はレイが本当にドラッグを断ち切ったかどうか見極めるために、判決をさらに1年猶予した。レイは、最後の審問を終え裁判所から出るときのことを自伝『ブラザー・レイ』にこう書き記している。

「(この法廷を)私は、入ってきたときと同じような私自身として出ていくだろう。この出来事を終えてみて、私の体が以前と違っており、新たな人生を得たような感じだと言えると思う」

この時、審理中の裁判官が病気で別の裁判官に代わったが、最初にこのケースをてがけた裁判官が新任の裁判官に、死の床から一通の手紙を出した。そこにはこう書かれていた。

「この件は、既に私の手から離れていることは重々承知ですが、仲間のひとりの人間として、これは言っておきたい。レイ・チャールズを自由の身として、ドラッグを断ち切って更生した良い例として、世界に見せたほうが、彼を刑務所に入れるよりも、社会にとっても有益ではないでしょうか」

レイは晴れて自由の身となり、再びミュージシャンとして精力的な活動をつづけることになる。

60年代から活躍するアーティストならば、程度の差こそあれ、ほとんど誰もが一度は通るドラッグ問題。ある者は、それで命を落とし、ある者は、命は取り留めるもののアーティスト生命は失う。そして、ある者はそこから立ち直り、見事に次のディケードをサヴァイヴァルする。レイ・チャールズは、そのサヴァイヴァル・ゲームの勝者だ。

60年代に、彼等のような黒人スターが直面した最大の問題は、人種差別だった。特に南部では差別が激しく、レイでさえも黒人専用のトイレを使ったり、出入り口も裏口を使わなければならなかったという。レイは言う。

「レストランで裏口からしかはいれない。まあいいだろう。それはあんたのレストランなんだからな。だが、ワシがワシの音楽を人々にプレイするときには、黒人専用の後ろの席に座れなどとは言わせないぞ。それで訴訟になったこともある。ワシの態度はこうだ。ワシのオーディエンスが、私を作った。そういうみんなが、座りたいところに座れないというのは、まったく納得出来ない、というこ
とだ」

66年から73年までの間、レイは相変わらず精力的に活動を続ける。レコーディング、ツアー、レコーディング、ツアー。この繰り返しで、年に30週以上は必ずロードに出ていた。自らのレーベル「タンジェリン・レコード」の運営もてがけた。ここでは、メインストリームではない、ジャズや実験的な音楽を作り、新人の発掘、育成にも力を注いだ。


ACT EIGHT クロスオーヴァー・レコード~経済的自立と
音楽的自立を求めて


1973年、ABCを離れ、第二のセルフ・レーベル「クロスオーヴァー・レコード」を設立。自らの作品もこのレーベルから発売することになる。彼は、60年代の初期から、自宅にスタジオを構え、自分の作品のレコーディングはもちろん、ミキシングなどの作業も自分の手でやるようになっていた。その様子などは、ドキュメンタリーの中でもほんの少し見られるが、あらゆる面で、彼は自立しているのだ。そして、仕事のペースはまったく落ちることがない。

そして、60年代に設立した「タンジェリン」に続いて、彼は心機一転この「クロスオーヴァー」を発展させようとした。黒人ミュージシャンがレーベルを持つということは、もちろん、経済的な自立でもあり、また、音楽的な自立をも意味した。つまり、レコーディング・セッションから、プロモーションまで、1枚のヒット曲を生み出すまで、様々な点において黒人自身が管理運営することによって、そこから生まれる「金」を黒人コミュニティーに還元することが可能になる。黒人のプロモーション・マンを雇ったり、黒人のツアー・メンバーを雇ったりすることができるというわけだ。もちろん、白人のレコード会社でも、そのようなことは可能だったが、黒人運営のレコード会社では、その可能性がもっと広がる。

さらに、音楽的な自立も大きなポイントである。レイ自身は、このレーベルについて「ここでは、だれでも来て、歌いプレイし、やりたいことをやってもらっていい。そして、別の分野の音楽をやってもいいんだ。ジャズをやりたければ、ジャズをやってもいいし、R&BをやりたければR&Bをやってもいい。つまり、名前通り、『クロスオーヴァー』するわけだ。ここでは、黒人にも白人にも受けるようなエンタテイナーを育てたい」と語る。

ミュージシャンがやりたいとおもったことを自由にやらせる。そして、そこから何かを生み出す。音楽的自立である。

こうした強い自立心は、レイが母親から学んだことでもある。幼い頃母と死に別れたレイは、母親からこう言われていたことを思い出す。

「母親は、自立ということをいつも強く言っていた。その頃はよくわからなかった。だが、きっと子供を育てていく上での、自立ということを言いたかったのだろう。子供がある方法で育てられ、自分自身の中に信念を持ちなさいと教えられ、それを勇気付けられていたら、それが自分自身の自信へとつながっていくだろう。そうすれば、何か悲劇に直面しても、それに対処する方法があるというわけだ」

