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世界は1つのピラミッドなのか?

概要

トップに表示している画像(の左側)のように、社会の格差や階層を示すためにピラミッド型が良く使用される。
しかし、本当に世界は1つのピラミッド型でしかないのだろうか。
何か評価軸が少なすぎるのではないか…?
という疑問を持ったので、少し整理してみる。

結論として、私は評価軸ごとにトップが存在する状態(トップ画像右側の姿)が本当じゃないか?と思っている。
特に絵やゲーム製作など、創作に関わる分野が顕著で、トップは一つではなく多様に枝分かれしている様に見える。
ピラミッドは一つの評価軸であり、違う評価軸のピラミッドがいくつもある、というのが近いかも知れない。

あくまで今回は著者の思想の話だが、ある程度言われている内容も参考にしながらまとめてみた。

実際の数との乖離

見えるけど、見えないもの

単純に考えて、成功者など一握りどころか数えるほどしかおらず、それ以外の方が圧倒的多数だ。
綺麗なピラミッドは、ちょっと頑張って登れば行けそうに見えるが、実際には登竜門となる箇所がいくつもあり、そこで圧倒的な差が生まれる。(下図左)

左:トップ以外の方が圧倒的に多い
右:ジャンルを応援している人に見えているのはトップだけ

同時に、”アクション映画が好きなんだよね”などのようにファンとして言っている場合、大体はトップの一部を指しており、Z級どころかB級のことですらないのがほとんどだろう。(上図右)

これはだからどうしたという話ではなく、”自分が見たものが真実”ということですら実は違っている可能性があるという話。
自分はその界隈を全て知っているつもりでも、見えていないものは見えていないのである。
(知ってなければいけないという話でもない。全て知ったら楽しめなくなる可能性も高い)

中庸は目立たない

作品も人間も、真面目でまともで凡庸なものは目立たない。
実際には低空飛行で食うや食わず、あるいはギリギリ食って行けているような層がほとんどだが、世間で目にするのはトップの華々しい話か、最下層の悲惨な姿が多い。

中層のことは誰も知らない
あるいは、下層として一緒くたにされる(それでなんとか生活出来ていたとしても)

ここでも言っておくが、中層が凡庸がどうかだとか、だからどうという話ではない!
あくまで、中層は外部から目立たず、トップ以外全部失敗だと思われがちだね、という話を書いているに過ぎない。
実際には鳴かず飛ばずでも頑張ってる中層がほとんどを占めているし、そうした中層も筆を折らずにずっと生きられる社会の方が、私は豊かだと思うし好きだ。

最終ゴールは1つなのか?

たくさんの頂点

ピラミッドの頂点、というのは、言い換えれば:

  • 売り上げナンバーワン

  • 知名度ナンバーワン

  • 評価ナンバーワン

  • ジャンルナンバーワン

  • 感情の引き立てナンバーワン

を全て曖昧にまとめ上げたものを指すことが多い。
この辺りは揶揄にも使われがちで、
「売り上げが多いからハンバーガーがナンバーワンの食品」
「知名度だけ高い」
「この監督は分かっていない」
など色々荒れる話題につながる。

これは結局異なる評価軸をまとめて一つのピラミッドにしてしまっているためであり、それぞれ:

  • 市場価値の高さ

  • 宣伝力/口コミされやすさ

  • 理解されやすさ

  • ジャンルの方向性にどれだけ沿っているかどうか

  • 心理作用(楽しさ、興奮、感動)

という独立した評価軸で見ることが可能(1対1ではない。あくまで例)
市場価値は誰もが理解出来る評価軸だが、作品や商品はそれだけで”絶対的な価値”が決まるわけではない。
道具なら使いやすさ、ゲームなら感情の動かしかた、人間なら何を重視するか…といった軸も重要になってくる(大体年収や市場価値、あるいは書き手がマニアならマニアックさだけでピラミッドが描かれがち)

いろんな”価値”がある。
下の二つは「左:マニアとしての評価≒ジャンルとしての方向性」
「右:新規でも楽しめるかどうか≒心理作用」

それぞれの軸に正当性があっても、互いに交錯させたり、Funの話に売り上げを持ってきたりすれば、議論がダンスするのは当たり前ではなかろうか。

逆に言えば、こうした軸それぞれに分けて考察すれば…定量的なモノのは事実でしかなく、定性的な評価軸は個人の感想じゃないの?と言われて終わりである。

主観的な感想も客観的な評論も大事である。
単に、主観を社会全般の事実として書いたり、客観的な評論をもって主観的感想を否定するのは間違っているだけ。
あくまでそれらは独立している。

理解のしやすさと究極性

さて、創作の話に移ってみれば、(たとえば絵画なら)全てにおいてトップの神絵師なんてのは存在しない。
単純に分けても、芸術には多様な流派があり、どの方向がどれよりも優れているということは全くない。
(そう思うのなら、それは主観的感想だ。”そう思う”のは許される)

よく「究極の」○○という単語が使われるが、個人的にこの単語はあまりに範囲が広すぎると思っている。
究極とは反対の凡庸な作品であっても、理解出来る人にとっては究極性を見いだすかも知れない(それは絵描き側ですら気づかないコトかも知れない)

誰にも理解されない究極もあれば、誰しもが感銘を受ける究極もある。
究極も結局はBeyondであり、どの境界に対しての沙汰(境界/向こう側)なのかの定義は無い。
(正気の沙汰と狂気の沙汰の”沙汰”に、絶対的な定義はない)

流行っている中に究極はあるが、誰も知らない究極もある

本当に誰にも理解されないけど素晴らしい究極なんて存在するのか?というのは真っ当な疑問だが、そうしたものは理解された後世において再評価されるものもあり、一生評価されないものもある。
価値は社会の中だけではなく、絶対ではないが個人だけが持つ基準や、知らない存在の中にもあるかも知れない、というくらいの話だ。

議論の誘導

ピラミッドの図は究極的にわかりやすいため、多用される。
しかし、あくまでそれだけであるため、真偽不明の話が絡めば、議論を自分が好ましい結果になる評価軸に誘導可能だ。

左:人間性の話でもあるのに、年収の軸を混ぜて議論を呼ぶ
右:独自性の話をするときに、売り上げを軸にしたピラミッドで議論を呼ぶ

この論理の組み立ては一概に間違いと言えないのがミソで、余裕のある人間の方が優しかったり、売り上げが高いものに強い独自性があることもままある。
しかし、数件のエピソードで世界が全て決まっていると言われたら…、それはなんか救いがなさ過ぎるんじゃないかな。

おわりに

ピラミッド図の利点

ピラミッドは軸を複数持った世界に適用すると必ず言い争いが起こるが、一つの軸を端的に表すのに都合が良いのも確かである。
(それはそれでプロパガンダだが)

逆に、このピラミッドが絶対であり、下は上に行けないという印象を与えれば、それはそれで格差の固定化を招くあくどい使い方も出来るだろう。

単純でわかりやすい図だからと、それを絶対視せず、多様な社会の中で柔軟性を注視しているなら、「本当にそうなのかな?」と疑問に思うことが、情報社会で人生の目的を探しながら生きる上で、大事なんじゃないかな~と思うのでした。


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