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「ウイズコロナ」。震災の経験が生きた今回のこと

私が食のヘルスケアのマーケティングPRをしよう思ったのは約20年前に治らないと思っていた病気を助けてくれたたくさんの医療関係者がいたからです。そのときに「私は命は救えないけど、救う人たちのことを理解して広くその治療法を紹介することができる。それを私がやるべき」と確信をしたからです。

2020年6月1日。さり気ない普通の一日ではなくウイズコロナがスタートする日。当初予定されていた解除日で、都内の百貨店やジムがオープンする日。私たちオフィスワーカーのこれからの正しい働き方を見直す日。そして医療というこの国の安全と安心の根幹を支える人のことを考える日でもあります。

うちの会社は、都内に感染拡大が避けられないと思った3月25日頃バタバタとフルリモートにしました。知り合いの医療スタッフから「頼むから家から出ないで」という声が集まってきたからです。リモート実施前夜に全員でバタバタとzoomとチームスの使い方の社内講習を受けました。

翌日から毎朝全員で朝9時30分になるとzoomでの朝礼がはじまりました。その頃を振り返ると「どうなってしまうのか」という不安と「なんか新しいことがスタートする。社員を絶対守る」という軽い興奮がいりまじっていたのを記憶しています。

そして4月7日。東の窓から大きな満月、ピンクスーパームーンが上がりはじめた頃、緊急事態宣言を聞く特番を見ました。目の前の公園はお花見客が来ないようにずっと閉鎖されたまま。その入り口にいる警備員が職場を離れた頃でした。

一方そのころ私は私にしかできないことをしようと動いていました。医療ジャーナリストでもある私はたくさんの医療従事者と長い付き合いがあります。一般病院は多くの入院患者と手術予定の患者を抱え、救急患者や一般外来のオペレーションに苦慮していました。

感染症指定病院でない病院も、自治体からの要請で陽性患者の多くを受け入れていました。症状が軽い方でも検査で2回陰性がでるまで退院できません。しかし次から次へと新しい感染者は出てきます。元気なのに外に出られない多くの患者が全国の病院に入院していたのです。そして一見元気に見える患者さんの世話をするたくさんの医療従事者がいたのです。

しかも彼らは勤務スタッフのシフトに苦慮していました。保育園と学校は休み。子供のいる医療スタッフは自分の仕事と、家族のケア。経験をしたことがない事態に陥っていたのです。そして見舞客の全面禁止。これも小児病棟などにも大きな影響がでました。家族が食事介助などをしてくれていた病室にも多くのスタッフの手が必要になりました。

その医療スタッフからの声を聞き軽症者および濃厚接触者の隔離施設の設置を関係各所に働きかけていました。知り合いに聞いては「誰に言えばいい?」とコツコツとやっていました。それがある日実現したと聞いたのは新聞社の友人からのメールでした。初めての公共施設の隔離施設。待ち望んだものです。これがまず私のやった医療従事者の方の支援でした。

震災のときの経験で、自分が正しいと思うことをつるまず、騒がず粛々と、周囲の信頼できる方に相談しながらやれば多くのことができると体感していたからです。今回も同様です。たまたま医療に近いところにいる私ができることがあるはずと思っていました。

ウイズコロナの時代。自分の仕事や命を守ることが大切です。そしてそれぞれが自分の本業で活かしたネットワークや経験で、誰かのためになることをやり続けていくことも必要です。第二波は必ず来ます。ワクチンができることが理想ですが世界の人がほとんど打つのは難しいかもしれません。私たちの共通の敵を迎え撃つには、まずは互いができる正しいことをやることかもしれません。



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