結果的には、この「クロスオーヴァー・レコード」は、レイが望んだほどの大成功は収めなかった。しかし、70年代中期以降、ソウル・ミュージックのポップ・マーケットへのクロスオーヴァーが大きな流れとなり、クロスオーヴァーという言葉自体が広く使われるようになったことを考えると、レイが50年代から考えて来たコンセプトが、 70年代になってようやく一般に浸透したということになり、レイの非常に卓越した先見の名がはからずも明らかになったといえる。

彼は50年代から自分の音楽がカテゴリーに入れられることを嫌って来た。ジャンル分けされることを嫌い、自分は常にグッド・ミュージックを演奏して来たという。

「ワシの音楽が、R&Bと呼ばれるのなら、それは受け入れよう。だが、人がその音楽にどんな名前をつけようがワシは全く気にしない。ワシは、ただワシが感じた音楽をやっているだけだ。ある人は、ワシの音楽を聴いて、教会の影響があるといったり、ジャズがルーツだといったりする。だが、ワシの音楽はワシが家にいてやってきたことから始まっているんだ。つまり、ワシは人生について歌っているだけさ」

レイ・チャールズの最大の魅力は、 その声にあるといってもいい。それについては、ドキュメンタリーの中でも少し触れられているが、独特のダミ声は一聴すれば、彼とわかる。そして、彼のどのような音楽ジャンルでも貪欲に取入れる姿勢も大きな魅力だ。

77年、彼はいったん古巣のアトランティックに戻り、83年、CBSに移籍。90年、ワーナーに移籍。最新アルバムは、ワーナーからの『ウッド・ユー・ビリーヴ?』。

最近は、60年代程の大ヒットはないが、何と言っても1985年のクインシー・ジョーンズがプロデュースした「ウイ・アー・ザ・ワールド」のセッションにおけるレイの存在感は、見る者、聞く者を圧倒した。そして、89年12月に発表されたクインシー・ジョーンズのアルバム『バック・オン・ザ・ブロック』での「アイル・ビー・グッド・トゥ・ユー」のチャカ・カーンとのデュエット。レイが「Qが必要なときは、いつでもワシはかけつける」という通り、レイはQのアルバムに登場した。

さらに、日本では90年のサントリーのCMで使われた日本の桑田圭祐の書いた「エリー・マイ・ラブ」の大ヒットが記憶に新しい。かつて、ビリー・ジョエルは、どうしたらレイ・チャールズの様に歌えるのだろうか、と研究したという。レイは、ビリーにとって最大のアイドルだった。そして、レイの歌い方を吸収したそのビリー・ジョエルのファンになった男がいた。その男にとってビリーはアイドルだった。それが桑田である。その桑田の曲をレイが歌ったのである。歴史の座標軸は、ここで見事に一回転したのである。

レイ・チャールズはこれまでに、アトランティックで34枚、ABCで24枚、タンジェリンで 3枚、クロスオーヴァーで 4枚、CBSで3枚、ワーナーで 1枚のアルバムをレコーディングしている。ヒット・シングルも80を超え、ソウル・チャートにおけるナンバー・ワンも10曲にのぼる。グラミーも12を数える。(グラミー賞の数は2004年まで)

文字どおり、レイ・チャールズは、アメリカ音楽界の金字塔だ。


ACT NINE ブラザー・レイの「ソウル」


レイ・チャールズが「自分自身になるのだ」ということを悟った瞬間から、彼は新たなる音楽界のパイオニアとしての道を歩むことになった。50年代という音楽が劇的に変化した時に、絶妙のタイミングでシーンに登場したレイ・チャールズは、音楽的にも、ゴスペルとブルーズの融合を果たし、R&B、ソウル・ミュージックの大きな枠組を作り上げた。そして、また、彼は音楽を愛し、自分が感じた音楽を、自分がやりたい音楽をやり抜くというアーティストが持つべき姿勢をかたくなに守り通している。ジャズに感じれば、ジャズを、カントリーに感じれば、カントリーを、ゴスペルに感じればゴスペルを、その瞬間、アーティスト、レイ・チャールズをインスパイアーした物が、レイ・チャールズのフィルターを通し、新たなレイ・チャールズ・ミュージックとして生まれる。そして、その新たなる物を生み出すことをクリエイトする、と言う。レイは40年にわたり音楽をクリエイトしている。

