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阪神淡路大震災から27年目の朝のこと

1995年1月17日。阪神淡路大震災の朝は、昨日のことのように覚えています。今朝みたいな寒くて乾燥した火曜日の朝でした。その日は、朝10時に亡くなった前職のPR会社のオーナーと新しいクライアントを紹介するための打ち合わせを予定していました。社長室に入ると彼が苦渋の表情で「関西で甚大な被害が出ている。まだ全容はつかめていないが神戸のメインのクライアントさんをサポートしなければならないので、今回の打ち合わせは申し訳ないが延期してほしい」と言わました。その朝の彼の横顔や眼鏡越しの目は今も良く覚えています。

その午後、1人でランチするために入った恵比寿の古びた町のラーメン屋の天井から吊るされた14インチのテレビで亡くなられた方の数が100人単位で増えていくのを呆然とみてみていました。最初は名前をアナウンサーが読んでいたのですが、あまりに増えて追いつけなくなって、エリアで100人単位で発表を繰り返していました。衝撃でラーメン屋の椅子から立ち上がることができませんでした。33歳ではじめて天災の怖さを知った瞬間です。そしてこの国で生きていくとはこうゆうことだと知った瞬間です。

過去に関東大震災があったということは理解していたし、その日の朝に高速道路が倒れているニュースをみてもリアル感が無かったのですが、画面越しに神戸の街が燃え、今も同じ国なのにそのこで苦しんでおられる方がいることすぐに助けにいけないもどかしさと、戦争でもないのにこれほどまでに多くの方が亡くなっている事実に何もできない自分に心が震えました。

この日のことは、29歳で母が突然亡くなったときと同じくらい私のその後の生き方と働き方に影響を与えました。生きたい人が死んでしまうこと。そして誰もがそのリスクがあると実感しました。もしかしたらその日から仕事を本気で向き合おうと思ったかもしれません。なぜなら助けるにはお金やネットワークがいるからです。気持ちがあっても被害に遭われた方に何もできない無力を感じたからです。まずはお金だけでも送りたい、納税だけでもきちんとしたい、助けてくれる海外の方にお礼がしたいと思った瞬間です。

そして27年後の朝。南の海で噴火が起こっています。遠い国にも地球全体にも被害が及ぶほどの大規模な天災になっています。地球側からするといつものことでも、私たち人間はいつも想定外と右往左往してしまうもの。天災は忘れた頃にやってくるは昔のことわざ。天災はいつもある。天災のリスクとは背中合わせ。

阪神大震災のときに外国の方がすぐに助けにきてくださいました。日本全国からたくさんの方がボランティアで現地に入られました。報道の方も命をかけて現地入りしました。その話はたくさんの方に聞いています。感動しました。

東日本のときは動けなかった自分の反省を活かしました。今も海の向こうでは戦争がはじまり、世界じゅうに感染症がおこり天災がありますが、そのななかでも生き抜いていく力を若い方にもってほしいです。想定外想定内も含めて人生はいろいろとあるから受け入れて前をみてほしいです。

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