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2024年3月11日〜17日:いままで私は少し誤解しながら選んでた気がする

何かを変えようと新しい事を増やすより、いままでしてた何かを減らす方が新鮮な流れが入ってきやすかったりするのかな。なんだか今はそんな感じがあってるみたい。SNSを自然とあまり見なくなったら(Instagramなんて開こうとすると少し重い気持ちが出るようになってびっくりした)、私の外からの受動的なインプットはなくなって、その余白にただただ私の暮らしがのびのびと広がってきた。余白のできたところに流れが入り込みやすくなり、自然と心地よい流れが出てきた心地がする。

SNSの流入を減らしただけで!?と思ったけど、それが私にとっては結構大きな割合を占める外側の情報源だったのかも。元々個人で仕事してるし、特に今は本当にのんびりやれてて仕事がらみのしがらみもない。対人関係に関しても今はもうざわざわもなくやれてるし、ほとんど親族としか関わりがなく、みんなやさしい。近所の人たちもいいひとたちだし、時折やりとりする友人たちも。テレビもラジオもほとんど接しないし、アニメを観るくらいで。比較やジャッジをせっせと育みたくなる媒体はSNSがメインだった。

それがなくなって、SNSをぼーっとみてる時間が減ったってだけじゃなくて、自分軸からそれて気持ちが変に揺らされることが減ったことの方が大きいような気がする。自分でいられてる時間が増えたのかもしれない。そして、自分の暮らしを眺めて、いいなぁ、しあわせだなぁというような気分に浸る事が増えた。

ふしぎだよな。見ると揺らされるのに、つい見てしまってたのは、そこから何かを得られるような気がしてたのもあるし、見たくないのに、自分の比較の気持ちを増幅させるようなものをつい見たくなって開いたりしてた。見たくないのに見たくなる。触れたくないのに触れたくなる。それは、見たいし触れたいものだったんだもんな。比較して、優劣つけて、バカにしたり、落ち込んだり。ふしぎだ。

そう、自分でいられてる、というような気持ちではあるけど、自分に意識が向いてるというより、なんだか間にあるような、そんな気分になることが増えたな。私でありながら、それを見ている私がいて、ここにある全体を感じているような。自分自身の反応を見て笑っちゃったりするようになって、色々気楽になった。ネガティブな反応を見せても、焦っても、慌てても、娘を見てる時のような気分で何やってんだろ、とゆかいな気分で眺めてる。

前は、自分から意識が離れると、誰か他の対象に意識がのってたのに、今は例えば娘にのりかかってるってこともなく、その場に私が広がってる。娘に対しても前よりずっと距離がとれて、彼女の人生に変に覆い重なるような気分にならなくなったというか、なんだろな、言葉で説明しづらいけど、前も別の人間と思ってたけど、よりそんなふうに感じていられる。相手にぐっと入らない方が自然と関われるんだなって、なんかそんな感じ。ぎゅっと力を込めるんじゃなく、ふわっと触れられる感じがする。


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