自分の生い立ちから

父さんと会った。そこで色んな話をした。
生まれてからどうだったのか、小さい頃は何が好きだったか。
これをかなりたくさん話して、いろんなことをたくさん思い出した。
いい機会なので、今までの自分の人生をノートにまとめてみることにする。

乳幼児期

2005年の8月9日に生まれた。
身長体重はほぼ平均で発育もそこまで大きな問題はなかったそうだ。

人生で一番古い記憶は八事日赤の食堂。あの病院特有のカレー(加齢)臭い食堂の匂いを感じると今でも鮮明に思い出す。

自分は両耳に耳瘻孔という穴がある。これは耳の完全でない歪な形成によってできる小さな穴で、これが垢の蓄積で膿みやすい。

案の定自分も1歳あたりに左耳が膿んでしまって、手術する羽目になった。

幼児の手術だから全身麻酔で、自分は覚えていないけれども麻酔時のぎこちない笑顔が見ていて辛かったと今でもたまに母が話す。

それからほぼ1年間八事日赤に通い続けた。
母は運転免許を持っていないからに、小さくも飽きるほど歩いたそう。
運動神経はないが、このおかげで人一倍歩くことが得意になる。

幼稚園に入園する。
この幼稚園は珍しくも全くにお勉強がない幼稚園で、のびのびと過ごした。

年少の頃は気が弱く、しょっちゅうお友達になにかされては泣いていた。

年中になると、年少の頃によく泣かされていた気が強い「リキくん」と仲良くなり、ほぼその子といっしょに過ごすようになる。
他にも、今でも連絡を取り続けているくらい仲が良く、親のつながりが強かった男の子、女の子もたくさんいた。

家庭では、両親が食事のマナーに大変厳しくしつけをしたので夜ご飯が苦痛でたまらなかった。好き嫌いは一切許さず泣いても口に押し込み、お腹がいっぱいになっても無理やり食べさせられた。

だけれども幼稚園の生活に大きな不満はなかったように思えるし、両親からの愛はたくさん感じていた。
発育にも大きな問題はなく、小学校に入学することになる。

児童期

小学校に入学する。
そこまでに生徒数は多くない小学校だった。

1年生では自由気ままに過ごした。授業参観で鉛筆を耳に突っ込み宇宙と通信したり、上級生に生意気な口を聞いて2,3年は残った鼻の傷を作ったり、字が汚すぎると先生からお叱りを受けたり。学校は面倒くさかったが、行きたくないわけではなかったと思う。

2年生では少々やんちゃをした。
担任が新任の男性教師であり、少々クラスが荒れた。(荒れたと言っても、柄が良い地域だったのでそこまで)

前期はおとなしかった気がするが、後期になるとたくさん喧嘩をした記憶がある。

理由はすごくくだらなくて、あいつが俺のセロハンテープを壊しただとか、俺の定規を折っただとか。

宿題もろくにやらず、後期は本当に宿題を出していなかったと思う。
これを母に半年間隠して生活したのだが、バレたときはもうひどかった。
もともと勉強はちんぷんかんの母だったが、提出物等は人一倍厳しかったので、これ以上にないくらい怒られた。

学期末に新任の男性教師が移動することがわかった。
今思えば多分左遷だろう。なんせクラスが荒れていたから。

修了式で号泣した。これが初めて人に向けて流した涙と覚えている。
帰り道でも泣き続けた。

3年生になると少し落ち着くようになる。
担任は石井先生。当時で26歳の女性で、凛として厳しい人だった。

生活面が頓珍漢の自分は、本当に世話になった。
忘れ物をしたとき、宿題を忘れたときはしっかり叱られた。

ただ、その先生は自分を「こうちゃん」と呼んだ。
なぜか自分を気に入ってくれて、たくさん世話になった。
自分で言うのも何だが、結構問題児だった自分を普通の生徒まで軌道修正してくれた本当にありがたい先生だった。

4年生
名古屋市の小学校は部活が4年生から始まる。
部活はこれまで続けてきた野球に入り、6時まで学校で練習した。
学年の3分の1の生徒が野球部に入ったので最初はビビったが、
経験者の自分はすぐに1軍には上がれた。

自分の小学校の野球部は強い方で、結構練習も厳しく
監督がこのご時世に信じられないくらい走らせてきたのを覚えている。
でも楽しかった。少し暗くなった帰り道を帰ることがとても好きだった。

5年生
学校生活が軌道に乗ってくる。
別け隔てなくみんなと仲が良く、代表委員という生徒会もどきまでやった。
担任の先生も、女だけど下ネタ好きという変わった人で好きだった。
3年の担任石井先生も隣のクラスの担任で、とても過ごしやすかった。

