見出し画像

松山充宏著『桃井直常とその一族』を刊行します

10月の新刊、松山充宏著『桃井直常とその一族ー鬼神の如き堅忍不抜の勇将』(中世武士選書49)が刷り上がって参りました。

https://www.ebisukosyo.co.jp/item/700/

 刊行に先駆けて、下記に本書の「はしがき」をアップしました。著者の松山先生による桃井直常をはじめとする桃井一族への想い、執筆方針や本書の読みどころ等がまとめられていますので、ぜひご覧ください。

はしがき

 はじめに、「桃井」という苗字をどう読むか。「もものい」と読んだ人、正解です。
 本書で取り上げる桃井氏は、室町幕府を開いた足利氏の一門である。苗字の地である桃井郷は、群馬県が誇る上毛三山のひとつ榛名山の麓にあり、湧水に恵まれた「百々ノ井」を語源とする。南北朝時代、主だった桃井一族は、本家の足利尊氏が京都で開いた室町幕府に仕えた。桃井氏の足跡は、北は東北の山形、南は九州の大分まで広がっている。
 一族の中でも、桃井といえばこの人という武士が、桃井直常である。猛将として語られることが多かった人物だが、兵法に通じ、朝廷との交際も万全という、理知性を備えていた。足利尊氏と弟の直義が争う「観応の擾乱」が起きると、現在の富山県を治めていた直常は、直義に味方した。
 兄弟げんかの結果、直義は敗れて失意のうちに没した。ところが、直常は尊氏に反抗し、北陸で戦い続けた。直常は何回負けても勢力を盛り返し、劣勢でも立ち上がった。北陸から京都・関東へ縦横無尽に駆けた神出鬼没の猛将は、二度も将軍を京都から放逐した。そして尊氏の孫が将軍になったころ、最後の合戦を終えた老将は、山の奥深くに去った。「直常ついに行方知れず」というニュースは、南北朝の動乱をつづった軍記物『太平記』を締めくくることとなった。
 室町時代、桃井一族は室町幕府・鎌倉府体制に組み込まれていった。武芸の道を進む者だけでなく、文化人や宗教者としても活躍した。桃井氏とゆかりがある人物も多い。最後の足利将軍を西へ追い払った織田信長もその一人である。信長が好んだ幸若舞を作曲したとされる武士、そして謀叛に遭って横死した本能寺を創建した学僧、どちらも桃井氏出身で、直常の近親だったことを知る人は少ない。
 本書は、桃井一族の事跡や伝承について、鎌倉時代以降、室町時代までを中心にまとめた。南北朝時代は、史料に恵まれた直常・直信・直弘らの兄弟、そして一族の盛義に頁を割いた。そして謀反人だった桃井氏が、室町時代に幕府で復権できた謎にも迫った。復活の陰に、朝廷と幕府の結節点とな
る高貴な女性の姿が見え隠れしている。他の一族の動向や所領、史跡、伝承にも章を置いた。
 なお、本書は北朝の年号で記述し、一部は南朝の年号を併記した。典拠史料・記録名を各所で提示したが、史料名が長いものは最初に掲げる箇所を除き略称とした。『太平記』ほか後代の軍記物の記述も、検証しながら引用した。また、桃井氏は室町幕府の政治を主導した家ではないことから、桃井
氏側が客体となる記述も多い。これらの点をご理解のうえ、お読みいただければ幸いである。
 おわりに、「もものい」氏の子孫が、今日「ももい」を称している例もある。現在では、どちらも正解といえるだろう。
  二〇二三年七月
                             松山充宏
--------------------------------------------------------------------------------------

 南北朝内乱を描いた「太平記」のラスボスとも言われる直常のみならず、とにかく桃井氏の関連史料・伝承・史跡を博捜した、桃井一族の伝記の決定版と言って過言ではないと思います。それもそのはず、著者の松山先生は高校時代から桃井氏研究を始められた、まさに筋金入りの桃井氏研究の第一人者なのです。
 そんな松山先生の愛に溢れた『桃井直常とその一族』をぜひご堪能ください。読了後、きっとあなたも桃井氏が好きになっているはずです。

 さて、「中世武士選書」シリーズも気付けば次が50巻の節目となります。はたしてどのようなテーマになるのか?楽しみにお待ちください。
                             文責:丸山

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?