それに加え、レイ・チャールズは、ビジネス面でも、自身のレコード会社を設立するなど、60年代の黒人アーティストとしては、サム・クック、ジェームス・ブラウンなどと並んで、成功した。

「ソウルとは何か」という問に、「レイ・チャールズ」と答えれば決して間違いではない。多くの人は、レイ・チャールズをソウルのオリジネイターと呼ぶ。ソウルとは、そのアーティストの中にある本物の何かを本気であぶり出したときに出る物だ。ブラザー・レイが、「アイ・キャント・ストップ・ラビング・ユー」を歌うときも、「ワッド・アイ・セイ」で絶叫するときも、そしてしっとりと「エリー・マイ・ラブ」を歌うときも、彼はシリアスでリアルだ。そして、そこには常に「ソウル」があふれ出ている。レイ・チャールズの歴史は、またソウルの歴史であると言っても過言ではない。そして、ソウルの歴史を語るとき、レイ・チャールズを抜きにして語ることは出来ない。

60年代以降、彼の音楽と歌のスタイルは黒人だけでなく、多くの白人ミュージシャンにも多大の影響を与えた。ライチャス・ブラザース、ジョー・コッカー、スティーヴィー・ウインウッド、そしてこのドキュメンタリーにも登場するビリー・ジョエルなどもレイの影響を受けたアーティストのほんの一部である。

86年には、彼はアメリカ文化に貢献した人に与えられる「ケネディー・センター・アワード」(日本でいえば、文化勲章、国民栄誉賞のようなもの)を、当時のレーガン大統領から授与された。その席上で、彼はセント・オウガスティンの生徒たち、つまり自分の卒業した学校の子供達の歌で迎えられた、という。盲目にして、孤児、しかも人種差別が特に強かった頃の黒人。絶望のどん底から唯一音楽だけを頼りにはいあがったレイ・チャールズ。その音楽は自身のソウル(魂)の叫びを表現し、そして、そのソウルの叫びは、世界中の何千万人の人々に到達した。彼もまたアメリカン・ドリームを現実化した人物であると同時に、もっとも多くの人にソウルを伝えた偉大なソウルの伝道師でもある。


これでこのレイ・チャールズの『ジーニアス・オブ・ソウル』のビデオ・ソフト(LD)はもうおしまい。いかがでしたか。このビデオ・ソフト(LD)があなたの映像ライブラリーにおいて愛聴盤となることを願って・・・


[FEBRUARY 11、 1992: MASAHARU YOSHIOKA]
"AN EARLY BIRD NOTE"


【参考資料】
「スイート・ソウル・ミュージック」(ジェリー・ハーシー著)
「ブラック・ミュージック誌」1974年5月号。
「ロスアンジェルス・タイムス」1989年5月28日付け。

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このドキュメンタリーについて

このドキュメタリーは、日本のビデオ・アーツ社がアメリカのビデオ・ソフト制作会社と協力して制作したレイ・チャールズの生涯
を描いたものである。

全体的な監督を、ここでナレイションを担当しているイヴォンヌ・スミス女史がてがけ、様々なアーティストや関係者にインタヴューし、さらに古い映像なども集めて、編集した。もちろん、レイの60年余にわたる生涯をわずか一時間に凝縮することは、不可能に近いが、これまでまとまったレイ・チャールズの映像作品がなかっただけに、様々な貴重な情報を得ることができる。

内容は、じっくり御覧頂くとして、ここでは、二つの点を指摘しておきたい。

レイ・チャールズの最大の魅力に、その声と声色、歌い方が上げられる。独特のダミ声だが、その魅力は、決して文字で表現するこ
とは出来ない。その声色をここでは、ビリー・ジョエルが実にうまく真似る。こうした部分は、文章のドキュメンタリーでは決して表現出来ない、声と映像があって初めて生き生きするところである。映像ドキュメンタリーのもっとも有利な部分だ。そのあたりは、十分に楽しんで頂きたい。もちろん、貴重な古い映像からの、彼の若いときの動く姿などは、感激ものである。これも決して文字では伝えられないものであり、十分楽しんで頂きたい。

もう一点、インタヴューに登場するデイヴィッド・リッツについて。彼は、レイ・チャールズの唯一のバイオグラフィー『ブラザー
・レイ』の著者である。この著作は、正確にはレイ・チャールズが語ったものを、デイヴィッド・リッツが書き記したもの。78年に発
売された。

かなり詳しくレイの生い立ちが書かれている。この映像ドキュメンタリーのベースとなる部分は、この本にかなり負っている。筆者が、このライナーノーツで書いたバイオのために様々な資料を当たったが、その中でも、いくつかの文献が『ブラザー・レイ』から取
られていた。