遠くへ自電車で行くことを覚えて、放課後に東山動物園だったり、星ヶ丘の三越、牧野ヶ池公園、終いには栄まで行って遊んだ。

子ども会のソフトボール大会で3位まで勝ち進んだし近所の人にも顔が利いて、みんな「こうちゃん」と呼んでくれた。

学校でも友達、先生までもが自分を「こうちゃん」と呼んでくれて
クラスでも中心にいる方だった。

クリスマスに母が俺をいつも通り「こうちゃん」とよんだ。
ただ、聞いたことのない声色だった。

「お父さんと離婚します」「お母さんについてきてくれるよね?」

そこで父さんが3回浮気を重ねたことを聞かされた。
家が本当に貧乏であることを聞かされた。

今までそんなことになんて気づかなかった。
それは母が必死に金の工面をして、自分に気づかせないよう努力してきたからだった。

結構に辛かった。
これまで自分は「リコン」とか「フリン」とか「ビンボウ」なんて言葉とは無縁の人間だと思ってきた。
テレビでそれを笑い飛ばす方の人間だった。

だけれども、自分が当事者だった。自分が、まさか自分が。

家族?会議があった。
焦点は自分の親権。自分がどっちの親についていくか。
ここでその判断は自分に委ねられた。

11歳の息子にどっちについて行くか判断させたのは今でもひどい話だと思っているし、父か母が自分を強制的に連れて行ってしまう方が何倍もマシだった。

この判断が残り90年の人生に与える影響は計り知れないくらい11歳でも分かる。かといってこの判断ができるほどに自己が発達しきっていない。

11歳。一番中途半端でひどい年齢だと思う。

自分はは父さんが好きだった。お父さんっ子だったと思う。
何より辛かったのは、好きだった父さんが最低な人間で自分を裏切っていたことを知ったこと。家族の母さんが家族の父さんを嫌っていることだった。

最初から母さんについていくことは決めていた。(先手を打った母さんの戦略勝ち)
問題はそれをどのように父さんに伝えるかだった。
父さんが悲しまないような伝え方を模索した。
結局「弟と妹と一緒に過ごしたい」と言った。
別にそんな事正直どうだっていいのに。

親は人間なんだと再確認した。
完璧でなくて、限界もある。性欲だってもちろんある。

学校ではみんなが泣いて送り出してくれた。

クラスの2人以外全員が泣いてくれた。

石井先生も泣いていた。
今まで強く見えていた母親が急に人間に成り下がったから、
頼れる、強く絶対的な存在がなくなったから
石井先生のハグが安心した。
もともと母と重なる部分が多い先生だったから、余計にだった。

引っ越した。
転入先の小学校に在籍するのは1年だけ。

友達を作ろうと爽やかに元気よく挨拶した。
友達は直ぐにできた。隣に住んでいた子のお陰だった。

とにかく先生が厳しかった。厳しいと言っても今までにない厳しさだった。

大金を持ち運んでいる子が多かったことが衝撃だった。
子供ながらに、前住んでいたところの柄の良さを実感した。

担任が異様に厳しくとにかく鍛えられた。
この1年間で謝り方を覚えた。コツは怖いぐらいにまっすぐ謝ること。

もともと狭いと感じていた家は更に狭くなった。
外食も以前までは正直父さんの家がお金もちだったから
たくさん美味しいものを食べていた。
うなぎ、焼肉、懐石。ほぼ週1だった。

しかし引っ越してきて1ヶ月間外食はなかった。
5月はじめに連れて行ってもらったファミレスがたまらなく嬉しかった。

ビンボウであることをこれでもかと実感した。
引っ越してきて最初のうちのコメは古米だった。
本当に臭くてパサパサで食えたもんじゃなかった。

母さんは親権を取られないようにと必死に働いていた。
とにかく額面を上げて、信用を得るんだと話していた。

青年期

中学に進学した。
本当に暗黒時代だった。
部活は野球部に入ったが、つまらない言い訳をしてよく練習を休んだ。
勉強も全くやらなかった。順位はだいたいいつも20番くらいだったが、田舎の公立中学の20番なんて日東駒専程度の大学に行ければ万々歳の順位。

とにかくカードゲームに熱中した。
小遣いでカードを買いまくった。
1枚5000円のカードも躊躇なく4枚揃えた。
週末はもっぱら大会に出場し、ひたすらにプレイした。

学校は全くつまらなく、よく徹夜をして学校で寝た。
国語の先生から「あんな人放っておけばいいんです」と言われたことを覚えている。
学年主任にはなぜか気に入られて、学級委員を4回ほどやった。
みんなの前に立って、点呼をして、皆の代表みたいな顔をして。

自分の家庭環境がコンプレックスだった。
周りと比べて落ち込んで。
母は劣等感を感じないよう、学校のものは金に厭わず何でも揃えてくれていたが、それは自分のコンプレックスを決して軽減しなかった。

叔父さんが両親はデキ婚であると口をすべらせた。

絶望した。自分がいなければ父も母もこんなに苦労せずに済んだのか。
自分は望まれていなかったのか。大層な言い方をするが、俗に言う忌み子だった。

中絶を母方の祖父が止めたことを知った。
逆に言えば、祖父が止めなければ自分は両親の手で殺されていたんだ。
言い過ぎじゃない、本当のことだ。

大げさかもしれないが本気で世界に絶望した。
これは長かった。もちろん今でも完全に消化できていない。

クソな(当時の主観)世の中の仕組みに興味を持った。
中学3年になると共産主義、マルクス主義に傾倒した。
当時は本気で社会主義に惹かれていた。自分がビンボウだからだった。
(すぐに熱は冷めるが)
その他にもひたすらに本を読みまくった。
難しい本でも、内容がわからなくてもとりあえず読んだ。
経済、哲学、政治。コロナも重なった事によってより関心が強まった。

受験が近づいてきた。
面談で偏差値40程度の高校をおすすめされた。
提出物を全くこなしておらず、内申は24。
当然だった。

これがプライドに大きな傷をつけた。
ここから椅子に座る訓練から初めて、そこそこ勉強した。

結果、偏差値60程度の私立と、自称進学校もどきの公立高校に合格でき、
公立高校に進学することとなる。















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