このデイヴィッド・リッツは、後に84年4月1日、父親の銃弾に倒れ死去するマーヴィン・ゲイのバイオグラフィー、『ディヴァイデッド・ソウル(引き裂かれたソウル)』を書く人物である。その徹底した調査、取材ぶりは定評がある。

リッツは、その『ディヴァイデッド・ソウル』の後書きで、レイとマーヴィンを比較しマーヴィンはインタヴューなどしたいときには、いつでも話をしてくれ、また本の企画を始めても、印税などのビジネスなどの話は何もしなかったが、レイは事前にそうしたことをきちんとし、インタヴューも事前のアポイントを取りやらなければならなかった、と書いている。二人のまったく違ったソウルの個性の違いがよく出たエピソードである。それにしても、レイ・チャールズとマーヴィン・ゲイの徹底したバイオグラフィーを書けるなんて、音楽ジャーナリスト冥利に尽きるだろう。

最近の音楽家のドキュメンタリーとしては、クインシー・ジョーンズのものがアメリカで制作され、公開され、筆者も日本で試写を見せてもらった。約2時間に渡るもので、かなり密度の濃いものだった。

そのクインシーの一生の描き方、ドキュメンタリーの表現方法については、様々な意見があり、筆者自身も、あの方法がベストとは
思わないが、一人の人間の一生を描く場合、10人のドキュメンタリー作家が作品を作れば全く違った10本のドラマが出来るもので
ある。そこで思うのは、やはり先ず一本は非常にベイシックな、そのアーティストの一生を年代順に、追っていくという方法の作品を作らなければならない、ということである。そして、一本そういうものが出来たならば、次にその一生の中でどこかに焦点を当て、ユニークな切り口で、その人のドラマを見せてくれるといい。前者は、ストレート、後者は変化球とでも言おうか。

このレイ・チャールズのドキュメントは、前者の基本形である。さて、視聴者としては、もし、次にレイのドキュメントが作られるなら、どんなところに焦点を当てたものを見たいか。

例えば、こんなテーマはどうだろう。「レイ・チャールズ&ヒズ・ウーマン」。レイ・チャールズは大変な女好きである。この本編の中でも触れられているように数人の女性の間に9人の子供を設けた。一体彼の女性に対するコンセプトはどういうものなのだろうか。レイレッツのメンバーや、別れた妻にいろいろとインタヴューすれば、レイの女性に対する考え方の一旦が分かるかもしれない。

例えば、彼のキャリア、人生におけるターニング・ポイントを探るということも出来る。弟の溺死を目撃した5才のレイ少年はどの
ようなショックを受けたのか、それがその後の人生にどのような影響を与えたか。同様に、父親、母親の死が彼に与えた影響はどんなものだったか。母の死については、このライナーでも少し触れたがもっと突っ込んだインタビューも聞きたい。

さらに、ドラッグと彼のキャリアについての関連性も知りたい。なぜドラッグに走ったか。それは、ショウ・ビジネスの世界におけ
るプレシャーが余りにきついためか。それとも、本編のなかで一言触れられているように、いつも仲間と一緒にいたかったからか。ドラッグをやることによって、生み出す音楽は変わったか。3度の逮捕をとおして、どのように人生観が変わったか。おそらく1965年の一年のオフにドラッグを断ち切るために入院したことは、大きなターニング・ポイントになったはずだが、それ以前とその後のもっとも大きな違いは何か。

レイ・チャールズの音楽ほど、多様性のある音楽はない。ゴスペル、ジャズ、R&B、そしてカントリー。どのような経緯で、この
ような音楽をすべて融合することになっていったのだろうか。この点については本編の中でも触れられているが、レコーディング・セ
ッションの様子なども見てみたい。

また、人種差別の厳しかった50年代から60年代にかけてを過ごしてきたレイ・チャールズだが、レイに人種差別についてじっく
りと語ってもらうのも見たい。

このような視点で、レイのキャリアを振り返れば、レイのドキュメンタリーの2~3本は、まだまだ出来るだろう。

何しろ、彼は40年以上現役でやっている人物である。彼そのものが歴史なのだ。

そして、歴史は後世に語り継がれるべきである。このビデオにはその歴史の一部が語られている。

 これでレイ・チャールズの『ジーニアス・オブ・ソウル』のDVDはおしまい。いかがでしたか。この作品があなたの映像ライブラリーにおいて愛聴盤となることを願って…

(1992年記・吉岡正晴)

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(このライナー原稿は、92年に発売されたレイ・チャールズのヴィデオ・ソフト用に書かれたものです。その後、99年にDVD化
された時にDVDのライナーノーツに転載されました)

レイ・チャールズ(1930.9.23 -2004.6.10)

レイ・チャールズは、2004年 6月10日、73歳で死去されました。


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